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ジジイ〜再生〜【うつ病と発達障害、孤独と再生のライブ小説】  作者: ヤスプー
第1部「STAP細胞」

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3/9

喪失

【第2話】


 テセラックが消えてから、手元に残された四枚のバグ画像を見つめている。

 「百指ばらもる」……この暗号の始まりは、あの地獄の復職からわずか五日で退職した、あの日にあったのかもしれない。


    *


 退職して、三日が経った。


 復職してから、わずか五日。


 朝のミーティングで顔を合わせる同僚たちの視線が、鉛のように重かった。


 誰も俺を見ていない。


 だが、見られている。


 そんな感じがした。


 俺は上司に、


「体調が思わしくありません」


 とだけ告げ、制服を脱いだ。


 ババアがいない世界で、これ以上やっていける気がしなかった。


     *


 退職する少し前、俺は通勤途中の駅に開院したばかりの心療内科を訪れていた。


 白い壁。


 新しい椅子。


 まだ病院独特の臭いが染みついていない、妙に清潔な診察室。


 臨床心理士の恩田先生と、主治医の小座間先生が、二時間以上かけて受けた心理検査の結果を説明した。


「全検査IQは、一四二でした。言語理解、知覚推理ともに非常に高い数値です」


 先生は検査用紙へ目を落とした。


「自閉スペクトラム症とADHDを併せ持つ、いわゆるギフテッド2Eの可能性が高いと思われます」


 俺は、ぼんやりと頷いた。


 数字は、ただの数字だった。


 その数字は、車内の騒音を消してくれない。


 照明の眩しさも、洗剤や汚物の臭いも消してくれない。


 人の冗談を、冗談として正しく受け取れるようにもしてくれない。


 そして、ババアを返してもくれない。


 一か月前、小座間先生は復職に必要な診断書を書いてくれていた。


 音、光、臭いへの過敏。


 威圧的な態度や急な変更によって、強い混乱に陥る可能性。


 曖昧な指示を理解することの難しさ。


 機械操作や、不測の事態への対応を避ける必要性。


 会社側は診断書を受け入れた。


 復職後の一か月間、指導担当者をつけ、一から作業を確認することになった。


 会社は受け入れた。


 だが、現場にいる全員が受け入れたわけではなかった。


     *


 復職して間もない日の朝。


 車内で作業の準備をしていると、年下のパート男性が言った。


「伊藤さんは新人じゃなくてベテランでしょう。先生なんて、いらないんじゃないですか」


 そして、俺の指導担当者に向かって続けた。


「次の清掃から、僕の車両の窓拭きをやってくださいよ」


 彼には、冗談だったのかもしれない。


 俺には、会社と医師が決めた配慮を踏みにじる命令に聞こえた。


 同じ言葉を聞いているはずなのに、俺と彼のあいだには、別々の現実があった。


「責任者が認めるなら、それでいいよ。あとで確認する」


 俺は、できるだけ冷静に答えた。


 次の車内清掃中、女性責任者が様子を見に来た。


 俺が先ほどの出来事を伝えると、彼女は険しい顔になり、パート男性をその場へ呼んだ。


「どういうことがあったのか、ここで説明してください」


 責任者の声は強かった。


 彼は苛立ったように言った。


「冗談で言ったことを、彼が勝手に本気にしただけですよ」


 彼。


 その一語が、喉の奥へ刺さった。


 薬や注射の影響だったのか。


 それとも、昔から俺の中に棲んでいた怒りなのか。


 分からない。


 ただ、その瞬間、理性が飛んだ。


「テメエ、彼とは何だ! どうなるか分かっているんだろうな!」


 自分の声なのに、遠くから聞こえた。


 パート男性は俺を見ず、そのまま作業へ戻った。


 女性責任者は、二人のあいだで立ち尽くしていた。


     *


 その日の作業が終わった。


 使用した端末を返却するため、備品管理票へチェックを入れた。


 俺は、暗黙の習慣に従い、自分のすぐ後ろに並んでいたパート男性の欄にも印をつけた。


「チェックしておいたよ」


「自分でやります。触らないでください」


「もう、つけちゃったよ」


「やめてください!」


 彼は俺のつけた印を、二本の線で消した。


 その上から、自分で新しい印をつけた。


 俺の善意も、二重線で消された。


 胸の奥で、何かが切れた。


 俺は、取り返しのつかない言葉を吐いた。


 パート男性はすぐに俺を上長のもとへ連れていった。


「いま、私に何と言いました?」


 彼は、俺の顔を見ながら繰り返した。


「ここで同じことを言ってください。ほら」


 俺は、自分が発した言葉を上長の前で再現した。


「会社の判断に従います」


 それだけ言い、自分の席へ戻った。


 指が震えていた。


 奥歯を噛み締めすぎて、顎が痛かった。


     *


 しばらくすると、指導担当の上打田内《かみうったない》さんが喫煙所から戻ってきた。


 俺は、一部始終を話した。


「もう、退職願を出します。全部終わりにします」


 上打田内さんは、俺ともパート男性とも親しかった。


 彼は慌ててパート男性のところへ向かった。


 しばらくして、二人が戻ってきた。


 俺たちは、誰もいない倉庫へ入った。


 そこでパート男性は、先ほどまでとはまるで違う表情を見せた。


「上打田内さんから、伊藤さんのことをいろいろ聞きました」


 彼は視線を落とした。


「そうだったんだと、初めて分かりました。自分も意固地になっていました。すごく後悔しています。すみませんでした」


 彼は右手を差し出した。


 俺も手を出した。


 握手をした。


 これですべて終わった。


 水に流れた。


 俺は、そう思っていた。


