第六話 黒い蔓と眠れない羊飼い
昨夜見た、黒ずんだ蔓の揺れる光景が、ミルカの頭からずっと離れなかった。
朝一番でその一角を確かめに行ってみたものの、朝日の下では、それはただの枯れた蔓に見えた。触れてみても、特別な反応はない。見間違いだったのだろうか、と思いかけたとき、門の方から慌ただしい足音が近づいてきた。
「魔女さん! ミルカ様!」
息を切らして駆け込んできたのは、日に焼けた顔をした中年の男だった。村の羊飼いだと名乗る。
「うちの羊たちが、おかしいんです。ここ数日、夜になるとひどく怯えて、まったく眠らなくて」
「怯える、というのは……」
「群れの中で、何もない方向を見ては、急に暴れ出したり。放牧地の一角に近づけると、特にひどくなるんです」
その言葉に、ミルカの脳裏に、昨夜の黒い蔓の映像がよぎった。傍らのポフも、耳をぴんと立てて緊張した面持ちになっている。
「ポフ、これって……」
「行ってみねば、分からぬ。じゃが、嫌な予感がするのう」
ミルカはノートと薬草袋を手早くまとめ、羊飼いに案内を頼んで、村外れの放牧地へと急いだ。道中、朝露に濡れた草が足元でしっとりと湿り気を帯び、歩くたびに、ひやりとした冷たさが足先から伝わってくる。
☆
放牧地に着くと、羊たちは一箇所に固まり、落ち着きなく足踏みを繰り返していた。中には、耳を伏せて震えているものもいる。
「ここです。この辺りから、様子がおかしくて」
羊飼いが指し示した先、青々とした草地の一部だけが、不自然に黒ずんでいた。近づいてよく見ると、地表からわずかに顔を出した、細い黒紫色の根のようなものが、絡み合うように広がっている。
ミルカがしゃがみこんで指を近づけようとした瞬間、ポフが鋭く制した。
「触るでない!」
「え……」
「それは、影根草じゃ。土地の魔力がよどんだときに生える、忌々しい草じゃ」
ポフの声には、明らかな警戒の色があった。
「影根草は、近くの生き物の不安を吸って育つ。放っておけば、根はさらに広がり、羊たちの怯えも増していくじゃろう」
「不安を、吸う……」
ミルカは改めて、地面を這う黒い根を見つめた。よく目を凝らすと、その表面が、かすかに脈打つように震えている。まるで、何かの感情そのものがそこに凝っているかのようだった。
「これを、燃やすことはできないんですか?」
「無理に焼けば、土ごと傷つくぞ。影根草は、土地の傷そのものから生えておるようなもの。根源を絶たねば、いくら地上の部分を焼いても、また生えてくる」
ポフの言葉に、ミルカは唇を噛んだ。攻撃魔法で一気に焼き払う――それができれば、話は早いのかもしれない。けれど、ミルカにはそもそも、まともな攻撃魔法を放つ力がない。それに、ポフの言う通りなら、力任せのやり方はかえって事態を悪化させるだけだ。
(また、私には何もできないんだろうか)
学院で何度も感じた、あの無力感が、胸の奥にじわりと滲む。けれど、羊たちの怯えた鳴き声が、ミルカをその場に押し留めた。俯いている暇はない。
「ポフ、影根草を弱らせる方法は、何かないんですか?」
「……土地の魔力の流れを整えれば、多少はましになるじゃろう。それと、周りの生き物の不安を鎮めることじゃ。不安がなくなれば、影根草も養分を得られなくなる」
「羊たちを、落ち着かせればいいんですね」
ミルカは薬草袋の中身を思い返す。眠り草、朝露ミント――それに、まだ僅かに残っている陽だまり花。
「羊飼いさん、焚き火の準備をお願いできますか。あと、風向きも教えてください」
「は、はい」
羊飼いは戸惑いながらも、手早く火を起こす準備を始めた。ミルカはその傍らに、乾燥させた眠り草の束を用意する。
☆
準備を進める間、ポフは羊たちの様子を観察するふりをしながら、じつは、群れの中の一匹――ふわふわとした白い子羊に、しきりに視線を送っていた。
「ポフ、羊が気になるんですか?」
「な、なにゆえ、そのようなことを聞く。我は、状況を確認しておるだけじゃ」
言いながらも、ポフのしっぽは、そわそわと揺れていた。
「もしかして、あの子羊、ポフに似てるなって、思ってるんじゃないですか」
「にっ、似ておらぬ! 我は、由緒正しき守り精霊。あのような、ただの子羊と一緒にするでない!」
むきになって否定するポフだったが、その視線は、まだ子羊から離れていない。ミルカは、思わず笑いを堪えながら、焚き火の準備を続けた。
その時、様子を窺っていた子羊が、とことこと、ポフの方へ近づいてきた。
「わっ……!?」
突然の接近に、ポフは思わずあとずさる。子羊は興味津々といった様子で、ポフの周りをくるくると回り始めた。
「な、なんじゃ、こやつ! 我を、どうするつもりじゃ!」
狼狽するポフに構わず、子羊は、ふさふさとした毛並みに惹かれたのか、ぺろりとポフのしっぽを舐めた。
「ひゃあっ!? な、な、なにをする!」
