第一話 落ちこぼれ魔女、辺境へ行く
火球はミルカの手のひらの上で、ぽふん、と情けない音を立てて消えた。
試験場に、なんとも言えない沈黙が落ちる。
王都ルーメリアにある王立セレスト魔法学院、通称・王都魔法学院の第三演習場。高い天井には防火結界の青い紋様が浮かび、石造りの壁には歴代の優秀な魔法師たちの名前が刻まれている。名前の一つ一つが、まるでミルカを見下ろしているようだった。
その真ん中で、ミルカ・ラウレルは両手を前に出したまま固まっていた。
「……もう一度、やってみなさい」
試験官の声は、ため息を隠しきれていなかった。
「は、はい」
ミルカはうなずき、胸の奥から魔力を集める。
炎。熱。勢い。前へ放つ力。
何度も教本で読んだ言葉を思い出しながら、指先に意識を集中させる。けれど集まってくる魔力は火ではなく、どこか湿った春の土のような匂いをしていた。土の匂い、草の匂い、朝露に濡れた葉の匂い。魔力というより、雨上がりの庭のような感触だった。
違う。今は土じゃない。火。火を出さないと。
「炎よ、形を成して――」
唱え終える前に、指先に小さな光がともった。
今度こそ、とミルカは息を止める。
けれど生まれたのは拳ほどの火球ではなく、豆粒ほどの赤い光だった。それはふるふると震えたあと、やっぱり、ぽふん、と消えた。まるで機嫌の悪い蛍のような、頼りない光だった。
後ろの列から、小さな笑い声が聞こえた。
「次、防御結界」
試験官は淡々と続きを促す。もう驚いてもいないらしい。ミルカは唇を噛んで両手を胸の前に構えた。
結界は薄く、青白い膜のようなものが一瞬だけ空気に滲んで、次の瞬間には跡形もなく消えてしまった。試験官がそれを紙に書きつける音だけが、やけに大きく響く。試験場の空気は冷たく張り詰め、ミルカの手のひらだけが汗でじっとり湿っていた。
「ミルカ・ラウレル。攻撃魔法、実戦評価に届かず。防御魔法、同じく未達。……以上」
その一言で、三年間の総仕上げは終わった。
演習場を出るとき、すれ違った同級生たちの視線が、ちくちくと肌に刺さる。憐れみと少しの優越感が混ざったような目だった。ミルカは俯いて足早に廊下を抜けた。石造りの廊下に、自分の足音だけが、やけに大きく響いている気がした。
控え室に向かう途中、渡り廊下の植木鉢に目が留まる。誰かが水をやり忘れたのか、細い茎の薬草が力なく萎れていた。学院の温室で育てている、解熱に使うありふれた薬草だ。
ミルカは足を止め、しゃがみこんで、葉に指先をそっと触れさせた。
特別なことをしたつもりはない。ただいつものように、その小さな声に耳を澄ませただけだった。
(水が足りない。それに、この鉢、少し窮屈……)
言葉ではない。もっと曖昧な、湿った不安のようなものが指先を通してミルカの中に流れ込んでくる。ミルカは近くの水差しから少しだけ水を注ぎ、根元の土を指でほぐした。
しばらくすると萎れていた茎がわずかに持ち上がり、葉先に張りが戻る。
誰も見ていないその場所で、確かに小さな奇跡が起きていた。
けれど試験官に見せたところで、きっとこう言われるだけだ。園丁の仕事は魔法学院の卒業試験には関係ない、と。
(本当に、そうなのかな?)
