第五話 眠れないパン屋と、効かない薬草茶
ところが翌朝、セルマは昨日よりも疲れた顔で薬草園に現れた。
「ごめんねえ、ミルカ。あのお茶、味はよかったんだけど……やっぱり眠れなかったよ」
「効かなかったんですか?」
「ああ。体はぽかぽかして、少し眠くなった気はしたんだけどね。布団に入ると、また頭の中がぐるぐるし始めちまって」
ミルカは胸の奥が重くなるのを感じた。
メリルの咳には、月灯り草のシロップが効いた。薬草茶の試飲会でも、村人たちは喜んでくれた。
だから今回も、役に立てると思っていた。
「配合が薄すぎたのかもしれません。今度は眠り草をもう少し増やして――」
「それはいけません」
背後から、穏やかな声がした。
薬箱を抱えたノエリアが、薬草園の門をくぐってくる。
「効かなかったから濃くする、という考え方は危険です。眠り草は使いすぎると、朝まで頭が重くなることがあります」
「……すみません」
ミルカは、伸ばしかけていた手を引っ込めた。
ノエリアは薬草棚ではなく、セルマの顔を見た。
「体に痛みはありますか。息苦しさや、熱は?」
「いや、そういうのは何もないよ。ただ眠れないだけさ」
「食事は取れていますか?」
「まあ、それなりには」
「仕事中に強い眠気は?」
「それはあるねえ。でも、店を閉めるわけにもいかないし」
ノエリアはしばらく考えたあと、ミルカを見た。
「薬を作ることより、薬が必要かどうかを見極める方が難しいんです」
責めるような声ではなかった。
それでも、その言葉はミルカの胸に深く刺さった。
ミルカは薬草の声を聞こうとしていた。けれど、目の前にいるセルマの声を、きちんと聞いていただろうか。
「セルマさん」
ミルカは、あらためて尋ねた。
「眠れなくなった頃に、何か変わったことはありませんでしたか?」
「変わったこと?」
「心配なこととか、ずっと考えてしまうこととか」
セルマの表情が、ほんのわずかに強張った。
「別に、そんなたいしたことじゃないよ」
そう言いながら、セルマは持っていた籠の取っ手を強く握った。
籠の中には、いくつかの丸いパンが入っている。けれど、いつものセルマのパンより表面が硬く、焼き色にもむらがあった。
ポフが籠へ鼻先を近づける。
「そのパン、昨日のものより匂いが弱いのう」
「ポフ、勝手に匂いを嗅いじゃ駄目ですよ」
「我は確認しておるだけじゃ。昨日のパンは、もっと香ばしかった。これは、焼いておる間に別のことを考えておった味がする」
「味だけで、そんなことまで分かるんですか?」
「まだ食べておらぬ」
「じゃあ、匂いだけじゃないですか」
けれど、セルマは笑わなかった。
しばらく黙ったあと、小さく息を吐く。
「今度、新しいパンを売り出そうと思ってるんだ。母さんが昔作っていた、木の実と蜂蜜のパンをね」
セルマは籠の中のパンを見下ろした。
「この店は、母さんから継いだ店なんだ。母さんのパンを覚えてる人は、今でも村にたくさんいる。でも、何度作っても同じ味にならない。失敗して、母さんの店を駄目にしたって思われるんじゃないかって考えると……夜になっても、頭から離れなくてさ」
眠れない原因は、眠り草では届かない場所にあった。
ミルカは薬草棚を振り返った。
昨日の自分は、セルマの話をほとんど聞かず、すぐに眠り草を選んだ。
困っている人が来たのだから、薬草を渡せばいい。そう思い込んでいたのかもしれない。
「セルマさん」
ミルカは、眠り草の瓶から手を離した。
「今日は、お薬を作るのをやめます」
「え?」
「その代わり、そのパンを作るところを見せてもらえませんか」
☆
その日の午後、ミルカたちはセルマのパン屋に集まった。
店の奥には大きな石窯があり、作業台の上には小麦粉、蜂蜜、乾燥させた木の実が並んでいる。
「母さんの覚え書きには、これだけしか残ってなくてね」
セルマが差し出した紙には、材料の名前と、おおまかな分量しか書かれていなかった。
「『生地の声を聞くこと』って書いてあるんだけど、パンが喋るわけじゃあるまいし」
ミルカは、その一文を見つめた。
どこかで聞いた言葉に似ている。
祖母のノートにあった言葉。
『魔法は、命令ではなくお願いから始まる』
「少し、生地に触ってもいいですか」
「ああ、もちろん」
ミルカは捏ねる前の生地に、そっと指先を触れた。
植物のようにはっきりとした感覚は伝わってこない。けれど、小麦も木の実も、もとは土から育ったものだ。
耳を澄ませるように、指先へ意識を集める。
(少し、乾いてる……?)
