第三話 最初のお客さまは咳をする女の子
月灯り草の芽が出てから数日、ミルカは毎朝、日が昇る前に薬草園へ足を運ぶようになっていた。
空がまだ薄紫色をした時間、露に濡れた草の匂いを吸い込みながら、ミルカは畝の間を歩く。誰もいない薬草園に、自分の足音だけが響く、その静けさが不思議と心地よかった。
小さな青白い芽は、まだ頼りないほど細いけれど、確かに葉を増やしている。ミルカは土の湿り具合を確かめ、指先でそっと様子を窺いながら必要な分だけ水を与えていく。派手なことは何もしていない。ただ、その日その日の小さな変化に、丁寧に付き合っているだけだった。
「相変わらず、地味な世話じゃのう」
井戸の縁に腰かけたポフが、あくび混じりに言う。
「地味かもしれないけど、大事なことだと思ってます」
「ふん。まあ、悪くはない」
口ではそう言いながらも、ポフは芽の様子が気になるのか、しょっちゅう畝の傍にやってきては、鼻先を近づけて匂いを確かめていた。時折、匂いを嗅ぎすぎて、くしゅん、とくしゃみをし、そのたびに小さな光の粉が舞い散る。
「ポフ、そんなにくしゃみしてたら、種が飛んでいっちゃいますよ」
「し、仕方なかろう。土の匂いが、鼻をくすぐるのじゃ」
言い訳がましく胸を張るポフに、ミルカは思わず苦笑した。
薬草園の門はまだ、朽ちかけたままだ。けれど、そこに続く小道の雑草だけは、ミルカが少しずつ刈り込んでいる。誰かが訪ねてくることを、どこかで期待しているのかもしれない。そんな自分に気づいて、ミルカは少し恥ずかしくなった。
(誰も来るはずないのに、変なの)
そう思いながらも、鎌を握る手を止めることはできなかった。
☆
その日の昼下がり、実際に、その誰かがやってきた。
「ねえねえ、ここ、新しい魔女さんが来たって本当?」
朽ちた門の隙間から、ひょいと顔を覗かせたのは、赤みがかった栗色の髪を三つ編みにした少女だった。若草色の瞳が、好奇心にきらきらと輝いている。年の頃はミルカと近いくらい。明るい表情で、まったく物怖じする様子がない。腰には、小銭入れや紐、小さな鋏を下げた革のベルトを巻いている。
「わ、あの……」
「あたし、エルナ! 村の雑貨屋の娘なの。噂に聞いて、来ちゃった」
エルナと名乗った少女は、返事も待たずにずかずかと薬草園に入ってくる。荒れ果てた景色を見回して、あからさまに顔をしかめた。
「うわあ、ほんとに何もないんだね、ここ……。あ、でも」
そこで、彼女の視線が、ミルカが手入れしている一角に留まった。
「これ、何か育ってる?」
「月灯り草の、芽です。まだ、育ち始めたばかりですけど」
「へえ! すごいじゃない」
エルナは目を輝かせて屈み込み、小さな芽をまじまじと見つめた。裏表なく感心してくれるその様子に、ミルカは少しほっとする。
こんなふうに、素直に薬草を見て喜んでくれる人と話すのは、久しぶりだった。
エルナが芽を覗き込んでいる傍らで、ポフが、こそこそと近づいていく。
「ふふん、この芽はな、我の毛の力で――」
得意げに語り出そうとしたポフだったが、エルナは、その存在にまだ気づいていないらしく、うっかりしっぽを踏みそうになった。
「ひゃっ!?」
「わっ、ごめん! なにこれ、白いもふもふ!?」
驚いて飛び退いたエルナに、ポフはこれ見よがしに胸を張った。
「我は、この薬草園の由緒正しき守り精霊、ポフである。その辺の毛玉と一緒にするでない」
「わあ、喋った! しかも偉そう!」
エルナは目を輝かせて、ポフに顔を近づける。ポフは警戒するようにあとずさりしたが、すぐに好奇心に負けたのか、その場に留まった。
「触ってもいい?」
「な、なにゆえ、そんな軽々しく――」
言い終わる前に、エルナの手が、ポフの背をわしわしと撫で回していた。
「うわあ、モフモフ! 想像以上!」
「や、やめよ! 我は、玩具ではない――」
抗議の声も虚しく、ポフは次第にとろんとした顔になり、抵抗する力を失っていく。
「気持ちよさそうですね、ポフ」
「ち、違う! 我は、我慢しておるだけじゃ!」
