第二話 白いもふもふ精霊と荒れた薬草園
白い毛玉は、しばらくミルカをじっと見つめたまま動かなかった。
ミルカも動けなかった。夕闇の中、丸い耳と体よりも大きなふさふさのしっぽが、かすかな光を受けてぼんやりと浮かび上がっている。風が吹くたび、枯れ草がさらさらと音を立て、その音だけが、やけに大きく響いていた。
「……こんばんは」
ようやく絞り出した声は、我ながら情けないほど小さかった。
白い毛玉はぴくり、と耳を動かす。それから意を決したように、ぽすん、ぽすんと枯れ草を踏んで近づいてきた。思っていたよりずっと小さい。抱えれば両手に収まってしまいそうな大きさだった。
「小娘。おぬし、この薬草園に何用じゃ」
声は思いのほかしっかりとした調子で響いた。子どものような可愛らしい姿からは想像もつかない、古めかしい言葉遣いだった。
ミルカは目を丸くした。
「しゃっ、喋った……?」
「当然じゃ。我を何だと思うておる」
白い毛玉――子狐のような姿をしたそれは、ふん、と鼻を鳴らすように顎を上げた。その拍子にしっぽがふわりと揺れて、先端から小さな光の粒がこぼれ落ち、枯れ草の上に落ちて消えた。
「我は、この薬草園の守り精霊。由緒正しき精霊ぞ」
「精霊……」
ミルカは学院で習った知識を必死に思い出す。精霊とは本来、土地や自然の力が凝った、人には見えにくい存在だ。強い精霊ほど気高く、人前に姿を現すことなど滅多にないと教えられた。
目の前の、丸っこくてふわふわの子狐が、そんな高位の存在だとは、にわかには信じがたい。
「本当に、精霊さまなんですか……?」
「疑うでない! 我は昔、この薬草園を訪れる薬草魔女たちに、恭しく敬われておったのだぞ。今は……その、少々、事情があって、こういう姿になっておるだけじゃ」
言葉の後半、心なしか声が小さくなる。ミルカがまじまじと見つめると、白い精霊は気まずそうに視線を逸らした。その仕草は精霊というより、いたずらを見つかった子どものようだった。
「事情、というのは?」
「おぬしには関係ない」
ぴしゃりと言われ、ミルカは口をつぐんだ。けれど、その拒絶の裏に何か触れられたくない痛みのようなものが滲んでいる気がして、それ以上は聞けなかった。
「……我は、ポフという。おぬしは?」
「ミルカです。ミルカ・ラウレル。今日から、この薬草園を任されることになって」
「なに?」
ポフと名乗った精霊は、驚いたように目を見開いた。
「おぬしが、新しい薬草魔女じゃと? こんな、ひょろりとした小娘が」
「ひょろりとって……」
少しむっとしたものの、実際、実戦魔法もろくに使えず学院を追い出されるようにして来た自分に、反論できる自信はなかった。ミルカは俯いて荒れた薬草園を見回す。
枯れ草とひび割れた土。かつて畝だったであろう跡はあるが、そこに何かが育つ気配は、まるでなかった。
「この薬草園、昔は名高い場所だったって聞きました。今は……」
「今は、見ての通りじゃ」
ポフの声から、先ほどまでの威勢が消えていた。
「土地の魔力が弱っておる。薬草はほとんど育たぬ。……我も、この様じゃ」
言いながら、ポフは自分の小さな体を見下ろすように鼻先を下げた。
「かつての我は、もっと大きく、もっと力のある姿をしておった。この土地を守る力があった。じゃが今は……見ての通り、毛玉のようなちっぽけな姿しか保てぬ」
その声には、悔しさと諦めのようなものが混じっていた。ミルカは何も言えず、ただじっとポフを見つめる。
しばらく沈黙が続いたあと、ポフはふいと顔を上げた。
「――おぬし、何ができる」
「え?」
「新しい薬草魔女なのじゃろう。攻撃魔法か、防御魔法か、それとも儀式魔法か。何が得意じゃ」
ミルカは言葉に詰まった。
「その……攻撃魔法も、防御魔法も、あまり得意ではなくて。学院でも、落ちこぼれだって言われて……」
「なんじゃと」
ポフの声に、明らかな失望が滲む。
「では、何をしにここへ来た。ただの厄介払いか」
図星を突かれ、ミルカは唇を噛んだ。反論する言葉が見つからない。
けれど、ふと視線を落とした先――ひび割れた土のわずかな隙間から、細い雑草が一本、力なく伸びているのが目に入った。
ミルカはしゃがみこみ、その雑草にそっと指先を触れさせる。
(水が、ほしい。土も、硬すぎて、根が伸ばせない……)
