第十六話 王都の命令書
森から戻った翌日、薬草園に慌ただしい足音が響いた。
「ミルカ君!」
息を切らして駆け込んできたのは、リュカだった。いつもの落ち着いた様子とは打って変わり、その表情には、明らかな焦りが滲んでいる。
「リュカ先輩、どうしたんですか?」
「王都から、正式な命令書が届いた。……君に、伝えておかねばならないと思って」
リュカは、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。王都の紋章が押された、格式ばった書面だった。
「読んでみてくれ」
ミルカは、震える手でそれを受け取り、目を通し始めた。
「――旧薬草園の再生状況を鑑み、当該土地を王都管理下に置くことを検討する。希少薬草の栽培を優先し、王都学院直属の管理人を派遣する方針とする」
文字を追うごとに、ミルカの顔から血の気が引いていった。
「これって……」
「薬草園を、王都の管理下に置くという命令だ。カリナと私が提出した報告書が、思った以上に、王都の関心を引いてしまったらしい」
リュカの声には、苦渋が滲んでいた。
「王都管理下に、というのは……村の人たちの暮らしのための場所じゃなくなる、ということでしょうか?」
「おそらく、そうなるだろう。希少薬草の栽培を優先するということは、月灯り草のような、王都で高値がつく薬草を大量生産するための場所になる、ということだ。村人たちの日常のための薬草茶や、香草パンのための花なんかは、優先されなくなるかもしれない」
リュカの説明を聞き終えても、ミルカは命令書から目を離すことができなかった。
王都の紋章が押された羊皮紙は、手に持っているだけなら、薄くて軽い。けれど、そこに並んだ文字は、ミルカ一人では支えきれないほど重く感じられた。
「この命令が実行されたら……今ある畝は、どうなるんですか」
「希少薬草の栽培に適した形へ、作り替えられる可能性が高い」
「作り替える……」
その言葉とともに、ミルカの頭に、今とはまるで違う薬草園の姿が浮かんだ。
陽だまり花も、朝露ミントも抜かれ、見渡す限り月灯り草だけが、同じ間隔で整然と並んでいる。メリルのシロップを作るための薬草も、セルマの香草パンに使う花も、「王都にとって価値が低い」という理由で、育てることを許されなくなる。
エルナの薬草茶の屋台も、ノエリアと続けてきた治療の記録も、ここでは必要ないものとして扱われてしまうのかもしれない。
そして畝の間には、村人たちの姿ではなく、王都から派遣された見知らぬ魔法師たちが立つ。
「私も、この場所にいられなくなるんでしょうか」
リュカはすぐには答えなかった。
「命令書には、学院直属の管理人を派遣するとある。君が補助として残る可能性はあるが、これまでのように、自分の判断で薬草園を運営することは難しくなるだろう」
自分が薬草園から追い出されたあとの光景まで、ミルカには想像できなかった。
毎朝、月灯り草の様子を確かめることもない。困りごとを抱えた村人を門で迎えることもない。祖母のノートを開き、ポフと相談しながら土に触れることもできない。
ようやく見つけた、自分の魔法が必要とされる場所。
学院で落ちこぼれと呼ばれていた自分を、初めて受け入れてくれた場所。
それが、羊皮紙一枚で奪われようとしている。
手の中で、命令書がかさりと鳴った。
そこで初めて、ミルカは自分の指が震えていることに気づいた。
「嫌です」
気づけば、声が漏れていた。
「私は、この薬草園を、そんな場所にしたくありません」
小さな声だった。
それでも、命令書に押された王都の紋章を見つめたまま、ミルカはもう一度、はっきりと言った。
「ここは、薬草をたくさん作るためだけの畑じゃありません。村の人たちと、ポフと、皆で育ててきた場所なんです」
傍らで、ことの深刻さを察したのか、ポフが珍しく神妙な顔つきで、命令書をじっと見つめていた。
「これは……由々しき事態じゃな」
「ポフも、そう思いますよね」
「うむ。ちなみに、この羊皮紙、齧っても構わぬか」
「だめです」
「なぜじゃ。証拠隠滅という、高度な作戦なのじゃが」
「証拠隠滅したところで、王都には控えがありますから、意味ないです」
あまりに緊迫感のないポフの発言に、ミルカとリュカは思わず、脱力するように顔を見合わせた。深刻な空気の中に、場違いな軽さが差し込むと、かえって、少しだけ肩の力が抜けるものらしい。
「リュカ先輩は、この命令に、従うつもりなんですか」
ミルカが尋ねると、リュカは、しばらく黙り込んだあと、冷静に答えた。
「私は、調査官として、王都の命令に従う立場にある。だが……」
リュカは、薬草園の畝を見回した。青白く光る月灯り草、村人たちが手入れをした跡が随所に見える、生きた土地の姿。
「正直に言えば、迷っている。この土地は、確かに、王都にとって価値のある資源かもしれない。だが、私がこの目で見てきたのは、村の人々の暮らしを支える、生きた場所としての薬草園だ」
リュカの声には、これまでにない葛藤が滲んでいた。
「命令に従うのが、調査官としての義務だ。だが、その義務が、本当に正しいことなのか――今、私には、分からなくなっている」
その言葉に、ミルカは、リュカの中で何かが変わり始めていることを感じた。
☆
その日の午後、カリナも薬草園を訪れた。彼女の表情にも、以前とは違う、複雑な迷いが浮かんでいた。
「ミルカ、命令書のこと、聞いたわ」
「カリナさんも……?」