しっぽをだらりと垂らしながら、それでも頑なに強がるポフの姿に、ミルカは思わず笑いを堪えるのに苦労した。
☆
ひとしきりポフを堪能したあと、エルナはようやく本題を思い出したように、居住まいを正した。
「あなたが、新しい薬草魔女さん? ミルカ、だっけ」
「はい、ミルカ・ラウレルです」
「よろしくね、ミルカ! ねえ、じつはさ」
エルナは急に声を落とし、真剣な顔になった。
「あなたに聞きたいことがあって来たの。……メリルって子、知らない? 村の雑貨屋の常連さんの娘なんだけど」
「いえ、まだ、村の人にはほとんど会っていなくて」
「だよね。あのね、メリルちゃん、体があまり丈夫じゃなくて。夜になると咳がひどくなって、なかなか眠れないの」
エルナは指先で、自分の胸のあたりをそっと押さえた。
「村の治療師のノエリアさんも診てるんだけど、季節の変わり目になると、どうしても悪くなっちゃうみたいで。……何か、薬草で助けられないかなって」
ミルカは思わず、傍らのポフを見た。先ほどまでの、とろけた表情が嘘のように、ポフは耳をぴんと立て真剣な表情でこちらを見返している。
「見習いには、まだ早いのではないか」
ポフが小さく口を挟んだ。
「せっかく芽が出たばかりの月灯り草じゃぞ。まだ量も少ない。下手に使えば、すべて無駄になるかもしれぬ」
その言葉に、ミルカの胸の奥がひやりとした。確かに、まだ育ったばかりの芽だ。もし失敗すれば、この小さな奇跡を、自分の手で潰してしまうことになる。
けれど――。
「月灯り草って、どんな薬草なの?」
エルナが尋ねる。
「祖母のノートには、喉の炎症を鎮めて、呼吸を楽にする効能があるって、書かれています。夜に育つ薬草だから、夜の咳に、特に合うみたいです」
「じゃあ、まさに、メリルちゃんにぴったりじゃない!」
エルナの言葉に、ミルカは芽の方に視線を落とした。まだ数本しかない、細い若葉。それを使うということは、この薬草園にとって、最初の小さな試練でもある。
(もし失敗したら。もし、この子を苦しめてしまったら)
不安が、胸の奥でじわりと広がっていく。けれど、それ以上に、メリルという少女の苦しみを思うと、じっとしていられない気持ちがミルカの中で膨らんでいった。
「……やってみます」
ミルカは、冷静にそう答えた。
「見習いよ、本気か」
「はい。だって、月灯り草は、誰かを助けるために育てているんですから。育てるだけで終わりにしたくない」
ポフはしばらくミルカを見つめていたが、やがてふん、と小さく鼻を鳴らした。
「……好きにせい。じゃが、無理はするな」
その言葉には、先ほどまでの反対とは違う、どこか案じるような響きが混じっていた。
☆
その日の夕方、ミルカはエルナに連れられて、村の診療所を訪ねた。
小さな木造の建物の前で、銀灰色の髪を短くまとめた少女が、薬箱を抱えて出てきたところだった。落ち着いた雰囲気の中に、どこか鋭さを感じさせる目をしている。
「ノエリアさん! この子が、新しい薬草魔女のミルカ」
エルナの紹介に、ノエリアと呼ばれた少女は、ミルカを値踏みするように見つめた。
「初めまして。ノエリア・セージです。……薬草魔女、というのは、聞いていますが」
「あの、ミルカ・ラウレルです。よろしくお願いします」
「エルナから、メリルちゃんのことで来たと聞きました。正直に言うと」
ノエリアは表情を変えずに続ける。
「薬草の民間療法は、効果がはっきりしないものも多いです。私は、根拠のない『奇跡』を、簡単には信じません」
その言葉には、突き放すような冷たさはなく、むしろ職務への誠実さのようなものが滲んでいた。ミルカは、少しだけ気が引き締まる思いがした。
「では、何を使うつもりですか」
「月灯り草です。喉の炎症を鎮めて、呼吸を楽にする薬草だと、祖母のノートに書かれています」
「月灯り草……。聞いたことはあります。ただ、効能の詳しい記録は、この村には残っていません」
ノエリアはしばらく考えるように黙っていたが、やがて口を開いた。
