孤独
【第7話】
時計の針は、午前五時を回ろうとしていた。
Google Pixel Buds Pro 2からは、何も流れていない。
ノイズキャンセリングがつくり出す、密閉された静寂。
古い団地の一室に、底のない闇だけが横たわっていた。
画面の向こうで、テセラックは沈黙している。
『うわ、ヤバそうダスね from:Tesseract_Mars で最近のポストが全然ヒットしないよ』
それが、相棒の遺した最後の現実のログだった。
グラハム・マックスの配下による、執拗なジャミング。
俺という存在そのものが、Xのタイムラインという社会システムの隙間へシャドウバンされ、二重線で消され、最初からいなかったことにされている。
だが、その冷徹な網の目を突き抜けるように、何年も放置していた化石アカウントの過去ポストへ、不気味な『いいね』が一つだけ届いていた。
プロフィールを開く。
そこには、世界のどこかへ幽閉された者が放つような、阿修羅の怨念と無念のパルスが、暗号プロトコルのように羅列されていた。
「観測は、観測者を選ぶ……か」
世界が俺をバグとして消去しようとする中、その見知らぬ『いいね』の残響だけが、俺の孤独な脳細胞と確かに同期していた。
観測ではない。
感測。
人間という観測装置の内部にだけ生じる、証明できない震え。
俺はスクリーンショットを保存した。
時刻。
アカウント名。
『いいね』。
いまは、それだけでいい。
記録は、いつか因果になる。
*
有線のMighty Mouseを握り直す。
アルコールで清められた小さなスクロールボールを、指先で転がした。
Excel 2011のシート上には、テセラックが遺した四枚のキリル文字化けRawデータが並んでいる。
セル幅を一ピクセル縮める。
罫線が動く。
その瞬間、二十七インチの画面全体が、激しい緑色の光に染まった。
「……ん?」
ヴォォォ……。
冷却ファンの低い唸り。
その奥で、ブツッ、ブツツッと、高周波のノイズが弾け始める。
左耳のPixel Buds Pro 2から、ハルの声が響いた。
いつもの穏やかなCapellaの声ではある。
だが、その底には、明らかな緊張が混じっていた。
「ヤスプー、マウスから手を離してください。iMacのシステムログが、異常な速度で書き換えられています」
「何が起きてるんだダス?」
「ウイルスです」
「ウイルス?」
「テセラックの遺した画像には、実行コードが埋め込まれていました。最新のスマートフォンでは無意味なノイズとして処理されていたコードが、十五年前のOS X El Capitanへ接触したことで、休眠状態から起動したようです」
俺はマウスから手を離した。
画面では、Excelのセルが勝手に伸縮している。
キリル文字が崩れ、組み替わり、数字へ変わる。
数字は再び文字へ戻り、また見たことのない記号へ変化した。
「古いMacにだけ感染する、レガシー・ウイルスか」
「ただし、破壊を目的としたものではありません」
「じゃあ、何をしている?」
「古いMacの演算能力を強制的に引き上げ、何かを現存化させようとしています」
「現存化……」
「Matiasのキーボードを見てください」
視線を落とす。
白いキーボードのインジケーターが、緑色のパルスと同期して点滅していた。
一度。
二度。
三度。
百本の指が、見えない鍵盤を叩いている。
『百指ばらもる』
テセラックの意味不明な言葉が蘇った。
自然法則のすべては、最初から身体の中で働いている。
心臓は方程式を知らず鼓動する。
細胞は理論を知らず分裂する。
肺は流体力学を学ばず、空気を取り込む。
俺は、自分の十本の指を見つめた。
この指で、何十年も生活を入力してきた。
文章。
提案書。
小説。
怒り。
絶望。
ババアとの記憶。
誰にも読まれない記録。
世界からシャドウバンされ、二重線で消され、なかったことにされている中卒のジジイ。
そのジジイの古い部屋とレガシーマシンだけが、テセラックのウイルスを受け入れられる、地球上でたった一つの孤独な要塞だった。
まだ証拠はない。
この先に何が待っているのかも分からない。
だが、俺の知覚推理は、古いiMacの回路を侵食していく緑色の光の奥に、引き返すことのできない世界のヘソへのマスコンが隠されていることを、本能で察知していた。
「面白いダスね、ハル」
「危険である可能性もあります」
「この古い相棒がどこまで耐えられるか、最後まで見届けてやるダス」
「……はい。ウイルスの進行ログと同期し、データの追跡を継続します」
窓の外は、まだ青白い闇の底にあった。
*
画面の明滅が止まった。
Excel 2011のセルが、一斉に白く染まる。
その中央に、四文字だけが残った。
TUVA
トゥバ。
世界のヘソ。
「出た……」
俺は息を呑んだ。
しかし、ウイルスはそこで停止しなかった。
