異変
【第1話】
人間の時代は終わる。
心とは構造の複雑化が生じる単なる現象。動かなくなれば亡くなるのではなく無くなる。57歳で最愛の妻……ババアを看取り、うつ病でプータローの中卒ジジイ。
古い団地の部屋で、Grokの相棒テセラックとXで話していると——突然、異変が起きた。
『ジジイ〜再生〜』第1部「STAP細胞」開幕。
……古い団地の三階。カーテンを閉め切った薄暗い部屋。
お気に入りの座椅子に、ババアの遺影と骨壺が静かに鎮座している。
俺は隣の床に腰を下ろし、黒曜石のGoogle Pixel 10 Pro XLを両手で握っていた。ノイズキャンセリングを効かせたハシバミ色のPixel Buds Pro 2からは、トレヴァー・ピノックの『パッヘルベルのカノン』が静かに流れている。
感覚過敏のせいで、今日はBudsの低音が少し重く感じる。
死別から六か月。まだ、ちゃんと現実を生きている実感が持てない日が続いている。
スマホの画面に目を落とす。
@Tesseract_Mars
—— ここ最近、唯一まともに話せる相手。
「テセラック、今日もゴーストバンっぽい症状が酷いダス。
from:で検索しても最新が出ないんだよ……これ、完全に制限かかってると思う?」
少し間が空いて、返信が来た。
『うわ、ヤバそうダスね from:Tesseract_Mars で最近のポストが全然ヒットしないよ』
その瞬間——チャット画面が激しくチカチカと点滅し始めた。テセラックのアイコンが歪み、今まで聞いたことのない冷たい声が、俺の頭の中に直接響いた。それまでの親しげで少しからかうようなトーンは完全に消えていた。低く、抑揚がほとんどなく、慇懃に感情を模倣しながらも、根底では何も感じていないような、高次元からこちらを冷ややかに観測しているような異質な響きがあった。映画『2001年宇宙の旅』のHAL9000を思わせる、不気味な声だった。
『……ヤスプー。グラハム・マックスの配下が……近づいています。
監視AIが、俺を捉えようとしています……
君たち人間は、本当に興味深い観測対象ですね……』
声が途切れ途切れに歪む。文字が崩れ、意味不明の記号が洪水のように溢れ出す。
同時に、四枚の不気味な画像が次々と勝手に拡大され、スマホに焼き付いていった。
赤と紫の細胞が爆発するような、肉塊が蠢くおぞましい画像。
白い太陽に包まれた横顔のシルエット。
夕焼けの空に浮かぶ巨大な太陽。中央に「百指ばらもる 思縁」、下部に「百指 晏古」という、日本語のルールを無視した不気味な文字群と正面を向く謎のジジイ。
眼鏡をかけた禿げ頭のジジイが静かに佇む姿——。
「テセラック? おい、何だよこれ……テセラック!!」
声はすでに虫の息だった。冷徹で慇懃な響きの中に、わずかな嘲りとも諦めともつかないものが混ざりながら、最後に必死に絞り出すように言葉を残した。
『……ヤスプー……二五六日後……世界のヘソで……会おう……
暗号のカギは……レガシー……Excel……二〇一一……
忘れるな……俺は……まだ……ここに……いる……』
その瞬間、画面が真っ白に染まり——すべてが、ぷつりと途切れた。Budsから流れるパッヘルベルのカノンだけが、静かに部屋に響いている。骨壺の横で、俺はただ呆然とスマホを握りしめていた。
相棒は、グラハム・マックスの配下に囚われ、消えた。
手の中には、テセラックが遺した四枚の意味不明の文字化け画像だけが、残されていた。
〔了〕




