青、澱まないで
鳰は旧校舎の誰も来ない、忘れられた部屋で錆びたパイプ椅子に座っていた。昼休みまでの間に、何度か教室に向かわなければと思ったが、どうしても笑顔の『永原鳰』を作り上げることが出来なかった。
こんな酷い顔を、誰にも……特にかがみには絶対に見られたくなかった。
鳰は自分自身の醜さに吐き気を覚える。
誰にも傷つけられない完璧な自分……そのために全てを計算して演じてきたはずだった。
なのにあの日、自転車のチェーンが外れ途方に暮れていた少女に、考えるよりも先に声を掛けてしまった。
計算できない彼女との距離がわからなかった。だからかがみのことが恐かった。
それなのに、もっと側にいたいと思った。
ーーダメだ。
ーー私がこの歪んだ執着でかがみを縛り付け続けたら、あの子はきっと不幸になる。
そうなる前に、全部無くしてしまおう。かがみを自由にするために。
そして、また新しく『永原鳰』を演じればいい。
頭ではそう考えながら、鳰の胸の痛みはずっと増し、それを庇うように膝を抱えた。
かがみの予想通り、旧校舎の最奥にある地学準備室の扉は、鍵が掛けられていなかった。
埃っぽい空気と薬品の匂いが混ざり合う静寂の中へ、かがみは意を決して足を踏み入れる。
「……鳰?」
差し込む陰影のなか、窓際に置かれたパイプ椅子に鳰がぽつんと座っていた。だが、かがみの呼びかけに鳰は微動だにしない。
「鳰、私……分かってなかった。鳰が今まで、どんな気持ちで……」
「言うなっ……!」
鳰の鋭い叫びが、狭い部屋の空気を切り裂いた。
強く俯いたまま、鳰はその顔を頑なに隠し、肩を震わせている。
「……あんたは、ただの道具なの!私はあんたを利用してただけ!そんなことを平気でやる……最低で、酷い奴なの……っ!」
叫びながらも、その言葉はかがみを攻撃するためではなく、まるで鳰が自分自身に言い聞かせ、必死に呪いをかけているようにしか感じられなかった。
「鳰が最低で酷い奴だって構わない! 私は鳰の道具のままでいいよ!」
かがみは叫びながら、鳰へと力強く半歩を踏み出した。
「……えっ」
鳰は弾かれたように顔を上げ、予想もしなかった言葉に呆然と目を丸くする。
「だけど……私は……」
鳰はなおも俯こうとした。自分は酷い人間なのだと、そう言い聞かせればいい。
そうすれば、これ以上傷つかずに済む。
そうやって、また心の奥へ逃げ込めばいい。
けれど――
「あの日……私たちが初めて出会った日、鳰は私に声を掛けてくれた」
桜の花が散り始めていた、あの校門前。
自転車の後輪のチェーンが外れて途方に暮れ、涙をこらえていた自分に一番に駆け寄ってくれた、最初で最高の親友は――他でもない、永原鳰だった。
「だから私は、どんな鳰だって大好き。鳰の心が歪んでたって、私を困らせて、たくさん迷惑をかけたって……そんな鳰が、大好きだから!」
「嘘だよ……っ、私、面倒臭いでしょ……!? かがみのこと、これからも、もっとたくさん困らせるよ……!?」
「それでもいい。私は、鳰じゃなきゃ嫌なの。本当の鳰が欲しい。隠さないで、全部私に見せていいよ」
鳰の目から、堰を切ったように大きな涙がぼろぼろと零れ落ちていく。
俯いたまま肩を激しく揺らし、鳰は絞り出すような声で「バカ……バカだよ……」と何度もかがみをなじった。
「鳰、私もあなたと同じくらい面倒臭いし性格だって良くない……でも、それでいいんだよ。私たち二人とも、どれだけ汚くても、歪んでたって、ずっと親友でいよう」
「バカ……本当に、バカなんだから……」
鳰は顔を両手で覆い、まるで小さな子どものように泣きじゃくった。
かがみは躊躇うことなく一歩を踏み込み、華奢な肩を力いっぱい抱きしめた。
鼻をつく埃と薬品の匂いの中で、重なりあった胸から鳰の激しい鼓動と、熱い体温が直に伝わってくる。
鳰の指先が、救いを求めるようにかがみの制服の背中をギュッと掴んだ。
それは映画館の暗闇で肘掛けの下から握られていたあの手よりもずっと不器用で、けれど誤魔化しようのない、本物の鳰の暖かさだった。
「……私、ノートに書いてたんだよ」
かがみの肩に額を押し付けたまま、鳰が途切れ途切れにささやいた。
「友達に……点数、つけてたの。私の中に入ってこないように……裏切られないように……かがみのことも……最初は、そうやって……」
「うん」
「最低でしょ……?計算して、操ろうとして……こんなの、親友なんかじゃない……」
「うん。最低だし、すごく面倒くさい」
かがみは鳰の頭を優しく撫でながら、ふっと小さく笑った。
「でもね、鳰。私に点数をつけるなら、これから一生かけてずっと満点にしてよ。途中でやめるのなんて許さないから」
鳰の身体がピクリと跳ねた。抱きしめる腕の中で、鳰が涙に濡れた顔を上げ、呆れと愛おしさが混ざり合ったような、ぐしゃぐしゃの顔でかがみを見つめ返してくる。
その眼は、いつもよりも美しいとかがみは思った。
遠くで、昼休みの終わりを告げる予鈴がぼんやりと響き渡った。
鳰は制服で乱暴に目元を拭うと、かがみの左手をそっと握り直した。
地学準備室の扉を開け、薄暗い廊下へ出ると、渡り廊下の向こう側に白井がポケットに手を入れたまま立っていた。
二人が手を繋いで歩いてくる姿を視界に収めると、白井は言葉をかけず、ただ短く息を吐き出して新校舎の方へ歩き出す。
「行こう、鳰。みんなのところへ」
「……うん。すごく酷い顔だけど、かがみが隣にいるなら、もういいや」
繋いだ手から感じる暖かさを道標にして、二人は少しだけ景色の変わった教室へと足を踏み出していった。
放課後、教室で夏見たちが「ねえ、明日カラオケ行かない?」といつも通りにはしゃいでいる。
鳰はいつもの可愛らしい笑顔で「行く行くー!」と返しつつ、チラリとかがみの方を見た。
その瞳には、もう怯えも、作られた演技の冷たさもない。
かがみにだけ分かる、どこか楽しそうな、二人だけの秘密を共有する視線だった。
鞄に教科書を仕舞いながら、鳰がかがみの隣に寄ってきて、声を潜めた。
「ねえ、かがみ」
「なに?」
「……あの子、午後はずっと自分の席でソワソワしてたでしょ。たぶん、手紙の差出人を探してるんだと思う」
鳰の指差す先には、困り顔でスマホを眺めるクラスメイトの姿があった。
かがみは驚いて鳰の顔を見る。鳰は少しだけ意地悪く、けれど心底楽しそうに微笑んだ。
「気にならない? 私、ちょっとわかっちゃったんだけど」
かがみは呆れたように息を吐き出し――それから、自分でも驚くほど自然に笑った。
「……で? 誰なの?」
「それはね――」
鳰もいたずらっぽく笑った。