飛び上がるように驚くポフの姿に、羊飼いも思わず頬を緩めた。
「精霊様、うちの子が、すみません」
「い、いや、別に、構わぬ。我は、動じておらぬぞ」
しっぽを膨らませたまま、しどろもどろに強がるポフの様子に、ミルカは緊張感の漂う放牧地の中で、思わず、くすりと笑ってしまった。
「眠り草を、少しだけ焚きます。強すぎると眠らせすぎてしまうから、量を抑えて」
ミルカは指先で薬草の状態を確かめながら、ほんの一握りだけを火にくべた。ふわりと立ちのぼる、穏やかな香りの煙が、風に乗って放牧地全体に広がっていく。
最初は落ち着かない様子だった羊たちも、しばらくすると、耳の伏せ具合が和らぎ、足踏みの回数が減っていった。
「効いて、る……?」
「まだ途中です。次は、土地の方に」
ミルカは影根草の広がる一角に近づき、その手前でしゃがみこんだ。地面に両手をつき、目を閉じて、耳を澄ませる。
(怖い。誰か、来ないで。誰も、味方じゃない……)
流れ込んでくる感覚は羊たちのものとも、土地そのもののものともつかない、混ざり合った恐れだった。ミルカはそれを振り払おうとするのではなく、そっと受け止めるように両手に意識を集める。
「大丈夫。あなたを、傷つけに来たわけじゃない」
声に出して、そう語りかける。
ポフがそんなミルカの様子を、先ほどまでの騒動が嘘のように真剣な表情で見つめていた。
ミルカは腰の袋から、大切に持ってきた小さな瓶を取り出した。中には月灯り草から採れた、わずかな雫が数滴だけ入っている。
「これで、足りるでしょうか?」
「分からぬ。じゃが、月灯り草の力は、乱れた流れを鎮めるものじゃ。使ってみる価値はある」
ミルカは瓶の蓋を開け、影根草の根元へ、一滴、また一滴と、雫を落としていく。
触れた瞬間、黒紫色の根が、びくりと震えた。ミルカは思わず身を強張らせたが、逃げ出しはしなかった。ただ静かに、雫を落とし続ける。
しばらくすると、根の黒さがほんの少しずつ、薄い紫がかった色へと変わっていく。地面から浮き上がるように緩んでいた根が、次第に土の中へと沈んでいくのが見えた。
完全に消えたわけではない。けれど、明らかにその禍々しさは和らいでいた。
「……薄まった」
ポフが驚いたように呟く。
「見事じゃ。……いや、見事というより」
「ポフ?」
「おぬしのやり方は、我の知る薬草魔女たちとは、少し違う。力で押さえつけるでも、焼き払うでもない。ただ、聞いて、応えておるだけじゃ」
その言葉に、ミルカは自分の手のひらを見つめた。攻撃魔法も、防御魔法も、うまく使えない。学院ではそれを、欠陥のように扱われてきた。
けれど――。
「私は、倒すんじゃなくて……ほどく方が、向いているのかもしれません」
ぽつりと呟いた言葉が、思いのほか、すとんと胸に落ちた。
☆
放牧地に戻ると、羊たちはすっかり落ち着きを取り戻し、穏やかに草を食んでいた。羊飼いは、その様子を見て安堵の息を漏らす。
「本当に、ありがとうございます。夜も、ちゃんと眠れそうです」
「まだ、根が完全になくなったわけじゃないので。またしばらく、様子を見に来ますね」
「はい、いつでも呼んでください」
羊飼いは何度も頭を下げながら、羊たちを追って戻っていった。その途中、先ほどの子羊が名残惜しそうにもう一度、ポフの方を振り返る。
「ふ、ふん。あやつ、なかなか見どころのある羊じゃったな」
「さっきまで、悲鳴上げてませんでしたっけ」
「き、聞き間違いじゃ。我は、常に泰然としておる」
澄まし顔で言い切るポフに、ミルカは思わず肩を震わせて笑ってしまった。
ミルカは羊飼いの背中を見送りながら、ふう、と息をつく。
「疲れたか」
「はい。でも……」
ミルカは自分の両手を見つめた。派手な炎も、堅固な結界も出せない、この頼りない両手。けれど今日、確かにそれで、誰かの不安を和らげることができた。
「今日は、少しだけ、自分の魔法を、悪くないと思えました」
ポフはしばらく黙っていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「悪くないどころか。おぬしの魔法は、この土地には稀にみる才かもしれぬぞ」
照れ隠しのようにそっぽを向くポフに、ミルカは思わず笑みをこぼす。
薬草園への帰り道、夕焼けが遠くの山並みを橙色から紫色へと染め変えていく。羊の鳴き声が、遠くから穏やかに響いていた。
けれど同時に、放牧地に生えていた影根草のことが、心の片隅に小さな棘のように残っていた。あれは、いったい何の魔力が澱んで生まれたものなのか。
「ポフ、あの影根草と、薬草園の奥の蔓……関係があると思いますか?」
ミルカが尋ねると、ポフはしばらく黙り込んだ。夕暮れの風が、その白い毛並みを静かに揺らしている。
「……分からぬ。じゃが、同じ根から生まれておるような、そんな気がしてならぬ」
その言葉に、ミルカはゆっくりと頷いた。