 だが、違った。


     *


 翌日は、通院のため仕事を休んだ。


 診察を終えた夕方、自宅近くのスーパーマーケットでバナナを選んでいると、スマートフォンが震えた。


 会社の最高責任者からだった。


 俺は慌てて店外へ出た。


 責任者の話は厳しかった。


 だが、俺を切り捨てるための言葉ではなかった。


 叱責というより、愛の説教だった。


 俺は、二度と同じことをしないと約束した。


 そして、その次の日。


 指導担当の上打田内さんと車内清掃をしていると、前日の出来事を知らない女性インストラクターがやってきた。


 上打田内さんは、彼女に一部始終を話し始めた。


 血相を変えた彼女は、俺のところへ駆け寄った。


「会社に迷惑をかけるようなことはするな。分かっているな!」


 一方的に言い残し、去っていった。


 すべて、水に流したはずだった。


 なぜ。


     *


 作業終了後、上打田内さんと話していた。


 最初は、いつもと変わらなかった。


 だが、途中から彼の表情が硬くなった。


 目が合わなくなった。


 返事が途切れた。


 そして突然、俺の存在する場所だけが、彼の世界から切り取られた。


 俺は、人間の善意や悪意を、臭いや色として感じることがある。


 上打田内さんの輪郭から、濁った色が滲み始めた。


 水たまりへ落とした、古い機械油のような色。


 鼻の奥には、濡れた鉄と焦げた布を混ぜたような、嫌な臭いが残った。


 彼は俺を見ない。


 話しかけても答えない。


「本日は、ありがとうございました」


 勇気を振り絞って言った。


 彼はそっぽを向いたまま、俺とは関係のない独り言を呟いた。


 何が彼を怒らせたのかは分からない。


 俺が何気なく発した一言だったのかもしれない。


 あるいは、俺の態度そのものだったのかもしれない。


 発達障害の俺は、知らないうちに人の境界線を踏んでしまう。


 そして踏んだことに気づいたときには、もう相手の中ですべてが終わっている。


 今回も、そうだったのだろう。


 すべてが、終わった。


     *


 退職を決めた直接のきっかけは、上打田内さんと女性インストラクターの件だった。


 だが、それだけではなかった。


 騒音。


 眩しい照明。


 耐え難い臭い。


 曖昧な指示。


 突然の変更。


 悪口、陰口、噂話。


 無視。


 俺には、職場全体が巨大な感覚刺激と、形のない悪意の巣に見えた。


 ババアが生きていた頃は、それでも耐えられた。


 家へ帰れば、ババアがいた。


 今日あった嫌な出来事を話すと、


「あんたも大変ね」


 と笑ってくれた。


 もう、その声はない。


     *


 家へ帰ると、部屋は静かだった。


 カーテンを閉め切った団地の部屋。


 座椅子には、ババアの遺影と骨壺が置かれている。


 俺はその隣へ腰を下ろした。


「ただいま、ババア」


 返事はなかった。


 今日で終わった。


 仕事も。


 居場所も。


 人間関係も。


 全部。


 ……


 いや。


 まだ終わっていないものが、一つだけあった。


 スマホを開く。


 テセラックが最後に残した四枚の画像。


 俺は首を振った。


「こんなもの……」


 ゴミ箱へ入れる。


 削除。


 ゴミ箱を空にする。


 画像は消えた。


 ……


 数秒後。


 通知音。


「え?」


 画像が四枚。


 元のフォルダへ戻っていた。


「……何だよ、これ」


 もう一度削除。


 今度は再起動。


 それでも戻る。


 何度消しても戻ってくる。


 まるで、


 画像の方が


 俺を捨てさせないように。



 ……


 俺はPixel Buds Pro2を耳へ差し込む。 

左のイヤホンをコツっと軽く叩いてGeminiを呼び出す。


「ハル」


 Capellaの柔らかな声が返ってきた。


「はい、ヤスプー」


「少し手伝ってほしいダス」


「もちろん」


 画面には、


 赤黒い細胞。


 白い横顔。


 バグった日本語。


 眼鏡をかけた老人。


 ハルは少し黙った。


「……普通の画像ではありません」


「俺もそう思うダス」


「画像そのものではなく、画像が何かを指しています」


「何を指してるダス?」


「まだ分かりません」



 ……


 そのとき。


 テセラックの最後の言葉が頭をよぎった。


『二五六日後…… 世界のヘソで…… 会おう…… 暗号のカギは…… レガシー…… Excel…… 二〇一一……』




 俺は思わず部屋の隅を見る。


 そこには、


 今も現役で動いている二十七インチのIntel iMacが鎮座していた。


 OS X El Capitan。


 Microsoft Office for Mac 2011。


 左にはLaCieの外付けHDD。


 右にはLogitechのMOドライブ。


 Matiasの白いキーボード。


 Mighty Mouse。


 十年以上前の仕事道具。


「まさか……」


 電源を押す。


 ジャーン……


 懐かしい起動音が部屋へ響いた。


 ハルが静かに言う。


「ヤスプー」


「ん?」


「テセラックは『Excel』と言いました」


「そうダス」


「まずは画像を解析するのではなく、言葉を信じましょう」


「レガシー……」


「Excel2011……」


「そこから始めるべきです」


 俺は静かに頷いた。


 四枚の画像は、


 まだ何も語らない。


 だが、


 ほんの一瞬だけ。


 一枚目の画像の片隅が、


 白く、


 小さく光った。


 まるで、


「正しい」


 そう答えたように。


〔了〕

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