いつものように、曖昧な感覚が流れ込んでくる。ミルカは近くに落ちていた欠けた水瓶を拾い上げ、井戸まで歩いて水を汲んだ。
戻ってくると、その雑草の根元に少しずつ水を注ぎ、指で土をほぐしていく。
「何をしておる」
「この子が、水がほしいって言ってたので」
「……この子?」
ポフは訝しげに近づいてきて、雑草をまじまじと見つめた。
しばらくすると、力なく垂れていた雑草の葉先が、わずかに、けれど確かに持ち上がる。
ポフの丸い目が、大きく見開かれた。
「おぬし……今、何をした」
「植物の声を、聞いているだけです。派手なことは、何もできませんけど」
ミルカは自嘲するように笑った。学院ではこれを魔法とすら認めてもらえなかった。試験の評価対象にすら入らない、些細な力だ。
けれどポフは、しばらく黙って雑草を見つめたあと、ぽつりと呟いた。
「……その力、久しく見ておらぬ」
「え?」
「土地の声を聞く魔法じゃ。今の王都の魔法師たちは、力で土地を従わせることばかり考えておる。土地の声に耳を傾ける者など、もう滅多におらぬ」
ポフはミルカをじっと見上げた。その目には、先ほどまでの侮りとは違う、何か探るような色が浮かんでいる。
「ここは、まだ終わっておらん」
その声は独り言のようでもあり、ミルカに向けられているようでもあった。
「おぬしが育てるなら、もう一度、芽吹くやもしれぬ」
ミルカはその言葉の重さを、まだ半分も理解できていなかった。けれど胸の奥に、小さな熱のようなものが灯るのを感じた。
「して、小娘。おぬし、今夜はどこに寝泊まりするつもりじゃ」
ふと、ポフが思い出したように尋ねてきた。
「村で借りた小さな家があるんですけど……まだ、荷物も片付けていなくて」
「ふん、まあよい。我が、村までの道を教えてやろう。この暗さでは、迷って森の方へ行ってしまいかねぬからのう」
「あ、ありがとうございます」
案外面倒見がいいらしい。ミルカがそう思っていると、ポフは、ふん、と鼻を鳴らして先に立って歩き出した。しかし数歩も進まぬうちに、ぴたりと足を止める。
「……どうしたんですか?」
「いや、その……道を、忘れた」
「え」
「ここ何年も、薬草園の外に出ておらぬのでな。村の道など、覚えておるはずもない」
開き直ったように言うポフに、ミルカは思わず脱力した。
「案内してくれるんじゃなかったんですか」
「案内するつもりじゃった。じゃが、記憶にないものは、案内しようがないではないか」
堂々と言い切るポフの態度に、ミルカはとうとう、こらえきれずに噴き出してしまった。
「な、何がおかしい」
「いえ、その……由緒正しき守り精霊様が、道に迷うとは思わなくて」
「う、うるさい! 迷ってなどおらぬ! ただ、確認しておるだけじゃ!」
しっぽを膨らませて憤慨するポフの姿は、迫力よりも愛らしさの方が勝っていて、ミルカはますます笑いを堪えられなくなった。結局、二人は月明かりと記憶と勘だけを頼りに、なんとか村までの道を見つけることになった。
☆
次の日から、ミルカはポフの案内で薬草園を歩き回った。
かつて畝だった場所、井戸の水脈、日当たりのいい一角と、逆に湿気の溜まりやすい窪地。ポフは渋々といった様子ながらも、意外に薬草園の隅々まで覚えていた。村までの道は忘れても、薬草園の地形だけは、しっかりと記憶に刻まれているらしい。
「あそこは、日当たりが良すぎて乾きやすい土地じゃ。あちらは逆に、水はけが悪い」
「じゃあ、水はけのいい場所から、少しずつ手を入れていったほうがいいかもしれません」
ミルカは荷物からノートを取り出し、祖母の書き込みを読み返す。萎れた土地を蘇らせる手順が、几帳面な文字で記されていた。
『まずは、いちばん弱った場所からではなく、いちばん見込みのある場所から』
その一文に従い、ミルカは薬草園の隅、比較的ましな土が残っている一角にしゃがみこんだ。土に指を差し込むと、かすかに、けれど確かに、地中に魔力の流れが残っているのを感じる。
(完全に死んでいるわけじゃない。眠っているだけ)
「ポフさん、ここに何か、種を蒔いてみたいんですけど」
「ポフさん、はやめよ。ただのポフでよい」
「じゃあ、ポフ。ノートに、月灯り草の種があるんですが」
「月灯り草……?」