ミルカは萎れかけていた薬草の葉先を、指先でそっとなぞる。学院の物差しでは測れない何かが、確かに自分の中にある。そんな予感だけが、いつも胸の奥に燻っていた。
ミルカは立ち上がり、萎れかけていた薬草にもう一度だけ視線を送ってから、控え室へ向かった。
控え室では、何人かの同級生たちが、すでに配属先の話で盛り上がっていた。
「私、王都魔法師団の第二部隊に配属が決まったの!」
「僕は宮廷付きの護衛魔法師だよ。警護魔法の適性があるって言われてね」
華やかな声の輪の中に、ミルカの居場所はなかった。壁際の椅子に腰を下ろし、膝の上で手を組む。誰かに話しかけられることもなく、ただ時間だけが過ぎていった。
ふと視線を上げると、遠くの窓際に、金色の髪をした少女――カリナ・オルブライトの姿が見えた。すでに、王都の警護魔法師団への配属が決まっているという噂の同級生だ。彼女の周りには、いつも取り巻きのような同級生たちが集まっている。
(さすがだな、カリナさんは)
ミルカは、そんな遠くの喧騒をただぼんやりと眺めていた。羨ましいという気持ちより、もっと諦めに近い感情が胸の奥に沈んでいく。
☆
卒業式の翌日、ミルカは学院長室に呼び出された。
配属先の通知を受け取るためだったが、部屋に入った瞬間、その重苦しい空気に胸がざわついた。
「ミルカ・ラウレル。卒業試験の結果を踏まえ、あなたの配属先は――」
学院長は眼鏡の奥の目を伏せがちにしながら、一枚の羊皮紙を差し出した。
「辺境レフィルナ村。旧薬草園の管理及び再生、ならびに村の魔法師代理として赴任すること」
辺境。旧薬草園。
王都から遠く離れた、ミルカでも名前しか知らないような小さな村だ。しかも「旧」薬草園というのは、つまり今はもう使われていない場所ということだろう。
「あの……薬草園というのは」
「かつては名の知れた薬草園だったそうだが、長年荒れたままだと聞いている。まあ実戦向きの魔法が苦手な君には、悪くない配属先だろう」
悪気はないのだろう。学院長の声には、むしろわずかな気遣いすら滲んでいた。それがかえってミルカの胸を重くした。憐れみの上に立てられた気遣いほど、重いものはない。
同級生たちは、王都の魔法師団や名のある貴族家の専属魔女として、次々に配属先が決まっていく。
十七歳で学院を卒業したばかりの自分が、誰も行きたがらない辺境の、しかも荒れ果てた場所へ一人で送られる。
これは栄転などではない。左遷だ。
控え室に戻る道すがら、すれ違う人々の視線が、ミルカにはひどく居心地悪く感じられた。誰も悪意を持っているわけではないのに、その視線の一つ一つが、ミルカの評価をそのまま映す鏡のように思えてならなかった。
☆
荷造りをしながら、ミルカは寮の部屋の隅にしまってあった古い革表紙のノートを取り出した。
祖母のグレイス・ラウレルが遺した、薬草の覚え書きだ。
王都でかつて名の知られた薬草魔女だったという祖母は、ミルカが幼い頃に庭先で薬草の育て方を教えてくれた唯一の人だった。学院の教師たちがミルカの魔法を「地味だ」「実戦に向かない」と切り捨てる中で、祖母だけは違った。
「ミルカ、お前の魔法はね、誰かを黙らせる魔法じゃない。誰かの暮らしを支える魔法なんだよ」
そう言って、いつも優しく笑っていた。祖母の家の庭先には、いつも様々な薬草が茂り、蜂や蝶が飛び交っていた。土の匂いと、薬草の青々とした香りが、今もミルカの記憶の奥にはっきりと残っている。
ノートを開くと、几帳面な文字で薬草の効能が書き連ねられている。ページの端には、時折こんな言葉も添えられていた。
『魔法は、命令ではなくお願いから始まる』
『土地を使うな。土地に加えてもらいなさい』
意味が分かるようで分からない言葉だった。けれど荷物の一番上にこのノートを詰めながら、ミルカは少しだけ心が軽くなるのを感じた。
肩のあたりで切り揃えた栗色の髪は、旅支度の慌ただしさで少し跳ねている。緑がかった茶色の瞳も、そばかすの浮いた頬も、自分では取り立てて目を引くものには思えなかった。
地味な旅装に身を包んだ姿は、攻撃魔法を操る魔女の凛々しさとは程遠い。
(これから、辺境で薬草園を立て直すなんて、私にできるのかな)
