第十話 優等生カリナと落ちこぼれの畑
リュカが村に留まって数日が経った、よく晴れた朝のことだった。
薬草園の門の前に、再び馬車が停まる音がした。今度は一台ではなく、二台。ミルカが不思議に思いながら門へ向かうと、リュカの傍らに見覚えのある少女の姿があった。
金色の髪を丁寧に結い上げ、透き通るような青い瞳。学院にいた頃と変わらぬ、隙のない立ち居振る舞い。
「カリナ……さん」
ミルカは思わず、体を強張らせた。カリナ・オルブライト。学院時代の同級生で、常に成績上位だった優等生だ。攻撃魔法、結界魔法、儀式魔法――どれをとっても、ミルカとは比べ物にならないほどの実力を持つ少女だった。
「久しぶりね、ミルカ」
カリナは薬草園を一瞥してから、ミルカに視線を戻した。その目には、値踏みするような色が浮かんでいる。
「リュカ先輩の視察に同行させてもらったの。警護魔法師団と学院の双方から、状況を確認するようにと言われて」
「学院からも……」
「ええ。あなたが、こんな辺境で、本当にやっていけているのか。正直、みんな心配――というより、興味を持っているのよ」
その言い方には、棘があった。ミルカは学院にいた頃の記憶が蘇り、思わず俯きそうになる。攻撃魔法も防御魔法も苦手で、いつも教師たちの呆れた視線を浴びていた自分。カリナは、その正反対の場所にいた少女だった。
「あなた、こんな辺境で本当にやっていけるの?」
カリナの声が、記憶の中の教師たちの声と重なって、ミルカの胸を締め付ける。
「……見ての通り、まだまだ荒れたところも多いですけど、少しずつ、育て直しています」
ミルカは、なんとかそう答えた。
その時、井戸の縁で、ミルカとカリナのやり取りを興味深そうに眺めていたポフが、こっそりとカリナの足元に近づいていった。
カリナがふと視線を落とすと、そこには、じっとこちらを見上げる白い毛玉の姿があった。
「な、なに、これ」
「学院の優等生さんか。ふん、噂には聞いておったが」
「しゃっ、喋った!?」
カリナが思わず一歩あとずさる。その反応を見て、ポフはこれ見よがしに胸を張った。
「我は、この薬草園の由緒正しき守り精霊、ポフである。おぬしのような、金ぴかの魔法使いは、初めてじゃな」
「き、金ぴか……?」
初対面から、いきなり失礼な渾名をつけられ、カリナは、明らかに戸惑った表情を浮かべた。リュカが横で、こらえきれずに小さく咳払いをする。
「ポフ、失礼な呼び方は――」
「よいではないか。事実を言ったまでじゃ」
悪びれる様子もなく言い切るポフに、カリナは毒気を抜かれたような顔になった。学院では、誰もがカリナに対して丁寧な態度を崩さない。こんなふうに、面と向かって渾名をつけられるのは、初めての経験だったのかもしれない。
「……変わった精霊ね」
「おぬしこそ、変わった小娘じゃな。そんな隙のない格好で、辺境の薬草園まで来るとは」
言いたい放題のポフに、カリナは思わず小さく苦笑を漏らした。
カリナは薬草園を歩きながら興味深そうに、けれどどこか懐疑的な様子で、畝を見回していく。
「月灯り草ね。確かに、育ってはいるみたいだけど……この程度の規模で、王都の視察に値するとは、正直思えないわ」
その言葉に、リュカが軽く咳払いをした。
「カリナ、彼女なりのやり方で、着実に成果を上げている。もう少し、敬意を払ってはどうだ」
「敬意なら払っているつもりよ、リュカ先輩。ただ、事実を言っているだけ」
カリナは、悪気なくそう言い切った。むしろ、それが彼女なりの誠実さなのだろう。相手に取り繕った言葉をかけるより、率直な評価を伝えることを良しとするタイプなのだ。
☆
薬草園を一通り見て回ったあと、カリナはふと足を止めた。まだ手入れの行き届いていない一角――硬く乾いた土が広がる、荒れたままの畝だった。
「ここ、まだ何も育っていないのね」
「はい。まだ土を整えている途中で。急には、変えられなくて」