「水が足りないのかもしれません」
「でも、覚え書きの分量通りだよ」
セルマが戸惑ったように言う。
ノエリアが窓の外を見た。
「今年の小麦は、例年より乾燥していると聞きました。同じ分量でも、生地の状態は変わるでしょうね」
「覚え書き通りに作るだけじゃ、同じにはならないんだ……」
セルマは呟き、生地に少しずつ水を加えた。
今度は柔らかく、手に吸いつくような生地になった。
エルナが横から木の実の器を覗き込む。
「木の実も、もう少し細かくした方がいいんじゃない? お祭りなら、子どもも食べるでしょ」
「なるほどね」
「蜂蜜は多めがよいぞ」
作業台の端で、ポフが当然のように口を挟んだ。
「ポフは甘いものが食べたいだけでしょう」
「違う。我は、村人全体の幸福を考えておる」
「その幸福、ポフのお腹にしか届いてない気がしますけど」
セルマが、久しぶりに声を上げて笑った。
それから何度も、生地を捏ね、焼き加減を変え、木の実の量を調整した。
一度目は硬すぎた。
二度目は蜂蜜を入れすぎて、ポフだけが絶賛した。
三度目は、焼き色はよかったものの、香りが少し物足りなかった。
「陽だまり花を、ほんの少しだけ使ってみませんか」
ミルカは小さな黄色い花びらを取り出した。
「薬としてではなく、香りづけに。蜂蜜とも合うと思います」
ノエリアが花びらを確かめ、頷いた。
「この量なら問題ないでしょう。ただし、効能を謳って売るのは避けてください。あくまで香りづけです」
「分かりました」
四度目のパンが焼き上がる頃には、窓の外がすっかり赤く染まっていた。
石窯から取り出したパンは、ふっくらと丸く膨らんでいる。蜂蜜と木の実、それに陽だまり花の柔らかな香りが、店いっぱいに広がった。
セルマは焼きたてのパンを一口食べた。
すぐには何も言わなかった。
ゆっくり噛み締めたあと、その目にうっすらと涙が浮かぶ。
「母さんのパンとは、違うね」
ミルカは何も言えず、セルマを見つめた。
けれどセルマは、少しだけ笑った。
「でも、これも悪くない。ううん。こっちの方が、今のあたしの店には合ってるかもしれない」
「セルマさんのパンですから」
ミルカが言うと、セルマは小さく頷いた。
「ああ。そうだね。母さんと同じじゃなくてもいいんだ」
作業台の下では、ポフが落ちてきた木の実をこっそり拾っていた。
☆
翌朝、セルマは焼きたてのパンを抱えて薬草園へやってきた。
昨日まであった目の下の隈が、少し薄くなっている。
「ミルカ。昨日は、久しぶりによく眠れたよ」
「眠り草のお茶が、遅れて効いたんでしょうか」
「いや。昨日は飲んでない」
セルマは笑って、籠から丸いパンを取り出した。
「あんたたちとパンを焼いたら、もう大丈夫だって思えたんだ。母さんのパンを作らなきゃいけないんじゃなくて、あたしのパンを作ればいいんだってね」
ミルカは、眠り草が並ぶ薬草棚へ視線を向けた。
薬草を渡さなくても、人を助けられることがある。
薬草魔女だからといって、すべてを薬草で解決しなければならないわけではない。
「私、セルマさんの話を聞く前に、薬草を選んでしまいました」
「助けようとしてくれたんだろ。それでじゅうぶんだよ」
「でも、次は、先にちゃんと聞きます。その人が、本当に何を必要としているのか」
ミルカがそう言うと、セルマは嬉しそうに目を細めた。
「なら、その最初の練習だ。あたしが今、何を必要としてるか分かるかい?」
「え?」
ミルカは、セルマの顔を見つめた。
昨日までの疲れた表情は消えている。腕に抱えた籠には、焼きたてのパンがいくつも並んでいた。眠り草を求めているようには見えない。
「新しい薬草茶……では、ないですよね」
「うん」
「パンを食べてくれる人、でしょうか」
「それも必要だけど、もう一つあるよ」
セルマは楽しそうに目を細めた。
ミルカは籠の中のパンと、セルマの弾んだ表情を交互に見た。
「……一緒に売る人?」
「正解」
セルマが差し出したパンから、陽だまり花と蜂蜜の甘い香りが漂ってくる。
「次の朝市で、このパンを一緒に売ってくれる人さ」