ポフは首を傾げ、それから、はっとしたように顔を上げた。
「あれは、夜にしか育たぬ、気難しい薬草じゃぞ。今のこの土地で、育つかどうか……」
「試してみないと、分かりません」
ミルカは荷物の奥から、小さな布袋に包まれた種を取り出した。祖母のノートに挟まれていた、乾いた小さな粒だ。
ミルカは土に浅い溝を作り、種を一つずつ丁寧に埋めていく。作業を見守っていたポフは、しばらく黙っていたが、やがてぼそりと言った。
「……手伝ってやらんこともない」
「え?」
「我の毛は、薬草の種が根づきやすくなる力を持つ。使うてやるから、感謝せよ」
そう言うと、ポフはしっぽから一本、白い毛を引き抜き、種を埋めた土の上にそっと置いた。半分照れくさそうに、半分誇らしげに。
「ありがとう、ポフ」
「べ、別に、おぬしのためではない。この薬草園のためじゃ」
ぷいと顔を背けるポフに、ミルカは思わず小さく笑ってしまった。荒れ果てた薬草園で、初めて浮かんだ笑みだった。
☆
種蒔きを終えたあと、ミルカは井戸から水を汲んで、簡単な夕食の支度を始めた。パンと干し肉、それに、道中で買った野菜が少しだけ。豪華とは言い難いが、旅の疲れた体には、じゅうぶんすぎるごちそうだった。
「ポフも、何か食べますか」
「ふん、我は、精霊じゃ。人の食べ物など、必要としない」
言いながらも、ポフの視線はちらちらと、ミルカの手元のパンに向けられていた。
「じゃあ、いらないんですね」
「い、いや……そこまでは言うておらぬ」
「食べたいなら、素直にそう言ってください」
ミルカがパンを一切れちぎって差し出すと、ポフは、しばらく躊躇うような素振りを見せたあと結局、待ちきれなかったように、ぱくりとそれを頬張った。
「……美味い」
「精霊は、食べ物を必要としないんじゃなかったんですか」
「こ、これは、味の確認じゃ。おぬしの作る食事の質を、把握しておく必要があるのでな」
もっともらしい言い訳を並べながら、ポフは二切れ目のパンを、ちゃっかりねだっていた。ミルカはその素直じゃない態度がおかしくて、思わず肩を震わせて笑った。
夕食を終える頃には、すっかり夜が更けていた。月が昇り、青白い光が枯れた土地を照らしている。まだ何も変わっていないように見える。けれど、土の下では、確かに何かが動き始めている――そんな気がした。
家に戻る前に、ミルカはもう一度だけ薬草園を振り返った。
村外れに借りた小さな家へ戻ると、ミルカは旅の荷物を下ろした。家は簡素だったが掃除をすれば、じゅうぶんに住めそうな造りだった。
寝床を整えながら、ミルカはこれからの日々に微かな期待を抱いていた。
☆
翌朝、まだ夜が明け切らぬうちに、ミルカは目を覚ました。何かに呼ばれたような気がして、寝巻きのまま薬草園へと駆けていく。
昨日種を蒔いた一角に、小さな青白い光が瞬いていた。
近づいてよく見ると、それは光ではなく、土から顔を出したばかりの、ごく小さな芽だった。淡く発光するような、青みがかった若葉。
「……芽が」
ミルカは膝をつき、震える指先でそっと若葉に触れた。
(生きてる。ちゃんと、生きてる)
背後で、小さな足音がした。振り返ると、ポフが眠そうに目をこすりながら近づいてくるところだった。寝癖なのか頭の毛が一房、ぴょこんと跳ねている。
「何を騒いで――」
ポフもまた、その芽を見て言葉を失ったように立ち尽くした。寝ぼけ眼が、みるみるうちに驚きで見開かれていく。
しばらくの沈黙のあと、ポフのしっぽから、ぽろぽろと小さな光の粒がこぼれ落ちた。
「……久しいのう。この薬草園に、新しい芽が出るのは」
その声は震えていた。喜びなのか、それとも別の何かなのか、ミルカにはまだ分からなかった。けれど、荒れ果てていたこの場所に、確かに一つ、小さな奇跡が芽吹いた朝だった。
ミルカは初めて自分の魔法が、この場所に必要とされていると感じていた。
朝日が、薬草園全体を淡い金色に染めていく。傍らではポフが寝癖のついたまま、それでも誇らしげに胸を張っていた。
「見たか、小娘。これが、薬草園の力じゃ」
「ポフの寝癖、まだついてますよ」
「な、なんじゃと!?」
慌てて頭を撫でつけるポフの姿に、ミルカは思わず声を上げて笑った。荒れ果てていた薬草園に、少しずつ温かな時間が流れ始めていた。




