第七話 治療師ノエリアは奇跡を信じない
羊飼いの一件から数日が経った、よく晴れた朝のことだった。
薬草園の門の前に、見覚えのある人影が立っていた。銀灰色の髪を短くまとめ、いつものように薬箱を提げたノエリアだった。朝の光が、彼女の落ち着いた表情を、いっそう際立たせている。
「おはようございます、ミルカさん」
「ノエリアさん? どうしたんですか、こんな朝早くに」
ミルカが門を開けると、ノエリアは軽く会釈をして中へ入ってきた。相変わらず、感情の起伏をあまり表に出さない、落ち着いた表情をしている。
「じつは、お願いがあって来ました」
「お願い、ですか」
「メリルちゃんの一件以来、村の人たちの間で、あなたの薬草の噂が広まっています。診療所にも、『薬草魔女様のお茶をいただけないか』と尋ねてくる人が、何人か現れました」
ノエリアは薬箱を地面に置き、まっすぐにミルカを見つめた。
「私は治療師として、村の人々の健康を預かる立場です。ですから――」
一瞬、間を置いてから続ける。
「あなたの薬草が、実際にどのような効能を持つのか、きちんと記録させていただきたいのです」
その言葉には、有無を言わせない響きがあった。ミルカは思わず、体をこわばらせる。
「記録……というのは、どんな」
「使う薬草の種類、量、症状への効果、経過。できるだけ客観的に、数字と観察で。感覚や、その場限りの手応えだけでは、他の患者に応用することができません」
「あの、私、感覚で薬草の調子を判断していて……言葉で説明するのが、あまり得意ではなくて」
正直にそう告げると、ノエリアはわずかに眉根を寄せた。
「それは承知しています。だからこそ、私が横で観察し、記録に残す必要があるのです」
有無を言わせない口調でありながら、そこには、決して威圧するような棘はなかった。むしろ、真剣に村の人々の安全を考えているのだと分かる声だった。
「……分かりました。よろしくお願いします」
ミルカが頭を下げると、傍らで様子を窺っていたポフが、むっとした様子で口を挟んだ。
「おい、治療師の娘。おぬし、我のことも記録するつもりか」
「あなたは……確かに、珍しい生き物ですね」
ノエリアはポフをまじまじと見つめ、興味深そうに首を傾げた。
「毛並みの色艶からして、通常の野生動物とは思えません。体温はどれくらいなのか、後で測らせてもらっても?」
「珍しい生き物じゃと!? 我は、この薬草園の由緒正しき守り精霊ぞ!」
ポフが憤然としっぽを膨らませたが、ノエリアは大して動じた様子もなく、淡々と薬箱からノートを取り出した。
「精霊、ですか。興味深い自称ですね。まあ、それも含めて、後ほど詳しくお聞かせください」
「じ、自称ではない! 本物の――」
ぷりぷりと怒るポフを尻目に、ノエリアはすでに、ノートに何かを書き記し始めている。ミルカは思わず、苦笑を漏らしてしまった。
「では、さっそく、体温を測らせてください」
ノエリアが、薬箱から取り出した小さな魔導具をポフに向けた。
「な、なにゆえ、我が、そのような検査を受けねばならぬのじゃ」
「精霊の生態は、記録が少ないので。これも、村の医療に役立つ資料になります」
澄ました顔で言い切るノエリアに、ポフはじりじりとあとずさる。
「い、いや、我は、忙しい身でな。畑の見回りが――」
「動かないでください。すぐに終わります」
あっという間に、ポフはノエリアの手によって、ころりと抱え上げられていた。逃げようにも、意外と手慣れた抱きかかえ方に身動きが取れないらしい。
「ぬ、ぬう……! 放せ、治療師の娘!」
「もう少しの辛抱です。……ふむ、体温は、通常の動物より、やや高めですね。それに、鼓動も、二重に聞こえます」
