第十五話 森の奥の聖獣
「あれは……」
ミルカが目を凝らすと、そこには、鹿の子どものような姿をした小さな生き物が、力なく横たわっているのが見えた。よく見ると、その角には若葉のようなものが生えている。
「聖獣……!」
エルナが、思わず声を上げた。ミルカたちが近づくと、その聖獣の体には、黒紫色の蔓――影根草によく似たものが、幾重にも絡みついているのが分かった。
「これは……羊たちを苦しめていた、あの影根草と、同じもの?」
「うむ。この森にも、同じ澱みが広がっておるようじゃ」
ポフの声に、緊張が滲む。聖獣は荒い息を繰り返しながら、時折、苦しげに身を震わせていた。
「今すぐ、手当てをしないと」
ノエリアがすぐさま薬箱を開き、聖獣の様子を確かめようとする。けれど、その手が触れた瞬間、聖獣の体がびくりと大きく震えた。
同時に、それまで力なく垂れていた黒い蔓が、一斉に持ち上がった。
「ノエリアさん、離れて!」
ミルカが叫ぶ。
ノエリアが手を引くより早く、蔓は聖獣の体へ幾重にも巻きつき、外からの手を拒むように固く締まった。
聖獣が恐怖に目を見開く。逃れようと前足を動かすたび、蔓はさらに絡まり、地面へ縫い止めるように広がっていった。
「待って。動いたら、もっと締まっちゃう!」
エルナが思わず駆け寄ろうとする。
「近づくでない!」
ポフの鋭い声に、エルナは足を止めた。
黒い蔓の先端が、聖獣を守る柵のように持ち上がっている。誰かが一歩近づくたび、その方向へ向きを変えていた。
「この蔓、私たちを警戒している……?」
ノエリアは聖獣との距離を取り、慎重に様子を見つめた。
「蔓だけではありません」
ミルカはその場にしゃがみ、聖獣へ直接触れないよう、少し離れた土へ指先を置いた。
(来ないで)
(触らないで。また、奪われる)
聖獣の恐怖が、地面を通して流れ込んでくる。それに呼応するように、黒い蔓が強張った。
「この子が、蔓を拒んでいるんじゃないんです」
「どういうことですか?」
ノエリアが、黒い蔓を見つめながら尋ねた。
「怖いから、この蔓に守ってもらおうとしているんです。自分を苦しめているものだと分かっていても、これがなくなったら、また誰かに傷つけられると思っている」
ミルカは黒い蔓を見つめた。
「だから、無理に引き剝がしたら駄目です。私たちまで、この子を傷つけようとする相手だと思われてしまいます」
「では、まず、私たちを信じてもらわなければならないのですね」
ノエリアの言葉に、ミルカはゆっくりと頷いた。
聖獣は荒い息を繰り返しながら、黒い蔓の隙間から、怯えた目でミルカたちを見つめていた。
「普通の薬草では、効かないかもしれません……。この蔓は、放牧地で見たものより、ずっと濃く絡みついている気がします」
ノエリアの言葉を聞いて、ミルカも聖獣に近づき、そっと手を伸ばした。
(苦しい。誰も、来ないで。もう、誰も、信じられない……)
流れ込んでくる感覚は、これまで感じたどの生き物のものよりも、深く、重い絶望に満ちていた。ミルカは思わず息を呑む。
「この子、すごく傷ついています。体の傷だけじゃなくて、心も……」
「心、というのは」
ノエリアが尋ねると、ミルカは聖獣の様子を見つめながら、答えた。
「誰かに、裏切られたような……そんな痛みを、感じます」
その言葉に、ポフが、はっとしたように顔を上げた。
「もしや、この聖獣も……薬草園と同じ、王都の魔法師たちに、傷つけられたのやもしれぬ」
「え……?」
「森の魔力と、薬草園の魔力は、繋がっておったはず。あの儀式の被害が、この森の聖獣にも、及んだのやもしれぬ」
その可能性に、ミルカの胸が痛みで締め付けられた。
「普通の薬草では効かないなら……どうすればいいんでしょうか」
エルナが心配そうに尋ねる。ミルカはしばらく考え込んだあと、冷静に口を開いた。
「この子が求めているのは、薬効だけじゃない気がします。誰かに、信じてもらえること。安心できる存在が、傍にいること」
