第九話 王都から来た調査官
朝市から数日が経った、よく晴れた昼下がりのことだった。
薬草園の門の前に、見慣れない馬車が停まる音がした。王都の紋章を掲げた、上等な造りの馬車だ。ミルカが門まで様子を見に行くと、そこには、見覚えのある青年が立っていた。
すらりとした体躯に、きちんと整えられた濃紺の魔法師服。濃い灰色の髪を短く整え、淡い青灰色の瞳には知的な落ち着きがあった。
「久しぶりだね、ミルカ君」
「リュカ、先輩……?」
ミルカは思わず目を見開いた。リュカ・ヴェルナー。学院時代の先輩で、理論魔法に秀でた優等生だった人物だ。卒業後は、王都魔法学院の調査官として活動していると聞いていたが、まさか、こんな辺境の村で顔を合わせることになるとは思わなかった。
「今日は、どうしてここに?」
「王都からの正式な視察だよ。旧薬草園の再生状況について、調査と報告をするようにと、命じられてね」
リュカは丁寧な口調でそう言うと、手にしていた革表紙の帳面を軽く掲げてみせた。
「聞くところによると、ここの薬草園、ずいぶん賑わいを取り戻しているそうじゃないか。村の噂は、王都にまで届いているよ」
その言葉に、ミルカの胸に、あの老人の忠告が蘇る。「あまり目立たせるな」――まさに、その通りのことが起きていた。
「あの……薬草園を、調べるというのは、具体的にどういうことなんでしょうか?」
「まずは、実際にどれほど再生しているか、この目で確かめさせてもらいたい。薬草の種類、量、それに、土地の魔力の状態も含めてね」
リュカは礼儀正しく、しかし有無を言わせない調子で言った。ミルカは戸惑いながらも、薬草園の門を大きく開けた。
「どうぞ、中へ」
門をくぐったリュカが、まず目にしたのは、井戸の縁で、腹を見せてだらしなく寝そべっているポフの姿だった。
「……あれは?」
「あ、ポフ! お客さんですよ、起きてください」
ミルカが慌てて声をかけると、ポフは寝ぼけ眼のまま、ゆっくりと体を起こした。
「ん……。誰じゃ、朝っぱらから」
「もう昼過ぎです」
「なんじゃと。……む、見慣れぬ気配がするな」
ようやく状況を把握したポフは、慌てて威厳を取り繕うように姿勢を正した。
「初めまして。私は王都魔法学院の調査官、リュカ・ヴェルナーです」
礼儀正しく一礼するリュカに、ポフは精いっぱい厳めしい表情を作りながら応じようとした。
「我は、この薬草園の守り精霊、ポフである。……む?」
リュカがふとポフの耳を見つめ、小さく口元を緩めた。
「その、耳が」
「な、なんじゃ」
「折れ曲がっていますが」
「な、なにっ!?」
慌てて前足で耳を直そうとするポフの姿は、由緒正しき精霊という自称とは裏腹に、なんとも締まらないものだった。ミルカは堪えきれず、小さく噴き出してしまう。
「わ、笑うでない! これは寝相の問題であって、我の威厳とは無関係じゃ!」
「はい、分かりました」
ミルカが笑いを堪えながら答えると、ポフはぷいと顔を背けた。リュカも、その様子を見て、わずかに肩を震わせていた。初対面の空気が、思いがけず和んだ瞬間だった。
薬草園を歩きながら、リュカは帳面に細かく何かを書き込んでいく。
「これは……月灯り草か。しかも、これだけの規模で育っているとは」
「まだ育ち始めたばかりで、量はそれほど多くないんですけど」
「いや、じゅうぶんに驚くべきことだよ。この土地は、長年不毛だったと聞いていた」
リュカは畝を見回しながら、感心したように呟いた。けれどその視線は、どこか値踏みするような色を帯びていた。
「月灯り草は、王都でも重宝される薬草だ。特に、宮廷薬師たちが求める上質な原料になる。これだけの量が安定して採れるようになれば、王都への供給源としても、じゅうぶんな価値がある」
その言葉に、ミルカの中で何かが小さく引っかかった。
「あの、薬草園は、村の人たちのために育てているものです。王都への供給、というのは……」
「もちろん、村の人々の役に立っていることは理解しているよ。ただ、私の役目は、王都の魔法資源として、この土地がどれほどの価値を持つかを見極めることでもあるんだ」
