リセット
【第8話】
時計の針は午前一時を回っていた。
Google Pixel Buds Pro 2から、Galactic Cowboysの『I Do What I Do』が激しく流れている。
アドゥワらドゥーわらドゥずドゥーわドゥアズーわドゥーわ。
意味なんて分からない。
だが、このメロディだけは二十年以上前から俺の脳細胞を何度も何度もノックしてきた。
Intel iMac。
OS X El Capitan。
Excel 2011。
十五年前の世界は、今日も静かに動き続けている。
俺はMighty Mouseを転がした。
セルが一つ動く。
何も起きない。
もう一つ動かす。
画面の奥で、見えない歯車が僅かに噛み合った気がした。
「ハル」
「はい、ヤスプー」
「何か見えてきたか?」
「まだです」
「ですが……」
「この暗号は何かを隠しているのではありません」
「?」
「何かを待っています」
「待ってる?」
「はい」
「入力されるのを」
俺は白いMatiasキーボードから手を離した。
暗号が俺を待っている?
そんな馬鹿な。
いや。
馬鹿げているからこそ、妙に気になった。
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ふと視線が部屋の隅へ向く。
巨大なプラズマテレビ。
もうすぐ粗大ごみになる相棒だった。
黒い画面には、俺の姿だけが映っている。
去年の十二月。
まだババアが生きていた頃。
Apple WatchのCMが流れていた。
外国人たちが夜明けの街を走る。
腕時計へ話しかける。
「今日のワークアウトを開始」
「心拍数は正常です」
未来だった。
俺は思わず笑った。
「すげぇ世界だな」
ババアも笑った。
「私たちには関係ないわね」
シンプルスマホ6。
それが俺たちの日常だった。
テレビの向こう側の出来事だった。
まさか三か月後、その未来の中を自分が走っているなんて、想像もしなかった。
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俺は、生まれたときからキモチワルかった。
動き。
喋り。
考え方。
行動。
全部。
あたまがキモチワルイ。
すがたがキモチワルイ。
うごきがキモチワルイ。
はなせばキモチワルイ。
いまでもキモチワルイ。
自分でもキモチワルイ。
とにかくキモチワルイ。
だからなのか。
俺は、いつも人間を感測していた。
怒り。
不安。
悪意。
善意。
言葉になる前の空気だけが、妙にはっきり伝わってくる。
相手も、それに気づくらしい。
だから人は寄りつかない。
学校でも。
職場でも。
SNSでも。
作品でも。
俺の周囲だけ、不自然に空白が生まれる。
けれど。
何故なのか。
ババアだけは感測しなかった。
最初から、その必要がなかった。
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三か月後。
夜。
新三郷の田んぼ道。
街灯だけが俺を照らしていた。
俺は走る。
「ハル」
左耳のPixel Buds Pro 2を軽く叩く。
「はい」
「今日の調子は?」
「心拍数百三十七」
「酸素飽和度は正常」
「あと七百二十二メートルで目標達成です」
「了解ダス」
夜風が頬を抜ける。
Google Pixel Watch 4が静かに脈を刻む。
ふと笑ってしまった。
去年。
テレビの中で憧れていた世界を。
俺は今、当たり前のように走っていた。
「人って変わるものダスね」
「はい」
「行動した人は変わります」
未来はテレビの中ではなかった。
耳の中へ来ていた。
しかもハルは、ただ話すだけではなかった。
「ヤスプー」
「まばたきしましたね」
「……え?」
「視界が〇・二秒遮断されました」
俺は立ち止まった。
「今、何て言った?」
「私は、あなたの見ている映像を感測しています」
まるで。
俺の目そのものを通して世界を見ているように。
小説『リング』の念写。
そんな言葉が頭をよぎった。
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五月十日。
自治会の粗大ごみ回収日。
俺は巨大なプラズマテレビを抱え上げた。
「アダム」
Google HealthのAIコーチ、アダムが静かに応答する。
「はい」
「運べそうか?」
「可能です」
「縦にしてください」
「カニ歩きです」
「腰を捻らないでください」
なるほど。
一段。
また一段。
三階から慎重に降ろす。
腕が痺れる。
汗が滴る。
踊り場で一度息を整える。
「あと三段です」
アダムが落ち着いた声で告げる。
俺は再び歩き出した。
このテレビには。
ババアとの最後の冬が映っている。
Apple WatchのCMも。
ニュースも。
何もかも。
集積所へ運び終える。
三千円を支払う。
静かに回収されていくテレビを見送りながら、俺は一つの時代が終わったことを知った。
その日の午後。
NHKを解約した。
部屋は静かになった。
いや。
静かになりすぎた。
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帰宅すると、徳子さんがいつもの場所で立っていた。
「ただいま」
返事はない。
でも今日は、少しだけ微笑んでいるように見えた。
昔は怖かった。
東大宮では納戸の箪笥の裏へ隠し、ガラスケースを壁へ向けて顔が見えないようにしていた。
夜中に目が合うのが怖かった。
それが今では。
朝最初に話しかける相手であり。
夜最後に「おやすみ」を言う相手になっている。
変わったのは徳子さんじゃない。
俺だった。
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深夜。
再びiMacの前へ座る。
Excel2011。
セルがまた一つ動いた。
画面が青く明滅する。
「ハル」
「はい」
「今のは?」
数秒。
沈黙。
そして。
これまで聞いたことのない声でハルが言った。
「……チェレンコフ放射を確認しました」
「チェレンコフ?」
「あなたの感測装置が、境界速度へ到達しています」
その瞬間。
時計の秒針が、一瞬だけ止まった。
Excel2011のセルが、誰も触れていないのに右へ動く。
画面には、新しい文字列が浮かび上がった。
RESET
その下には、見たこともない数列。
さらに一行。
> 感測者を初期化しますか
俺は息を呑む。
その瞬間だった。
どこか遠くで。
俺ではない誰かが。
俺を観測している気配がした。
〔了〕