「時間がかかりすぎているんじゃない? 私なら、もっと効率よくできるわ」
カリナはそう言うと、腕を軽く上げ、指先に魔力を集め始めた。
「カリナさん、待って――」
ミルカが止めようとするより早く、カリナの指先から、鮮やかな光を帯びた結界魔法が放たれた。地面全体を覆うように広がったその力は、瞬く間に、乾いた土を柔らかく変え、水分を行き渡らせていく。
「ほら、見て。これだけの規模なら、私の結界魔法で、一気に土を整えられるわ。あなたが何日もかけてやることを、これなら一瞬で済む」
得意げなカリナの声。けれど、ミルカの目には、その光景が何か違うものに見えていた。
土の中に眠っていた、まだ小さな薬草の種たち。カリナの強い魔力が地面に流れ込んだ瞬間、それらがまるで、大きな揺れに驚いたかのように震えるのを感じた。
「あ……」
地面の一部から、か細い芽がわずかに顔を出していたが、それが、みるみるうちに、力なく萎れていく。
「な、なぜ……」
カリナもその異変に気づいたのか、驚いたように目を見開いた。強力な結界魔法によって、土は確かに柔らかくなり、水分も行き渡っている。理屈の上では、何もおかしいことはないはずだった。
「これは……」
ミルカは急いで、萎れていく芽の傍にしゃがみこみ、そっと指先を触れさせた。
(怖い。急に、大きな力が来た。何が起きたのか、分からない……)
「カリナさん、この土地は……急に強い魔力を流し込まれることに、驚いているんだと思います」
「驚いている? 土地が?」
カリナは、怪訝そうな顔でミルカを見た。理論と成果を重んじる彼女にとって、土地が「驚く」という発想自体、理解の外にあるのだろう。
「土地には、土地の速度があるんです。急に何かを変えようとすると、かえって、負担になってしまうことがあって」
ミルカは萎れかけた芽に、そっと水を与えながら続けた。
「私たちが、少しずつ様子を見ながら手を入れているのは、時間がかかっているんじゃなくて――この土地が、無理なく受け入れられる速さに、合わせているんです」
カリナは、何も言わずにその光景を見つめていた。萎れた芽がミルカの手当てを受けて、少しずつ、しかし確かに持ち直していく様子を。
けれど、すべての芽が無事だったわけではない。
少し離れた場所では、強い魔力に押し上げられた土が硬く固まり、その下でいくつもの種が身動きできなくなっていた。地表へ出かけた細い根も、途中で折れ曲がっている。
「あっちの種も、苦しそうです」
ミルカは立ち上がると、隣の畝へ急いだ。
土へ指を差し入れようとしたが、先ほどまで柔らかく見えたはずの表面は、乾いた粘土のように固まっていた。魔力で急に形を変えられた土が、元へ戻ろうとして縮んでいるのだ。
「私が直すわ」
カリナが杖を上げた。
「今度は力を絞る。さっきより弱い結界なら――」
「待ってください」
ミルカは、反射的にその手を止めた。
「これ以上、魔力を加えないでください。今、この子たちに必要なのは、強い力じゃありません」
カリナの手が止まる。
「では、どうするの?」
「土を少しずつほぐします。種を傷つけないように、一つずつ」
「一つずつ……?」
カリナは畝を見下ろした。
見える範囲だけでも、土の中には何十粒もの種が埋まっている。すべて確かめるには、かなりの時間がかかるだろう。
ミルカは道具箱から、小さな木べらを取り出した。
固まった土の端へ差し込み、表面を薄く削る。少し土を取り除いては、指先を触れさせ、種の気配を確かめる。
(ここにいる。すぐ下に、根がある)
ミルカは木べらを置き、今度は指で土をほぐした。
やがて、白い根の先が見えた。途中で折れてはいない。けれど、押し固められた土に挟まれ、伸びることができずにいる。
「大丈夫。今、楽にしますからね」
ミルカは根の周りだけを少し広げ、乾いた土へ水を一滴ずつ垂らした。
隣では、カリナが杖を持ったまま立ち尽くしている。
やがて、その杖をゆっくりと下ろした。