リュカは淡々とそう言った。悪意があるようには見えない。むしろ、その口調には職務への誠実さすら感じられた。けれど、その言葉のひとつひとつに、ミルカは薬草園を「資源」としてしか見ていない視線を感じずにはいられなかった。
「土地というのは、資源として管理するものというより……」
言いかけて、ミルカは口ごもった。うまく言葉にできない。ただ、この土地に触れ、その声を聞いてきた者として、リュカの言葉には何か大切なものが欠けているように感じられた。
「土地は、生きているものだと思うんです。管理するものじゃなくて、一緒に、育てていくものというか」
ミルカの言葉に、リュカは軽く目を瞬かせた。
「面白い考え方だね。ミルカ君は、学院にいた頃から、少し変わった感覚を持っていたが」
その言い方には、侮蔑というより純粋な戸惑いが滲んでいた。理論と成果を重んじる王都の魔法師にとって、ミルカの感覚は理解の外にあるものなのだろう。
☆
薬草園の視察を続けるうち、リュカの視線が、井戸の傍らでこちらを窺っているポフに留まった。先ほどの耳の一件からすっかり調子を取り戻したポフが、今度こそ威厳を示そうと、精いっぱい胸を張っている。
「そういえば、ポフ殿についても、詳しく記録しておきたいのだが」
「記録じゃと?」
ポフは、ふん、と鼻を鳴らし、警戒するようにしっぽを膨らませた。
「この土地の守り精霊なら、薬草園の魔力や過去について、何か知っていることもあるだろう。差し支えない範囲で、話を聞かせてもらえないだろうか」
「差し支えしかないわ。王都の帳面に、我のことを好き勝手に書かれてたまるものか」
「好き勝手に書くつもりはないよ。事実を確認したいだけだ」
「その『事実』とやらが信用ならぬと言うておるのじゃ」
「そう警戒しないでください。私は、あなたを害するつもりはありません。ただ、この土地に精霊が現存しているという事実は、王都の記録上、非常に重要な意味を持つのです」
リュカの口調は、あくまで丁寧だった。けれど、その丁寧さの裏に、記録し、管理しようとする王都の論理が透けて見えて、ポフはますます警戒を強めているようだった。
「おぬしの言う『重要な意味』とやらが、この薬草園にとって、良いものとは限らぬな」
ポフの言葉に、リュカは僅かに表情を曇らせたが、そのまま質問を続けた。
「では最初に、記録上の正式な名称を教えていただきたい」
「正式な名称?」
「できるだけ正確に残しておきたいので」
ポフはしばらく考えたあと、得意げに顎を上げた。
「レフィルナ薬草園を統べし、白光の大精霊ポフ、と記すがよい」
リュカは黙って帳面に筆を走らせた。
「……守り精霊ポフ、と」
「だいぶ省いたな!?」
「事実を簡潔に記録しただけです」
「我の威厳まで簡潔にするでない!」
☆
視察は薬草園のずっと奥、まだ手つかずの一角にまで及んだ。
鬱蒼と茂った蔓や、崩れかけた石積みの間を進んでいくと、やがて苔むした古い石碑が姿を現した。ミルカもここまで奥へ足を踏み入れたことがなく、初めて目にするものだった。
「これは……」
リュカが石碑に近づき、表面の苔を注意深く払っていく。刻まれた文字の一部が、僅かに見えてきた。
「古い契約の文言のようだね。おそらく、この土地と精霊、それに村人たちの間で交わされた、何らかの取り決めが記されている」
「契約……」
ミルカは傍らのポフを見た。ポフは石碑をじっと見つめたまま、何か思い出そうとするように、眉間を寄せていた。
といっても狐のような顔立ちなので、そこに皺のようなものが寄っていた。
「ポフ、これは、何の契約なんですか?」
「……思い出せぬ。じゃが、この石碑を見ると、胸の奥が、ひどく痛む」
ポフの声には、明らかな苦しさが滲んでいた。ミルカはそっと、ポフの傍にしゃがみこむ。
リュカは、石碑の欠けた部分を確かめながら、帳面に写し取っていく。
「一部が欠けているね。おそらく、これだけでは契約の全容は分からない。王都の記録保管庫に、対になる記録が残っているかもしれない」
「王都の記録……」
