これで、おしまい
結局一睡もできぬまま朝を迎え、鳰は自分でもそれと分かるほど酷い顔で登校しなければならなかった。
昨日まであれほど鮮やかだったはずの通学路の景色は、すべて鈍い灰色に沈んで見えた。教室でかがみと顔を合わせる瞬間を想像するだけで、終わりを告げられる胸が重苦しく押し潰されそうになる。
「……ひどい顔やな」
昇降口で靴を履き替えようとした瞬間、頭の上から声をかけられた。振り返ると、そこに立っていたのは白井耀太だった。
「……今、あんたに構ってる余裕ないから」
鳰は吐き捨てるように冷たく返答し、視線を逸らそうとする。だが、続く白井の言葉が鳰の動きを完全に止めた。
「十二里ちゃんとも、あの時と同じ終わり方にするんか?」
その一言に、鳰の頭の中で何かがぶちりと切れた。抑え込んでいた感情が決壊し、激しい眩暈とともに激情が突き上げる。
「……あんたに、私の何が分かんのよ!」
下駄箱の前で、鳰は血走った目で白井を強く睨みつけ、距離を詰めた。
しかし、白井は眉ひとつ動かさず、静かに、そしてどこか哀しみを孕んだ冷徹な眼差しで鳰を見下ろした。
「分かるよ。……俺は鳰のこと、小学校の頃からずっと見てたんやから」
もし学校で鳰と顔を合わせたら、いつも通りに笑って接することができるだろうか。そんな消えそうに重い不安を抱えたまま、かがみは登校した。
だが、始業のチャイムが鳴り渡っても、鳰の机は空席のままだった。
かがみのスマートフォンに、鳰からの通知は一通も届いていない。昨日の映画館からの帰り道、気まずい沈黙のまま解散して以降、二人ともメッセージを送り合っていなかった。
夏見やさきに「鳰、どうしたのかな?」と尋ねてみても、「かがみが知らないのに、ウチらが知ってるわけないじゃん」と返されるばかりで、かがみ自身も呆気に取られてしまった。
最初の休み時間、いてもたってもいられなくなったかがみは、昇降口へと向かい下駄箱を確かめた。
そこには、鳰の外履きが整然と置かれていた。
――彼女は、間違いなく学校に来ている。
それから授業の合間を縫っては、かがみは校内を必死に探して回った。図書室、特別教室、トイレの個室の前を通るたびに胸がざわついたが、どこにも鳰の姿はない。
そもそも、仮に鳰を見つけ出せたとして、自分は彼女になんと言えばいいのだろう。それすら分からぬまま、ただ足だけを動かしていた。
気がつけば、すでに四時間目の授業が終わろうとしていた。
校舎は昭和の半ば頃に建てられ、何度も改築と増築を繰り返してきた結果、まるで迷路のように複雑な構造をしていた。かがみたちが普段使っている教室は比較的綺麗な新館にあるが、使用頻度の少ない特別教室や倉庫は、陽の当たらない旧校舎の奥深くに追いやられている。
――あそこなら。
かがみの頭に、ひとつだけ強い心当たりが浮かんだ。
四時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響くと同時に、かがみは弁当箱も持たずに教室を飛び出した。
――鳰、本当の気持ちを教えてよ。
心からそう願っていた。たとえ鳰が口にする本心が、自分たちで築いてきた数年間を全否定するような、自分にとって酷く苦しいものであったとしても――誤魔化されたままよりは、ずっといい。
「十二里ちゃん!」
渡り廊下へ向かって早足で歩いていたかがみは、背後から急に名前を呼ばれ、弾かれたように足を止めた。振り返ると、息を切らした白井が立っていた。
「白井くん……一昨日はありがとう。ごめんね、私、今ちょっと急いでて……」
「鳰のことやろ」
再び踏み出そうとしていたかがみの足が、ピタリと床に縫い付けられた。
「白井くん……鳰のこと、何か知ってるの……?」
「黙っててごめん。実は俺、あいつとは小学校が一緒やってん。誰にも言うなって鳰に強く言われてたけど……今朝の鳰、絶対普通じゃなかったから」
「……っ、何を知ってるの!?」
渡り廊下に、自分でも驚くほど鋭く大きい声が響き渡った。かがみは思わず自分の口元を押さえたが、白井から視線を逸らすことはできなかった。
「俺も全部を知ってるわけやない。けどあいつ、小六の頃に女子の間でトラブルになって……」
「えっ……」
鳰の口から、過去のそんな出来事をただの一度だって聞いたことはなかった。かがみは息を呑む。
「それから、表向きは仲直りしたことになって終わったんやけど……それからのあいつ、眼が変わったんや」
白井は、かがみの知らない鳰の過去について、自分の知る限りの事実を飾らずに語った。
鳰が陰で心ない悪口を言われ、信じていた友達から惨い裏切りに遭っていたこと。そして、それほど酷い仕打ちを受けながらも、鳰はずっと笑っていたこと――。
「……白井くんだけが、気づいてあげてたんだね」
「俺はただ、気づいてただけや。……なんもしてやれへんかった。高校に入ってまた鳰と再会した時、あいつの眼がキラキラしてたから、勝手に安心してたんやけどな」
「キラキラ……?」
「きっと、十二里ちゃんがいたからやと思う」
誰もいない渡り廊下に、秋の冷たい風が吹き抜けていく。
白井のその言葉が、かがみの冷え切っていた胸の奥に、ポツリと小さな灯火を点した気がした。