「あ、当然じゃ! 我は、精霊であるからして――ひゃっ!」
魔導具が、ポフの脇腹に軽く触れた瞬間、ポフは思わずびくりと跳ねた。くすぐったかったらしい。
「反応も、興味深いですね。もう一度」
「や、やめ――ひゃあっ!」
律儀に記録を取り続けるノエリアと、くすぐったさに悶えるポフの攻防を、ミルカは笑いを堪えながら見守っていた。
「ノエリアさん、ポフ、くすぐったがってるだけだと思います」
「そうなのですか? それも、貴重な生態情報です」
「しっ、しれっと言うでない! 我の尊厳は、どこへ行った!」
結局、ひとしきり検査が終わる頃には、ポフはすっかりぐったりとした様子で、ミルカの足元に転がっていた。
「治療師の娘は、容赦がなさすぎる……」
「ご協力、感謝します」
淡々と礼を述べるノエリアに、ポフは恨めしそうな視線を送っていたが、それ以上、文句を言う元気は残っていないようだった。
☆
その日から、ノエリアは度々薬草園を訪れるようになった。
最初は少し緊張していたミルカだったが、ノエリアの観察の仕方は、想像していたよりずっと丁寧だった。ミルカが薬草に触れ、その状態を確かめる様子をじっと見つめ、時折、冷静に質問を投げかけてくる。
「今、その薬草に触れて、何を感じましたか?」
「水が足りない、と。それと、少し、土が硬くなりすぎているようで」
「なぜ、そう分かるのですか。何か、光ったり、音がしたり?」
「いえ……上手く言えないんですけど、その葉っぱの状態を見た瞬間に、なんとなく分かるというか」
ミルカは自分でも歯がゆくなるほど、曖昧な答え方しかできなかった。ノエリアはそれを、決して笑ったり、馬鹿にしたりはしなかったが、明らかに記録として満足のいく答えではないようだった。
「感覚での判断そのものを否定するつもりはありません。ですが、それだけでは、他の人に同じことを教えることも、危険な兆候を見逃さないための基準を作ることもできません」
「……そうですね」
ミルカは俯く。学院でも、感覚に頼る自分の魔法は、常に評価の対象外だった。ノエリアの前でも、結局同じことを言われている気がして少しだけ気持ちが沈んだ。
それに気づいたのか、ノエリアは珍しく言葉を継ぎ足した。
「けれど、あなたの薬草が、実際にメリルちゃんの咳を鎮めたことは事実です。効果があること自体は、疑っていません」
「本当ですか?」
「はい。ただ、『効く理由が分からない薬』というのは、時に危険でもあります。合わない人に使えば、悪化させる可能性もある。だからこそ、確かめたいのです」
その言葉に、ミルカは思わず目を見開いた。
否定ではない。ノエリアの態度の根底にあるのは、責任感だったのだ。何も分からないまま薬を使わせて、もし誰かが苦しむことになったら――そういう可能性を、真剣に恐れている。
「ノエリアさんは、治療師として、すごく真面目なんですね」
「……そうでしょうか」
ノエリアの声が、わずかに揺れた気がした。ミルカが見つめると、彼女は視線を少し逸らす。
「以前、私は、治療できなかった人がいました。原因も分からず、手当ての方法も見つけられないまま……。それ以来、『奇跡』という言葉を、簡単には信じられなくなったのです」
その一言に、ミルカは何も返せなかった。ノエリアの冷静さの奥に、そんな痛みがあったとは、思いもしなかった。
「奇跡だと、片付けてしまえば、そこで理解は止まってしまいます。なぜ効いたのか、なぜ効かなかったのか。それを一つ一つ確かめることでしか、私は次の誰かを助ける方法を、見つけられません」
ミルカは、ノエリアのその言葉を胸に刻んだ。自分の魔法を、感覚のまま曖昧に扱うのではなく、少しずつでも、言葉にしていく努力をしなければならないのかもしれない。