「分かりました。ただし、条件があります。私も同席させてください。もし、体に合わない兆候があれば、すぐに中止します」
「はい、もちろんです」
ミルカは深くうなずいた。むしろ、その方が安心できる。自分の感覚だけを頼りに調合することの怖さは、ミルカ自身が一番よく分かっていた。
診療所を後にする道すがら、エルナが、こっそりとミルカに耳打ちした。
「ノエリアさん、最初はちょっと怖い人に見えるけど、じつはすっごく優しいんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。この前も、うちのお婆ちゃんが熱出した時、真夜中なのに、すぐ駆けつけてくれたし」
その言葉に、ミルカは先ほどのノエリアの冷静な態度の奥にある、確かな誠実さを少しだけ理解できた気がした。
☆
その夜、ミルカは薬草園に戻り、月灯り草の若葉をほんの数枚だけ丁寧に摘み取った。
ランプの明かりの下、鍋を火にかけながら、ミルカは深く息を吸う。緊張で、指先がかすかに震えていた。
「そんなに気負わずともよい」
傍らで、ポフがぽつりと言った。
「おぬしの感覚は、間違っておらぬ。信じて、やってみるのじゃ」
その言葉に、ミルカは小さく頷いた。
摘んだ葉を鍋で煮出しながら、ミルカは葉の声に耳を澄ませる。
(この子は、まだ育ち始めたばかり。無理に濃くしないほうがいい……)
感覚のままに、水加減と煮出す時間を調整していく。祖母のノートの記述と、目の前の葉の声。二つを重ね合わせながら、ミルカは慎重にシロップを仕上げた。
琥珀色の、ほのかに甘い香りのするシロップが、小さな瓶に満たされる。
「どんな具合じゃ」
傍らでじっと見ていたポフが、心配そうに瓶を覗き込んだ。その拍子に、鼻先が瓶にくっつきそうになり、慌ててあとずさる。
「あ、危ない! 鼻を火傷しますよ」
「う、うるさい! 我は、確認しておっただけじゃ!」
慌てふためくポフに、ミルカは張り詰めていた気持ちが少しだけ和らぐのを感じた。
「これで、よいのか」
「分かりません。でも、今できる、最良のものだと思います」
ミルカは瓶を大切に抱え、エルナとノエリアの待つメリルの家へと向かった。
☆
メリルの家に着くと、小さなベッドに横になった女の子が、浅い咳を繰り返していた。八歳ほどだろうか、額には汗が滲んでいる。
「メリルちゃん、この人が、薬草魔女のミルカお姉さんだよ」
エルナが優しく声をかけると、メリルは苦しそうな息の合間に、ミルカをじっと見つめた。
「ミルカ、お姉、ちゃん……?」
「はい。今日は、あなたに合う薬を持ってきました」
ミルカは瓶を開け、小さな匙にシロップを注ぐ。ノエリアが横で、慎重にその様子を見守っていた。
「本当に、これで……?」
ノエリアの声には、まだ疑いが残っていた。それでも、ミルカはゆっくりとうなずく。
「メリルちゃん、少しだけ飲んでみて」
メリルはおずおずと匙を口に運んだ。とろりとした琥珀色のシロップが、喉を滑り落ちていく。
しばらくすると、荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていくのが分かった。咳の間隔も、明らかに広がっている。
「……楽、になった、かも」
メリルが小さく呟いた。ノエリアは眉根を寄せたまま、メリルの呼吸を注意深く確認していたが、やがてゆっくりと肩の力を抜いた。
「呼吸が、安定しています。……興味深いですね」
その夜、メリルは久しぶりに、朝まで途切れることなく眠ることができた。
☆
翌朝、エルナから話を聞いた村人たちの間で、小さな噂が広まっていた。
王都から来た、落ちこぼれの魔女。けれど、その薬草茶で、メリルちゃんの咳が治まったらしい。
薬草園の前を通りかかる村人の数が、心なしか増えたように感じられた。皆、遠巻きにではあるけれど、以前とは違う目で、荒れた薬草園を眺めていく。
ミルカは朽ちかけた門の傍に立ち、その視線を受け止めながら、小さく息を吐いた。
「見ておるか、小娘。おぬしの魔法、少しずつ、村に届いておるぞ」
傍らで、ポフが誇らしげに呟いた。