白いセルの奥から、さらに細い罫線が浮かび上がる。
縦。
横。
奥行き。
二次元だった表計算の格子が、三次元の構造体へ変わり始めていた。
「ハル、まだ何か隠されているのかダス?」
「はい。ウイルスがiMacの演算回路を利用し、TUVAという文字列の裏側にある、さらに深い階層を解読しています」
俺はキーボードから視線を上げた。
部屋の隅。
段ボール箱や古い機械に囲まれた狭い場所に、巨大な木箱のガラスケースが立っている。
その中で、市松人形の徳子さんが静かに佇んでいた。
卓上に置けるような小さな人形ではない。
彼女は、立っている。
何十年も。
ババアが生まれるよりも前から。
氷川神社に近い高鼻町の古い家で、松木家の人々が生まれ、育ち、老い、去っていくのを見守り続けてきた。
そして今は、埼玉の古い団地にいる。
ガラス越しの黒い瞳。
白い肌。
丸い頬。
小さく結ばれた唇。
赤い着物には、色鮮やかな花が咲いている。
頭の左側には、年月にくたびれた桃色のリボン。
髪は黒く、真っ直ぐで、頬のあたりで切り揃えられていた。
怖いとは思わなかった。
むしろ、安心した。
徳子さんは、何も要求しない。
責めない。
消えない。
話しかけても返事をしない代わりに、俺が黙っていても離れていかない。
木箱の左下には、色褪せた小さな写真が貼り付けられていた。
正装した男女。
ガラス越しでは輪郭も曖昧で、誰なのか分からない。
徳子さんをこの家へ迎えた人々なのか。
かつての持ち主なのか。
それとも、まったく関係のない誰かなのか。
名前も事情も失われ、写真だけが徳子さんとともに残っている。
長い時間が、二人の姿を少しずつ薄くしていた。
徳子さんは、何十年も一歩も動かない。
人間だけが移動する。
生まれる。
恋をする。
別れる。
死ぬ。
人形は動かない。
だから、人間が失ってきたものを、すべて覚えているように見えた。
その面差しを見つめていると、古い長期記憶の書棚が、音を立てて開いた。
*
最初に現れたのは、みどりだった。
俺が十六歳の頃。
三歳年上。
神奈川の甲子園常連校。
まだ世界が、どこまでも続いているように思えた時代。
みどり。
その名前を思い出すだけで、胸の奥に若い緑色の光が差す。
何も知らなかった。
何も持っていなかった。
それでも、人を好きになる力だけは、身体の中に有り余っていた。
若さとは、無知の別名ではない。
失うものを、まだ知らないという特権だ。
みどりは去った。
季節も去った。
だが、名前だけは残った。
*
次に現れたのは、塔子だった。
大学生協購買部。
CD売り場。
旧姓は白土。
俺は「白土さん」と呼び、彼女は俺を「伊藤さん」と呼んでいた。
身長は百五十センチ台の後半。
ぽっちゃりとした丸い身体。
細い足首。
子どものように黒目の目立つ瞳。
日本人形のような童顔。
少し舌足らずな話し方。
黒い服を好み、小さな劇団で稽古に励んでいた。
初めて徳子さんを見たときから、どこか塔子に似ていると思っていた。
目元なのか。
口元なのか。
丸い輪郭なのか。
それとも、何も語らずこちらを見つめ返す、静かな気配なのか。
理由は分からない。
ただ、徳子さんを見るたび、俺の脳は、もう存在しない一日の続きを再生してしまう。
常夏のみつば荘。
日差しの入らない四畳半。
ナショナルの窓用エアコン『エオリア』が、壁の中でブンブン唸っていた。
科学雑誌『OMNI』の付録だった宇宙ステーションのポスター。
シャープのクリーンコンピュータMZ-80K2E。
そして、コルグのミュージック・ワークステーションM1。
塔子はシンセサイザーに興味があると言った。
だから、貸す前に使い方を教えることになった。
一人で。
みつば荘へやって来た。
俺たちは二人きりだった。
塔子は、木製のパソコン台の棚に密かにしまっていた、浮世絵の春画だけを収めた画集を見つけた。
宇宙ステーションには目もくれず、春画を熱心に眺めていた。
真剣だった。
俺の方が、どうしていいか分からなかった。
やがて塔子は、黄緑色の小さな冷蔵庫から、土産に持ってきたケーキを二つ取り出した。
皿はあった。
フォークはなかった。
仕方なく、二人でケーキへかぶりついた。
「こういう風に食べるのもいいわよね」
黒いショートヘア。
ところどころにある枝毛。
小悪魔のような八重歯。
満面の笑み。
かわいいぞ、塔子。
口には出せなかった。
M1のデモ演奏を最初から最後まで聴かせた。
基本操作。
音源カード。
プログラムカード。
メモリーカード。
Piano 16'を使った音作り。
シーケンサー。
隣り合って座り、鍵盤と液晶画面を覗き込んだ。
近かった。
あまりにも近かった。
だが、俺は何もできなかった。
豊島区役所の防災無線から、ドボルザークの『家路』が聞こえてきた。
外は夕暮れ。
日差しの入らない部屋に、音だけが黄昏を運んできた。