「はい。喜んで」
「我も手伝ってやろう」
いつの間にか、ポフが籠の横に陣取っていた。
「ポフは何をするんですか?」
「味に問題がないか、最後まで確認する」
「もう完成していますよ」
「完成したからこそ、継続的な確認が必要なのじゃ」
そう言ってパンへ伸ばしたポフの前足を、ミルカはそっと押し戻した。
「味見は、一つだけです」
「なぜじゃ! 我は昨日、四度も試作に付き合ったのだぞ!」
「そのうち二回は、勝手に食べていただけでしょう」
セルマの明るい笑い声が、朝の薬草園に響いた。
薬草園には今日も、小さな相談が持ち込まれる。
けれど、必要なのはいつも薬草とは限らない。
ミルカはそれを、この日初めて知った。
それから数日、ミルカは薬草茶を作るたびに、飲む人の顔を以前より丁寧に思い浮かべるようになった。
眠りたい人に眠り草を渡せばよいとは限らない。元気がないからといって、陽だまり花が必要とも限らない。薬草の効能だけでなく、その人が何に困り、何を望んでいるのかを聞くことも、薬草魔女の仕事なのだ。
エルナとも相談し、茶葉の袋には効能を断定する言葉を書かず、香りや味わい、飲む際の注意を添えることにした。ノエリアにも一つずつ確認してもらい、ようやく人に勧められる形が整った。
☆
さらに数日が過ぎた頃、ミルカとエルナは、これまでの試作の中から特に評判の良かった数種類を選び、薬草園の入り口で小さな試飲会を開くことにした。
朝から、二人は準備に追われた。古い板をテーブル代わりに並べ、湯を沸かし、茶葉を用意する。ポフもそわそわとした様子で、周囲をうろついていた。
「ポフ、今日は味見役、頑張ってくださいね」
「ふん、当然じゃ。我の舌にかかれば、どんな茶葉も、瞬時に見極められる」
そう豪語していたポフだったが、いざ試飲会が始まると、真っ先に、木の実入りの甘い茶葉の前に陣取り、そこから一歩も動かなくなった。
「ポフ、他の茶葉も、味見してください」
「……この茶で、じゅうぶん満足しておる」
「味見役なんですから」
「うるさい。我は、美味いものだけを見極める、選ばれし味覚の持ち主なのじゃ」
開き直るポフに、エルナが盛大に笑い転げた。
「ポフちゃん、結局、好きなものしか味見しないじゃん!」
「ぐ、うるさいぞ、雑貨屋の娘!」
賑やかなやり取りをよそに、テーブル代わりの古い板の上には、それぞれの茶が並べられていく。噂を聞きつけて、遠巻きにしていた村人たちが恐る恐る近づいてきた。
「これ、あの咳の子を治した薬草魔女の……」
「へえ、いい香りだね」
最初は遠慮がちだった人々も、一口飲むと、次第に表情を緩めていく。
「これ、朝露ミントのやつ、すっきりして美味しいね」
「陽だまり花の方は、なんだか元気が出るような」
小さな声の感想が、ひとつ、またひとつと重なっていく。ミルカは、その様子を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
派手な魔法ではない。けれど、確かに誰かの一日を、少しだけ明るくすることができている。
「見て、ミルカ! みんな、喜んでる!」
エルナが弾んだ声で言う。ミルカは小さく頷き、笑みを返した。
試飲会は、ささやかながらも成功と呼べるものだった。数人の村人が、後日また買いに来ると約束してくれた。荒れた薬草園に、少しずつ人の気配が戻り始めている。
☆
その夜、片付けを終えたミルカは、月明かりの下、薬草園の奥までを見回った。
昼間の賑わいが嘘のように、園の奥はしんと静まり返っている。月灯り草の畝は淡く光り、他の薬草たちも、以前よりずっと生き生きとして見えた。
(今日は、少し前に進めた気がする)
そう思いながら踵を返そうとしたとき、視界の端で、何かが揺れた気がした。
振り返ると、薬草園のまだ手入れの及んでいない、鬱蒼とした一角。そこに絡みつく、黒ずんだ蔓のようなものが、風もないのに、ゆっくりとうねっていた。
ミルカは思わず、息を呑んで立ち尽くす。
昼間、あれほど温かかった薬草園の空気の中に、そこだけ冷たく重い気配が滲んでいた。