鏡の中の自分に問いかけても、答えは返ってこない。ミルカは小さく息を吐き、荷物を背負い直した。
☆
王都を発つ日、見送りに来る者はいなかった。古びた乗合馬車の中には、ミルカの他に、行商人らしい中年の男が一人乗っていた。男はミルカの荷物を見て、興味深そうに尋ねてきた。
「お嬢さん、その荷物、薬草の道具かい? 魔女さんかね?」
「はい、そうです」
「へえ、こんな辺境行きの馬車に乗るなんて、珍しいね。どこの村まで?」
「レフィルナ村です」
その村の名前を聞いた途端、男は少し眉をひそめた。
「レフィルナ村……。ああ、あの、荒れた薬草園がある村かい」
「ご存知なんですか」
「噂程度だけどね。昔は、名の知れた薬草園だったらしいけど、今はもう、誰も寄り付かないって話だよ」
男はそれ以上、詳しくは語らなかった。ただ、意味ありげに窓の外へと視線を逸らしただけだった。ミルカはその反応に小さな胸騒ぎを覚えたが、それ以上は尋ねずにおいた。
窓の外を流れる景色を眺めながら、ミルカは膝の上のノートをそっと撫でた。
(大丈夫。おばあちゃんも、こうして薬草と向き合っていたんだから)
そう自分に言い聞かせても、胸の奥には「私なんか」という小さな声が、ずっとくすぶっていた。
馬車が王都から遠ざかるにつれ、石畳の道はいつしか土の道に変わり、整然とした街並みは、のどかな田園風景へと移り変わっていく。畑の緑、遠くに霞む山並み、時折すれ違う羊の群れ。王都では見ることのなかった景色に、ミルカは少しだけ気持ちが和らぐのを感じた。
途中、馬車が休憩のために立ち寄った小さな宿場町で、ミルカは荷馬車から降り、体を伸ばした。旅の疲れが、じわりと肩にのしかかっている。
宿場の食堂で、簡単な食事を取っていると隣の席の老婆が、ふいに話しかけてきた。
「お嬢さん、どこまで行きなさる」
「レフィルナ村までです」
「レフィルナ……。ああ、あの村かい。まあ、静かでいいところだよ。ただ」
老婆は少し声を落とした。
「あの村の薬草園には、近づかん方がいいって話も聞くがねえ」
ミルカは思わず手を止めた。
「それは、どうしてですか?」
「詳しくは知らんよ。ただ、昔、何かあったって話だ」
老婆は、それ以上は語らず食事を続けた。ミルカはその言葉を、胸の奥にそっとしまい込んだ。薬草園には何か、人々が口にしたがらない過去があるのかもしれない。
☆
馬車を乗り継ぎ、何日もかけて、ようやくレフィルナ村に着いたのは、夕暮れ近くのことだった。
噂通り、小さな村だった。木造の家々が寄り添うように並び、遠くに畑と森が見える。夕焼けの光が家々の屋根を橙色に染めていた。煙突からは夕餉の支度をする煙が細く立ちのぼっている。
案内された道を進むと、村外れにぽつんと古びた木の門が見えてきた。
「ここが……薬草園」
門はところどころ腐り、蔦が絡みついている。中を覗くと、一面に枯れ草が広がり、かつて畝だったはずの土は硬く、ひび割れていた。手入れされなくなって、いったいどれほどの年月が経っているのだろう。
空気自体が、どこか重く沈んでいる。夕暮れの薄闇の中、その重さはいっそう際立って感じられた。
ミルカは門をくぐり、恐る恐る奥へと足を踏み入れた。
枯れ草を踏むたびに、かさかさと乾いた音が響く。まるで、長い眠りについていた場所を無理に起こそうとしているような、そんな気まずさすら感じた。
枯れ果てた薬草園の中央に、辛うじて形を保っている井戸がある。その傍らを通り過ぎようとしたとき、視界の端で何かが動いた。
枯れ草の陰から、こちらをじっと見つめる、小さな白い毛玉のような姿。
丸っこい体に、不釣り合いなほど大きな耳。ふさふさとしたしっぽは、体そのものよりも大きく膨らんでいる。
子狐のようにも見えるその生き物は、警戒するように、じっとミルカを見つめていた。
夕暮れの薄闇の中、二つの丸い目だけが、かすかに光を宿している。
ミルカは思わず、息を呑んで立ち尽くした。
(これは、動物……? それとも――)
枯れ草を踏む音とともに、白い毛玉がほんの少しだけ、こちらへにじり寄ってくる。
誰もいなくなった薬草園の奥で、たった一つ、確かに息づいているものが、そこにいた。
夕暮れの風が、枯れ草をさらさらと揺らした。