「……私にも、できることはある?」
思いがけない言葉に、ミルカは顔を上げた。
カリナは固い表情をしていた。けれど、その青い瞳に、先ほどまでの自信はなかった。
「あります」
ミルカは、もう一本の木べらを差し出した。
「この辺りの土を、少しずつほぐしてください。ただ、深く差し込まないでください。種に触れたと思ったら、そこで止めて、私に教えてください」
「……分かったわ」
カリナは木べらを受け取った。
その手つきは、攻撃魔法や結界魔法を操るときとは違い、ぎこちなかった。
畝の前に膝をつく。上等な外套の裾が土に触れ、白い手袋にもすぐ泥がついた。
学院にいた頃のカリナなら、そんなことを気にしたかもしれない。
けれど今は、汚れを払おうともせず、木べらの先だけを見つめていた。
「このくらい?」
「もう少し浅くお願いします。土の表面を撫でるように」
「こうかしら」
「はい。そのまま、ゆっくり」
カリナは慎重に木べらを動かした。
少しずつ土が崩れ、その下から、小さな黒い種が姿を現す。
「あったわ」
カリナの声がわずかに弾んだ。
「触らない方がいい?」
「はい。周りの土だけを広げてください」
カリナは頷き、種の周囲へ細い隙間を作った。
ミルカが水を一滴落とすと、種の表面がわずかに震えた。
(苦しくない。少し、動ける)
「この子は、大丈夫そうです」
「そう……」
カリナは小さく息を吐いた。
安堵しているようにも見えた。
二人は並んで、一つずつ種を探していった。
強い魔法なら、一瞬で終わるはずだった作業だ。けれど、土を少し削り、種を探し、水を与えるには、何度も手を止めなければならなかった。
カリナの額には、いつしか薄く汗が滲んでいた。手袋は泥にまみれ、金色の髪も一房、頬に張りついている。
「金ぴか娘。鼻の頭まで土色になっておるぞ」
「そんなところに土がつくわけないでしょう」
カリナはきっぱり言い切った。
ミルカが黙って手鏡を差し出す。
鏡を見たカリナは、しばらく動かなかった。
「……いつから?」
「二つ目の種を掘り出した頃からです」
「もっと早く教えてちょうだい」
カリナはばつが悪そうに視線を逸らし、ハンカチで鼻の頭についた土を拭った。
それから何事もなかったようにハンカチをしまい、再び木べらを動かし始める。
「薬草園の手入れって、いつもこんなことをしているの?」
「毎日ではありません。でも、少しずつ確かめながら進めています」
「全部の種を?」
「できる範囲で、です。私にも、すべての声が分かるわけではないので」
カリナは手元の種を見つめた。
「学院では、広い範囲へ一度に魔法を行き渡らせるほど、優れた術式だと教わったわ」
「私も、そう習いました」
「だから、あなたが時間をかけているのは、広い範囲へ魔法を使えないからだと思っていた」
ミルカの手が一瞬止まる。
学院にいた頃なら、その言葉に傷ついていただろう。
けれど今は、少しだけ違った。
「実際、私にはカリナさんみたいな魔法は使えません」
「違うわ」
カリナはすぐに言った。
ミルカが顔を上げると、カリナは土の中の種を見たまま続けた。
「あなたが時間をかけていたのは、できないからじゃなかったのね」
木べらを握った指先に、少しだけ力が入る。
「一つずつ、違いを見ていたのね」
「……はい」
「私は、全部を同じ土として見ていた。けれど、ここにある種は、一つずつ違う」
カリナは泥のついた自分の手を見下ろした。
「さっきまで、こんな小さな種のことなんて、考えてもいなかったわ」
その声には、自分への苛立ちが滲んでいた。
「カリナさんの魔法が、悪いわけではありません」
ミルカははっきりと言った。
「きっと、急いで整えなければならない場所なら、あの力が必要です。でも、この土地には、少し強すぎただけです」
「あなたは、私を責めないのね」
「責めても、種は元気になりませんから」
ミルカが答えると、カリナは一瞬驚いた顔をした。
それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「そういうところも、学院にいた頃とは違うのね」
「そうでしょうか」
「ええ。前のあなたなら、私に何か言われたら、すぐ俯いていたもの」
ミルカは返事に迷った。自分では、今もそれほど強くなったとは思えない。けれど、土の下から伝わる小さな声を聞いている間だけは、何をすべきか迷わずにいられた。
「この子たちが、待ってくれませんから」
「それが、あなたの強さなのかもしれないわね」
カリナは再び木べらを動かし始めた。
しばらくして、固まっていた土は少しずつほぐれ、押し込められていた種も、ようやく息をつけるようになった。
すべての種を救えたわけではない。
強い魔力に耐えられず、もう声を返さなくなったものもあった。
カリナは、その種を手のひらへ載せ、しばらく黙って見つめていた。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉なのか、ミルカには分からなかった。
けれどカリナは、枯れた種を放り捨てることなく、畝の端の柔らかな土へ、そっと埋め戻した。
☆
翌朝、カリナが王都へ戻る前に、ミルカはもう一度畝を確かめに来た。
そこには、先客がいた。
カリナが一人で畝の前にしゃがみ込み、昨日二人で助けた種を見つめている。
「カリナさん?」
「ミルカ。見て」
カリナが示した先で、土の隙間から、ごく小さな緑の芽が顔を出していた。
まだ葉とも呼べないほど細く、朝露の重みにさえ負けてしまいそうな芽だった。
カリナは、確かめるように手を伸ばした。
けれど、触れる寸前で、その手を止める。
「今は、触らない方がいい?」
ミルカは芽に意識を向けた。
(もう少し、このまま。光を浴びたい)
「はい。今は、見守るだけで」
「……そう」
カリナは素直に手を引いた。
二人は並んで、朝日の中の小さな芽を見つめた。
「昨日までの私は、芽が出たら、もっと早く育つように魔力を加えたと思う」
カリナが穏やかな声で言った。
「でも今は、この子が自分で伸びようとしているのが、少しだけ分かる気がする」
「声が聞こえるんですか?」
「いいえ。あなたみたいには聞こえないわ」
カリナは首を振った。
「でも、聞こえないからって、好きにしていいわけじゃないのでしょう」
それは、ミルカが思っていた以上の答えだった。
カリナは立ち上がり、泥の残った手袋を見下ろした。
「学院へ戻ったら、この土地のことを報告するわ」
「薬草園を、接収するためにですか?」
ミルカの声が、わずかに硬くなる。
カリナはすぐには答えなかった。
やがて、芽をもう一度見下ろす。
「昨日までなら、それが最も効率的だと書いたでしょうね」
「今は?」
「まだ、分からないわ」
カリナは正直に答えた。
「でも少なくとも、王都の方法をそのまま持ち込めばいいとは、もう思わない」
カリナはミルカへ視線を戻した。
「この土地には、この土地の速度がある。そう報告するわ」
朝の風が畝を渡り、小さな芽をかすかに揺らした。
カリナは今度こそ手を伸ばさず、その揺れが収まるまで、黙って見守っていた。
☆
朝食を終えると、カリナとリュカは王都へ戻るため、村の広場へ向かった。
馬車へ乗り込む前、カリナはポフに視線を向けた。
「精霊さんも、次に会う時は私の靴を狙わないでちょうだい」
「ふん。それは、おぬしの態度次第じゃな」
ポフの返事に、カリナは呆れたように肩をすくめた。けれど、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
やがて馬車が動き出し、村の道を遠ざかっていく。
「ポフ、カリナさん、少し変わりましたね」
「そうじゃな。じゃが、あの娘が何を報告するかによっては、王都がますますこの土地へ興味を持つことになる」
ミルカは遠ざかる馬車を見つめた。