「私も、できる限り、感じたことを言葉にしてみます。上手くはないかもしれないですけど」
「それで構いません。少しずつで良いのです」
ノエリアの表情が、ほんのわずかに緩んだ気がした。
☆
二人は、村の小さな診療所で薬草の効き方を確かめる作業を続けた。
ノエリアは、患者ごとの症状を記録した帳面を見せながら、ミルカに相談を持ちかける。
「この方は、慢性的な肩の凝りと、眠りの浅さを訴えています。何か、合う薬草はありますか」
ミルカは目を閉じ、患者の様子を思い浮かべながら、手元にある薬草を一つずつ確かめていく。
「眠り草だけだと、少し重すぎるかもしれません。朝露ミントを、ほんの少し混ぜたほうが……」
「なぜ、混ぜるのですか」
「眠り草だけだと、気持ちが沈みすぎる感じがして。ミントの、すっきりする感じを少し足すと、ちょうどいい重さになる気がします」
ノエリアはそれを、丁寧に書き留めていく。
興味深いことに、ミルカが患者ごとに調合を変えると、香りや味わいが、ほんのわずかに異なることに、ノエリアは気づき始めていた。
「同じ眠り草を使っているのに、この方への調合と、あちらの方への調合、香りの強さが違いますね」
「はい。その人に合わせて、少しずつ整えているので」
「その『合わせる』という感覚を、言葉で説明することは、まだ難しいのですか」
「……難しいです。でも、なんというか、その人の疲れ方とか、心の様子に、薬草の力を寄せていく、みたいな」
ノエリアはしばらく黙って考え込んでいたが、やがて呟いた。
「単に成分を混ぜているのではなく、効き方そのものを調整している、ということですね。……それは、確かに、記録に残す価値のある力です」
その言葉に、ミルカの胸が、じんわりと温かくなった。自分の力が誰かに、そんなふうに認められたのは、久しぶりのことだった。
☆
診療所での作業の合間、ノエリアが淹れてくれた茶を飲みながら、ミルカはふと、診療所の壁に飾られた古い医療器具に目を留めた。
「これは……?」
「私の師匠が使っていたものです。もう、使われなくなった器具ですが」
「ノエリアさんにも、師匠がいたんですね」
「ええ。厳しい人でしたが、多くのことを教わりました」
その時、傍らでポフが興味津々といった様子で、診療所の棚を物色し始めていた。
「ポフ、勝手に触っちゃだめですよ」
「ふむ、これは何じゃ。……甘い匂いがするぞ」
ポフが見つけたのは、患者への処方用に置かれた、飴玉の入った小瓶だった。
「それは、薬用の飴です。触らないでください」
「な、なんと、薬なのか! ならば、我が味見して、効能を確かめてやろう」
「ポフ、それ、子ども用の風邪薬です」
「かまわぬ! 我は、精霊じゃ、多少の薬など――」
止める間もなく、ポフは、飴玉を一つ、ぱくりと口に含んでしまった。しばらくの沈黙のあと。
「……にがっ! なんじゃこれは! 甘いと思うたら、あとから、猛烈な苦さが!」
「言ったじゃないですか」
涙目で悶えるポフに、ノエリアが、珍しく、口元をわずかに緩めた。
「その反応も、記録しておきましょう。……精霊にも、通常の薬用飴は、効くようですね」
「ひ、ひどい! 我を、実験台にするでない!」
涙目で抗議するポフの姿に、ミルカとノエリアは思わず顔を見合わせて、小さく笑い合った。診療所に、久しぶりに和やかな笑い声が響いた瞬間だった。
「そういえば、ポフにも、これまで飲んだお茶の感想を聞いてみますか?」
「必要ありません」
ノエリアは即答した。
「なぜじゃ! 我は何度も味見をしておるぞ!」
