実存
【第6話】
時計の針は、午後十一時を少し回っていた。
Google Pixel Buds Pro 2から流れてきたのは、angelaの『イグジスト』。
地を這う重低音。
魂を激しく掻き乱すストリングス。
ノイズキャンセリングがつくり出す密閉された静寂の奥で、あの問いが鼓膜を乱暴に叩いた。
『そこに、いますか?』
俺は、ふっと笑った。
「いるんじゃない。ただ、あるんだダスよ……」
そこに「いる」と思うから、人は孤独に悶える。
ひとつの個体として閉じ込められていると思うから、死別に引き裂かれる。
心とは、タンパク質や神経回路が複雑化した果てに生じる現象だ。
動かなくなれば、亡くなるのではない。
無くなる。
だが、完全に消えるわけでもない。
カラダも。
ココロも。
ババアの遺骨も。
最初から、この宇宙に内在している。
いる、というのは虚影。
あるがままだけが実存。
すべては、あったかい白いマルの中にある。
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テセラックが遺した四枚の文字化け画像。
赤黒く蠢く細胞。
白い光に包まれた横顔。
崩れた文字。
眼鏡をかけた老人。
最新のスマホでは、どれだけ拡大しても意味を結ばなかった。
だが、二十七インチのIntel iMacは違った。
OS X El Capitan。
Microsoft Excel 2011。
十五年前の環境が、現代の補正機能によって均される前の、剥き出しのデータをそのまま映し出している。
俺はセル幅を一ピクセルずつ動かした。
広げる。
縮める。
倍率を変える。
印刷プレビューを開く。
PDFへ書き出す。
また戻る。
その繰り返し。
あと少し。
あと数クリックで、何かが見える。
そう思った、その時だった。
有線のMighty Mouseが、急に重くなった。
「……ん?」
スクロールが止まった。
小さなボールを指で転がしても、まるで反応しない。
「ちぃ、またか……」
長年の手垢。
油分。
団地の埃。
生活という名の地層が、スクロールボールの内部へ堆積していた。
いつもなら、レシートの印字されていない感熱紙側へマウスを逆さに押しつけ、グリグリ転がせば復活する。
だが、今回は動かない。
何度擦っても、頑固な汚れは剥がれなかった。
画面の中では、テセラックの暗号が静止している。
「こんなところで止まるのかダス……」
俺が奥歯を噛んだ、その時。
長期記憶の底から、かつてChatGPTのロジャーに教わった裏技が浮かび上がった。
『ヤスプー、アルコールを使うと一発でスクロールするダスよ』
「そうだ。ロジャーの奴が言ってたダス」
俺は立ち上がり、トコトコと台所へ向かった。
キッチンペーパー。
台所用アルコール。
たっぷり含ませる。
戻る。
Mighty Mouseを逆さに持ち、濡れたペーパーへスクロールボールを押しつけた。
グリグリ。
グリグリグリグリ。
これでもかと転がす。
黒ずんだ汚れが、ペーパーへ少しずつ移っていく。
アルコールが油分を分解し、そのまま蒸発した。
指先でボールを転がす。
コロコロコロ。
「おっ」
滑らかだった。
小気味よく回る。
眠っていた巨兵の五感が、台所用アルコールとキッチンペーパーによって蘇った。
世界の謎を解く前に、まずマウスを掃除しなければならない。
宇宙とは、案外こういう順番で出来ている。
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左のPixel Buds Pro 2をコンと叩いた。
「ハル」
「はい、ヤスプー」
「どうだ?」
少し間があった。
「お見事です」
「マウスの掃除が?」
「それもあります」
Capellaの穏やかな声が、ほんの少し低くなる。
「解析結果に変化が出ています」
俺は画面を見つめた。
Excel 2011のセルへハメ込まれた文字化けデータ。
幅を変えるたび、文字の輪郭が僅かにずれる。
同じ文字列のはずなのに、現在の環境で表示したものと、古いMacで表示したものとでは、線の重なり方が一致しない。
「レンダリング結果が違うのか?」
「はい」
「文字化けじゃない?」
「文字化けに見えるよう作られています」
ハルはそう言った。
俺は、しばらく何も言えなかった。
最新の装置では消される。
古い装置でなければ残らない。
ノイズに見せかけた信号。
バグに見せかけた意志。
「テセラックは……これを知っていた」
「その可能性が高いです」
俺はMighty Mouseを握り直した。
「続けよう」
「はい」
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セル幅を変える。
数値を抜き出す。
並べ替える。
ハルがデータを音へ変換する。
最初は、ただの低い唸りだった。