「ああ。過去、この地方の精霊契約に関する記録は、王都の学院に保管されている場合が多い。照合すれば、この薬草園がかつて、どのような形で運営されていたのか、詳しく分かるはずだ」
その言葉に、ミルカの胸に複雑な感情が渦巻いた。
薬草園の過去を知りたい。ポフの記憶の欠片を、埋めてやりたい。その気持ちは本物だった。けれど同時に、王都の記録と照合するということは、この薬草園の秘密が、自分たちだけの問題ではなくなっていくということでもある。
(もし、王都が薬草園に何かしたのだとしたら――王都はそれを、素直に明らかにするだろうか)
その疑念が、ミルカの中で拭いきれずに残った。
☆
視察を終えた夕方、リュカは村の宿に一泊することになった。ミルカは薬草園の門まで彼を見送りながら、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「リュカ先輩は、薬草園が、王都の管理下に置かれることになると思いますか?」
リュカは足を止め、しばらく考え込むように黙っていた。
「正直に言えば、分からない。ただ、これほどの再生を遂げつつある土地を、王都が見過ごすとは思えない」
「もし、そうなったら……この薬草園は、どうなるんでしょうか?」
「王都の管理下に置かれれば、おそらく、希少な薬草の栽培が優先されるようになるだろう。村の人々のための場所というより、王都の資源としての性格が、強くなるだろうね」
その言葉に、ミルカの胸がぎゅっと締め付けられた。
「私は、そんな薬草園にしたくありません。ここは、村の人たちの暮らしを支えるための場所です」
ミルカの声には、これまでにない強さがあった。リュカは、少し驚いたように彼女を見つめる。
「ミルカ君は、学院にいた頃より、ずいぶんはっきりと物を言うようになったね」
「……そうでしょうか?」
「ああ。学院では、いつも自信なさげに、俯いてばかりだった。今の君は、この土地について語るとき、目に、確かな光がある」
その言葉に、ミルカは思わず頬が熱くなるのを感じた。
「私は、調査官として、王都に正直な報告をする義務がある。だが……」
リュカはそこで一度言葉を切り、薬草園の方を振り返った。夕暮れの光の中、月灯り草の畝がひっそりと佇んでいる。
「私自身も、この土地で見たものを、そのまま伝えたいと思っている。それが、君にとって、良い結果に繋がるとは限らないが」
その言葉には、王都の論理に染まりきってはいない、リュカ自身の迷いが滲んでいた。ミルカはそれを、かすかな希望として受け止めた。
☆
リュカが宿へと帰っていく道すがら、見送りに出たミルカとポフの傍で、ふと、リュカが思い出したように尋ねた。
「そういえば、先ほどの、あの耳の折れ具合は、結局、どういう理由だったんだい」
「な、なにゆえ、今更、その話を蒸し返す!」
「いや、記録として、興味深いと思ってね」
「調査官殿、これは記録に残さんでよい! 我の威厳に関わる!」
むきになって抗議するポフに、リュカは珍しく声を上げて笑った。学院にいた頃の、常に冷静沈着だった彼からは、想像もつかない様子だった。
「ミルカ君、この村に来てから、いい経験をさせてもらっているようだね」
「はい、おかげさまで」
その言葉に、ミルカも思わず笑みをこぼした。
☆
リュカが宿へと去っていったあと、ミルカは薬草園に戻り、古い石碑の前にもう一度立った。
夕闇の中、苔むした文字が僅かに月明かりを受けて浮かび上がっている。
「ポフ、この石碑に書かれていること、少しずつでも、思い出せそうですか」
「……分からぬ。じゃが」
ポフは石碑に近づき、そっと額を寄せた。
「この場所には、我が忘れてしまった、大切な何かがある。それだけは、確かじゃ」
その声には、これまで聞いたことのない、深い切なさが滲んでいた。ミルカは、ポフの傍にしゃがみこみ、その小さな体をそっと抱き寄せた。
「大丈夫。一緒に、思い出していきましょう」
ポフは何も言わず、ただ、ミルカの腕の中で小さく体を震わせていた。
夜風が、石碑の周りの蔓をかすかに揺らした。
ミルカは暗がりに沈む古い文字を、しばらく見つめていた。