「ポフさんは、蜂蜜が入っているものには、すべて最高評価をつけています」
「美味いのだから当然であろう」
「甘いものへの評価が、甘すぎます」
「……今のは、上手いことを言ったつもりか?」
ノエリアは答えず、記録帳へそっと視線を戻した。
☆
二人がそんなやり取りを続けていたある日の夕方、診療所に、慌ただしく村人が駆け込んできた。
「先生! うちの子が、急に熱を出して!」
抱きかかえられていたのは、まだ小さな男の子だった。顔が赤く上気し、息も荒い。ノエリアはすぐさま男の子を診察台に横たえ、脈と体温を確かめる。
「高熱です。それに、少し呼吸も浅い……。まだ原因がはっきりしません」
ノエリアの表情に、初めて焦りのようなものが浮かんだ。ミルカは咄嗟に、男の子の傍に膝をつき、そっと手を触れた。
(熱い。喉が、渇いてる。それに、体の中の水が、足りていない……)
「ノエリアさん、この子、体の水が足りていないんだと思います。熱で汗をかいて、そこに追いついていないというか」
「脱水症状、ということですか」
「それに近いかもしれません。喉の渇きを訴える力もない状態というか」
ノエリアは即座に、水と塩を溶かした水分を用意し、男の子に少しずつ飲ませ始めた。同時に、ミルカは朝露ミントと、熱を鎮める効能のある薬草を組み合わせ、体を冷やすための湿布を作る。
「この子には、あまり強い薬草は使いたくないです。体が弱っている時は、優しいものを、少しずつ」
「分かりました。私の方でも、経過を注意深く見ます」
二人は、互いの得意なやり方――ミルカの感覚と、ノエリアの知識を持ち寄って、慎重に男の子の様子を見守った。
しばらくすると、荒かった呼吸が落ち着き、赤く火照っていた顔も、わずかに落ち着きを取り戻していく。
「熱が、少し下がってきています」
ノエリアが安堵の息を吐いた。ミルカも緊張が解けるのを感じ、思わず肩の力を抜く。
「良かった……」
男の子の親が、涙ぐみながら何度も頭を下げた。ノエリアはその様子に、ゆっくりと頷き返す。
男の子が落ち着いて眠りについたのを見届けたあと、ノエリアはミルカに向き直った。
「今日、あなたの感覚がなければ、原因の見当をつけるのに、もっと時間がかかっていたかもしれません」
「私こそ、ノエリアさんの手当てがなければ、あの子を落ち着かせることはできませんでした」
二人は、しばらく見つめ合ったあと、どちらからともなく、小さく笑い合った。
「ミルカさん。今後、薬草園と診療所とで、もう少し正式に、協力し合いませんか」
ノエリアの提案に、ミルカは大きく頷いた。
「はい、ぜひ」
「あなたの感覚と、私の記録。両方があれば、村の人々にとって、もっと確かな助けになれる気がします」
その言葉に、ミルカは胸の内が温かくなるのを感じた。学院では、感覚だけの魔法を、誰も評価してはくれなかった。けれどここでは、その力が確かな知識と結びついて、誰かを救う力になっている。
診療所を出て、薬草園への帰り道。夕暮れの空の下、ミルカは薬箱を提げたノエリアの後ろ姿を振り返りながら、小さく呟いた。
「私の魔法にも、ちゃんと意味があるんだ」
傍らを歩くポフが、ふん、と鼻を鳴らす。
「今更、気づいたのか。おぬしは、思っておるより、ずっと役に立つ魔女じゃぞ」
その素っ気ない言い方に、ミルカは思わず笑みをこぼした。
「それより、ポフ。今日の飴玉の件、ノエリアさんの記録に、しっかり残されちゃいましたね」
「い、言うでない! 忘れよ、あんなこと!」
しっぽをぶわりと膨らませて抗議するポフに、ミルカは、夕暮れの道を歩きながら、思わず声を上げて笑った。
薬草園と診療所――二つの場所が、少しずつ、確かな絆で結ばれ始めていた。