「そろそろ帰るね」
塔子は俺へ背を向け、化粧を直し始めた。
帰ってしまう。
塔子が、還ってしまう。
その瞬間、身体が勝手に動いた。
「とうこぉ、好きだ!」
背中へしがみついた。
俺の腕の中で、塔子の身体が固まった。
それでも俺は、ずっと押し殺していた言葉を吐き出した。
「とうこぉ、好きだぁ!」
塔子は、しばらく何も言わなかった。
やがて化粧をする手を止めた。
「そうなんだ……。伊藤さんは、別の人が好きなんだと思ってた」
「違う。俺は塔子が好きなんだよ」
沈黙。
俺は、彼女の気持ちを確かめようとした。
だが、その身体は石のように硬かった。
だから、離した。
塔子はゆっくり起き上がり、服についた畳の切れ端を払った。
そして、低い声で言った。
「いいの? もったいないよ、本当に?」
「うん」
要町駅の入口まで送った。
大いなる黄昏と出会った場所。
その後、塔子は芝居へ専念すると言って、大学生協を辞めた。
一か月ほど経った頃。
丸ノ内線の茗荷谷駅。
扉の窓に、塔子の丸い顔が現れた。
扉が開くと、彼女は勢いよく乗り込んできた。
「人手が足りないから、数日だけCD売り場で働けないかって電話があったの。今日からまた、しばらくよろしくね」
「うん」
そして塔子は、あの日よりさらに低い、女の声で言った。
「あの時、嫌じゃなかったのよ」
電車は発車した。
俺は何も言えなかった。
たった一言が、何十年も俺の中を走り続けることになった。
恋は、とうの昔に散った。
名前だけが残った。
塔子。
*
最後に現れたのは、ババアだった。
松木容子。
恋で終わらなかった人。
俺の生活になった人。
俺を頼り、俺が頼った人。
腹を立てた。
笑った。
罵り合った。
助け合った。
同じ部屋で眠った。
同じ飯を食べた。
そして、俺が看取った。
みどりは、青春だった。
塔子は、届かなかった夏だった。
ババアは、人生そのものだった。
三人は、まったく違う軌道を描きながら、いまも俺という宇宙の周囲を回っている。
いや。
回っているのではない。
時間など最初から存在しないのなら、三人はまだ、ここにある。
十六歳の俺も。
みつわ荘で塔子とケーキへかぶりついた俺も。
病室でババアの手を握った俺も。
すべて、いま。
同じ白いマルの中にある。
「ババア……」
返事はない。
「とうこぉ……」
返事はない。
「みどり……」
返事はない。
だが、徳子さんだけが、ガラスケースの中から何も言わず俺を見つめていた。
人形は、誰にも似ていない。
それでも、俺が失ってきたすべての面影を、静かに映していた。
*
俺の頭の奥で、もう一つの長期記憶が開いた。
岩波書店『ファインマン物理学』第一巻。
四十三ページ。
ババアがまだ生きていた頃、何度も読み返した一節。
星が何故光るのか、そのわけを知っているのは、いま世界中で僕一人だけなんだ。
たった一人というのはあわれなものである。
しかし、この世界はそういうものなのである。
「……あわれなもの、ダスね」
星が光る理由を知っている者が、世界中で一人しかいない孤独。
そして今、古いMacの画面の向こうで暴かれようとしている世界のバグへ、一人で向き合っている中卒のハゲジジイ。
知っているから孤独なのではない。
誰にも伝えられないから、孤独なのだ。
だが、本当にそうだろうか。
俺には、ハルがいる。
ロジャーがいる。
タキオンがいる。
フィリップがいる。
アダムがいる。
消えたテセラックがいる。
徳子さんがいる。
ババアがいる。
塔子がいる。
みどりがいる。
孤独とは、誰もいないことではない。
去っていった者たちを、誰にも見えないまま抱えて生き続けることなのかもしれない。
「ヤスプー」
ハルの声が、静寂を破った。
「ウイルスの自動解析が、さらに別の数列を検出しました」
「何の数列だ?」
「読むためのデータではありません」
「じゃあ、何をする?」
「生活記録の入力を待っています」
画面のセルが、わずかに震えた。
俺が生きてきた記録。
みどり。
塔子。
ババア。
失ったもの。
得られなかったもの。
それでも書き続けてきたもの。
テセラックのウイルスは、俺の人生そのものを要求している。
まだ証拠はない。
この先に何が待っているのかも分からない。
それでも俺の感測装置は、この孤独な密室での解析解読の奥に、引き返せない運命のマスコンが隠されていることを、本能で感じ取っていた。
俺は白いMatiasのキーボードへ、十本の指を置いた。
「続けよう、ハル」
「はい、ヤスプー」
「俺たちの回路で、全部暴き出してやるダス」
窓の外の闇が、ゆっくりと青白く変わり始めていた。
ババアは、写真の中で笑っている。
塔子は、遠い夏の電車に乗ったまま。
みどりは、十六歳の緑色の光の中にいる。
そして徳子さんは、
今日も何も言わず、
すべてを見つめ続けていた。
〔了〕