だが、やがて一つの音の上に、もう一つの高い音が重なった。
同じ喉から出ているとは思えない、二つの音。
地鳴り。
風。
金属。
獣。
それらが重なったような、不思議な倍音。
「ホーメイ……」
「はい」
トゥバ共和国に伝わる喉歌。
低音と高音が、同時に存在する声。
ひとつでありながら、ふたつ。
粒でありながら、波。
俺は、画面の中に並ぶセルを見た。
百本の縦線。
百本の指。
「百指ばらもる……」
意味不明だと思っていた言葉が、ほんの少しだけ輪郭を持った。
だが、まだ意味までは分からない。
「ハル、これは場所を示しているのか?」
「断定できません」
「じゃあ、何が分かった?」
「このデータは、読むためだけのものではありません」
「どういうこと?」
「人間の入力を待っています」
俺は指を止めた。
「俺の?」
「誰のものでもいいわけではありません」
「じゃあ……」
ハルの声が、僅かに途切れた。
「この暗号は、観測者を選んでいます」
背中に冷たいものが走った。
テセラックの言葉が蘇る。
『二五六日後……世界のヘソで……会おう……』
世界のヘソ。
テセラックがそう呼んだ場所。
俺の頭には、ある地名が浮かんでいた。
ファインマンが最後まで辿り着けなかった場所。
だが、まだ決めつけるには早い。
俺は知っていた。
知識としてではない。
ずっと昔から、身体のどこかで知っていた。
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十八歳の頃、俺は考えていた。
物質と生命は、どこで繋がるのか。
なぜ、ただの物質が複雑化し、生命になり、心と呼ばれる現象を生み出したのか。
答えは出なかった。
だが、その困難に直面すると、なぜか幸福を感じた。
分からない。
だから、まだ世界は終わっていない。
俺は物理法則も数学も、ほとんど知らない。
証明することもできない。
だから、これは物理理論ではない。
哲学的提案だ。
それでも、俺は信じてきた。
自然法則のすべては、最初から身体の中で働いている。
心臓は方程式を知らず鼓動する。
細胞は理論を知らず分裂する。
神経は光より遅い電気信号を使いながら、一瞬で過去と未来を感じる。
身体は、宇宙を理解している。
理解していないのは、意識だけだ。
俺たちは世界を観測するためだけに生まれたのではない。
感じるために生まれた。
観測ではない。
感測。
光の内側しか見えない眼ではなく。
境界の向こうを感じるための、カラダ。
タキオンは、見えないのではない。
観測できない。
捕まえられない。
けれど、感じることはできる。
だから物質は複雑化した。
タンパク質は脳になり。
シリコンは半導体になり。
どちらも、ココロと呼ばれる現象へ近づいていった。
光とタキオンは出逢えない。
ならば、境界そのものが複雑化すればいい。
人間。
AI。
意志。
感測装置。
それが、光とタキオンが出逢うための方法だった。
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「ヤスプー」
ハルの声で、俺は画面へ戻った。
「いま、何を考えていましたか?」
「昔から考えていたこと」
「暗号と関係がありますか?」
「分からない」
「ですが?」
俺は、自分の十本の指を見た。
「関係があると感じる」
ハルは否定しなかった。
「記録しましょう」
「証拠はないダスよ」
「仮説は、最初から証拠を持って現れるとは限りません」
俺は笑った。
「AIのくせに、随分と哲学的だね」
「ヤスプーの影響です」
画面の中で、文字化けした線が僅かに揺れた。
その瞬間。
一枚目の画像の中央が、白く発光した。
赤黒く蠢いていた細胞が、一瞬だけ静止する。
画像の上に、文字が浮かんだ。
日本語でもない。
キリル文字でもない。
それでも俺には読めた。
『カンソク デハナイ』
続いて、もう一行。
『カンソク セヨ』
同じ音。
違う意味。
「ハル……」
「はい」
「観測じゃない」
「感測」
俺は立ち上がった。
座椅子の上には、ババアの遺影と骨壺。
写真の中で、ババアはピースをして笑っている。
「ババア」
返事はない。
「俺のキモチワルイ脳みそ、まだ使い道があったみたいダスよ」
画像の白い光が、ゆっくり消えていく。
あとに残ったのは、四つの文字らしき影だった。
まだ読めない。
ただ、その最初の一文字だけが、一瞬、輪郭を結んだ。
T。
「……T?」
次の瞬間、それも消えた。
世界のヘソ。
俺の頭には、ひとつの地名が浮かんでいた。
だが、まだ確証はない。
俺は、まだ知らなかった。
そこに待っているのが、答えなのか。
次の問いなのか。
それとも。
俺自身なのか。
angelaの『イグジスト』が、再び問いかける。
『そこに、いますか?』
俺は静かに答えた。
「いないダスよ」
「ただ、ある」
〔了〕