「私とリュカ先輩の報告書が、きっかけになったのは事実よ。……正直、複雑な気持ちだわ」
カリナは薬草園の畝を見つめながら、冷静に続けた。
「私は学院で、常に結果を出すことを求められてきた。優れた成果が、王都に評価される――それが、私の価値観の中心にあった。だから、この薬草園の再生を、王都に報告することに、迷いはなかった」
「でも、今は?」
「今は……分からないの。この土地が、王都の管理下に置かれることで、失われるものがあるとしたら――それは、本当に、正しい判断なのかしらって」
カリナの声には、これまでにない不安定さが滲んでいた。
「私は王都の方針が、本当に正しいのかどうか、初めて疑問を抱いている気がするわ」
その言葉に、ミルカはカリナの中に芽生えた変化を、確かに感じ取った。
カリナは、ふと視線を落とし、傍らにいたポフに気づいた。
「精霊さん、あなたも、この状況、心配しているの?」
「当然じゃ。……ときに、金ぴか娘」
「まだその渾名、続けるつもりなのね」
「我が、おぬしを認めるまでは、続くと思うがよい」
軽口を交わすポフとカリナの様子に、ミルカは、二人の間に生まれた、これまでとは違う気安い距離感を感じた。緊迫した状況の中でも、そうしたやり取りが、ほんの少し、空気を和らげてくれる。
☆
「私は……まだ、正式な薬草魔女として認められたわけでもありません。王都に逆らえるような立場じゃないんです」
ミルカは命令書を手にしたまま、震える声で呟いた。
「この薬草園を、奪われてしまうかもしれない。私一人の力じゃ、どうにもできないかもしれない」
その不安が、胸の奥から、次々と溢れ出してくる。学院時代、いつも自分に自信が持てなかったあの感覚が、再び、重くのしかかってくるようだった。
「ミルカ!」
そこへ、勢いよく門を開けて、エルナが駆け込んできた。
「命令書のこと、村中で噂になってるよ! みんな、心配してる」
「エルナさん……」
「でもね、ミルカ。あたしは、こう思うの」
エルナは、ミルカの手を力強く握った。
「ここはもう、ただの薬草園じゃないよ。あなたの居場所でもあるし、村のみんなの、大切な場所でもある。簡単に、王都に渡すわけにはいかないよ」
その言葉に、ミルカの胸が、じんわりと熱くなった。
「エルナさん……」
「あたしたちが、絶対に力になる。だから、一人で抱え込まないで」
エルナの明るい声に、ミルカは少しずつ、勇気を取り戻していくのを感じた。
☆
その夕方、ノエリアも薬草園を訪れた。
「命令書のこと、聞きました。私も、できることを始めています」
「ノエリアさん……?」
「薬草園が、村の医療にどれほど役立っているか。記録を、正式にまとめています。もし、王都側との話し合いになった時、証言できるように」
ノエリアは、これまで積み重ねてきた記録帳を、ミルカに見せた。メリルの咳の記録、放牧地での影根草の一件、急病の男の子の治療――薬草園と診療所が、共に歩んできた足跡が、丁寧に綴られている。
「これだけの記録があれば、薬草園が、単なる資源ではなく、村の暮らしに欠かせない場所であることを、証明できるはずです」
その言葉に、ミルカは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、ノエリアさん」
「感謝は要りません。私も、この薬草園が、村にとって大切な場所だと、心から思っていますから」
☆
夜になり、ミルカは薬草園の畝の傍らで一人、命令書を見つめていた。
「ポフ」
「うむ」
「もし、薬草園が王都のものになってしまったら……あなたは、どうなるんでしょうか?」
その問いに、ポフはしばらく沈黙していた。
「分からぬ。じゃが、薬草園が、村人たちのための場所でなくなれば、我の力も、いずれ、また失われていくのかもしれぬ」
「そんな……」
「じゃが、まだ、決まったわけではない。おぬしと、村の皆、それに――王都の若造どもの中にも、この土地の在り方を、見直そうとする者がおる」
ポフの言葉に、ミルカはリュカとカリナの、あの迷いに満ちた表情を思い出した。
「私は、この薬草園を、絶対に守りたいです」
ミルカは、月明かりに照らされる畝を見つめながら、穏やかに、けれど確かな決意を込めて言った。
「王都に逆らう力は、まだ私にはありません。でも、この場所が、村の人たちにとって、どれほど大切な場所か――それだけは、諦めずに伝え続けたいです」
その言葉に、ポフはそっと寄り添うように、ミルカの傍らに座った。
「うむ。おぬしなら、きっとできる」
しばらくの沈黙のあと、ポフが、ぽつりと付け加えた。
「それに、我も、忘れておらぬ。あの羊皮紙、まだ齧る機会を、狙っておる」
「もう、それは諦めてください」
張り詰めていた空気の中、ミルカは思わず小さく笑ってしまった。深刻な状況の中でも、ポフのそういう軽さが時々、救いになる。
☆
数日後、薬草園に、村長からの知らせが届いた。
「ミルカ様、大変じゃ。王都から、正式な役人たちが、この村へ向かっておるという」
「役人たち……?」
「薬草園の管理方針を決定するため、直接、現地を確認しに来るそうじゃ。数日のうちに、村に到着するじゃろう」
その知らせに、ミルカの胸に緊張が走った。
これまで積み重ねてきた、村人たちとの絆、薬草園に育まれた小さな奇跡の数々。それらすべてが、王都の判断一つで、失われてしまうかもしれない。
ミルカは命令書を強く握りしめ、薬草園を見渡した。
夕暮れの薄闇の中、月灯り草の光が静かにミルカを照らしていた。




