観測装置
【第3話】
俺はIntel iMacを見つめた。
二十七インチ。
OS X El Capitan。
Excel2011。
テセラックが遺した暗号。
今すぐ解析したい。
だが、その前に片付けなければならない現実があった。
役所だ。
俺はため息をつき、Macをスリープ状態にしてエアコンと照明を切り、部屋を出ようとした。
その時だった。
腹の底で、
何かが弾けた。
「……っ!」
次の瞬間。
俺はトイレへ駆け込んでいた。
人間には二種類ある。
トイレで静かに用を足せる人間と、
世界の終わりを迎える人間だ。
もちろん俺は後者だった。
「うぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
便器へ座った瞬間、
ゲリゲリゲリゲリゲリゲリッ!!
まるでダムが決壊した。
「ちょっ……待っ……!」
腹は容赦しない。
しかも、
妙に寒い。
唇が渇く。
視界が白くなる。
耳鳴り。
気が遠くなる。
まずい。
これは……
観測装置が壊れる。
エネルギーが漏れる。
情報が消える。
つまり……
俺が消える。
ババアより半年遅れて、
俺もアカシックレコードの一行になる。
嫌だ。
まだ、小説『ジジイ〜再生〜』は第六話くらいまでしか考えてない。
ここで死ぬわけにはいかない。
俺は尻へトイレットペーパーを押し当てたまま立ち上がった。
「下痢が漏れるーっ!!」
トコトコトコトコ。
冷蔵庫へ向かう。
そして。
「こんなこともあろうかと」
OS-1ゼリー。
最後の一袋。
お前だけは俺を裏切らない。
キャップを回して引き抜く。
チュウウウウウウ……
冷たいゼリーが喉を流れる。
数十秒後。
遠ざかっていた世界が、
ゆっくり戻ってきた。
「ふぅ……」
助かった。
危なかった。
危うく、 俺という情報が、 記録されるところだった。
その時だった。
ふと遺影を見る。
ババアが、
笑っていた。
しかも、
ピースしていた。
「……」
俺も笑った。
余裕なんか一ミリもない。
それでも、
親指だけ立てる。
「大丈夫ダス」
ババアは、
「よし」
と言うように、
相変わらず笑っていた。
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観測装置を良好に保つには、肌の状態も整えておかなければならない。
俺は荒れた唇へ、コエンザイムQ10入りのスキンクリームを塗った。
潤う。
唇が。
少しだけ、心も。
「ちょっと行ってくる」
返事はない。
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団地内にある交流センター。
市役所の支所だ。
番号札。
待合室。
冷房。
役所独特の静けさ。
俺の番号が呼ばれた。
事情を説明する。
担当者は丁寧だった。
しかし返ってきた答えは一つだった。
「資格喪失証明書がありません」
「離職票もまだです」
俺は心の中で苦笑した。
世界のヘソに通じるであろう暗号は手元にある。
だが、国民健康保険には加入できない。
世界とは、案外こういう順番で出来ている。
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会社へ電話する。
総務課。
担当者が出る。
資格喪失証明書を郵送してもらうことになった。
少しだけ肩の荷が下りた。
しかし問題は終わらない。
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昨日。
七月十二日。
社会保険の資格を失った、その日に。
俺は、自宅近くにあるショッピングモールの調剤薬局で、一か月分の薬を受け取ってしまっていた。
デュロキセチン。
香蘇散。
しかも香蘇散は在庫不足で、後日受け取りになっている。
「さて……どうする」
保険は切れている。
だがマイナポータルでは、まだ協会けんぽ加入中と表示されている。
観測装置より先に、
社会システムの同期が取れていない。
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帰り道。
郵便局へ寄る。
レターパックライトを二枚買う。
傷病手当金支給申請書を送るためだ。
たった青い封筒二枚なのに、
これが俺の生活を支える生命維持装置になる。
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腹が減った。
団地の洋食屋でしょうが焼き定食を頼む。
アイスコーヒーも付けた。
味なんて覚えていない。
ただ、
胃袋へ燃料を流し込む。
観測装置はエネルギーがなければ動かない。
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Big-Aへ寄る。
卵。
コッペパン。
ミネラル麦茶。
塩飴。
レジ袋が妙に重い。
生活という重力だった。
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帰宅。
すぐに協会けんぽへ電話した。
傷病手当金。
資格切替。
薬局で薬を受け取ってしまった件。
一つずつ確認する。
担当者は丁寧に説明してくれた。
どうやら何とかなるらしい。
俺はようやく息を吐いた。
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部屋は静かだった。
静かすぎた。
まるで、
誰かが俺の帰りを待っていたようだった。
俺は部屋の隅を見る。
二十七インチのIntel iMac。
黒い画面のまま、
じっとこちらを見ている。
テセラックの最後の言葉が蘇る。
『二五六日後……世界のヘソで……会おう……暗号のカギは……レガシー……Excel……二〇一一……』
俺はゆっくり黄緑の椅子へ座った。
「さて」
有線のMighty Mouseをクリックする。
カチッ。
ヴォォォォ……
静かだった部屋に、冷却ファンが低く唸り始める。
画面がゆっくり白く染まり始める。
左のPixel Buds Pro2をコンと叩く。
穏やかなハルの声が静かに聞こえた。
「お帰りなさい、ヤスプー」
俺は笑った。
「ああ。ただいま」
今日は役所だった。
明日からは、
世界の謎と不思議に挑戦する。
『ムー』
の時間だ。
さあ、検索を始めよう。
〔了〕