「それなら、私にできることがあるかもしれません」
ノエリアが、ゆっくりと進み出た。
「治療師として、多くの怪我人を診てきました。体の傷を癒すだけでなく、安心させる声かけも、大切な治療の一つです」
ノエリアは、聖獣の傍にしゃがみこみ、落ち着いた声で優しく語りかけ始めた。
「大丈夫。私たちは、あなたを傷つけに来たわけじゃない。ゆっくりで良いから、少しずつ、心を開いてほしい」
その声の穏やかさに、聖獣の荒い息が、わずかに落ち着きを取り戻していく。
「エルナさんも、何か手伝えることは」
ミルカが尋ねると、エルナは少し考えてから、明るい声で言った。
「あたし、こういう時こそ、明るい雰囲気を作るのが得意だよ! ほら、聖獣さん、怖くないよ、大丈夫だよ!」
エルナは、物怖じせずに聖獣に近づき、優しく体を撫でる。その屈託のない態度に、聖獣の緊張が、少しずつ緩んでいくのが分かった。
ふと、エルナが思いついたように、背負っていた荷物から乾燥させた木の実を取り出した。
「これ、あげる。美味しいよ!」
鼻先に差し出された木の実に、聖獣が、恐る恐る顔を近づける。その様子を、傍らで物欲しそうに見つめていたポフが、たまらず口を挟んだ。
「そ、その木の実、我にも一つ――」
「ポフちゃんの分はないよ。これは聖獣さん専用」
「な、なにゆえじゃ! 我とて、傷ついた身であろうが!」
「ポフちゃんは、さっき、村長さんの家で、お菓子たくさん食べてたじゃないですか」
ミルカが横から突っ込むと、ポフは、ぐぬぬ、と悔しそうに黙り込んだ。緊迫した場面のはずが、その様子に、みんなは思わず張り詰めていた空気を、少しだけ緩めることになった。
「ノエリアさんの落ち着いた声、エルナさんの明るさ。それに、ポフの力も借りられれば……」
ミルカが振り返ると、ポフは先ほどの木の実の恨みも忘れたように、真剣な表情で聖獣を見つめていた。
「我にできることは、多くはない。じゃが、この聖獣が、我と同じように、傷ついた存在なら――我の力が、少しは届くやもしれぬ」
ポフはしっぽから、そっと一本の毛を抜き、聖獣の傍らに置いた。すると、その毛から優しい光の粒が、ふわりと舞い上がる。
その光が、聖獣の体をそっと包み込んでいった。
☆
ミルカは、ノエリアの声、エルナの温かさ、ポフの光を感じながら、聖獣の傷にそっと手を触れさせた。
(大丈夫。ここには、あなたを傷つける者はいない。ゆっくりでいいから)
流れ込んでくる痛みと絶望に、ミルカは優しく寄り添うように、自分の魔力を重ねていく。無理に絡みついた蔓を引き剥がすのではなく、その根元に少しずつ、月灯り草の力を染み込ませていった。
しばらくすると、聖獣の体に絡みついていた黒紫色の蔓が、少しずつ色を薄めていく。聖獣の呼吸も、次第に穏やかなものに変わっていった。
「効いてる……!」
エルナが、興奮した様子で声を上げた。ノエリアも聖獣の様子を注意深く確認しながら、安堵の表情を浮かべる。
「体温も、正常な範囲に戻ってきています」
最後の蔓が、ぽろりと地面に落ちると、聖獣は、ゆっくりと目を開けた。澄んだ、鹿のような瞳が、ミルカたちをじっと見つめる。
「良かった……」
ミルカが思わず息を吐くと、聖獣はゆっくりと体を起こし、そのまま森の奥へと歩き出した。
「あ、待って――」
エルナが呼び止めようとしたが、ポフがそれを制した。
「追う必要はない。あの聖獣は、我らを、どこかへ導こうとしておる」
聖獣は、時折振り返りながら、森の奥へと進んでいった。みんなは、その後を追うように、慎重に歩を進めていく。
やがて、聖獣は苔むした大きな岩の前で足を止めた。ミルカが近づいて見ると、その岩の陰に、古びた石の欠片が隠されているのが見えた。
「これは……!」
ミルカが欠片を拾い上げると、そこには、薬草園の石碑と同じ、古い文字が刻まれていた。
「読めますか、ポフ」
ポフは、欠片に鼻先を近づけ、じっと文字を見つめた。
「……うむ。『土地は所有されるものではなく、共に息づくもの』」
その一文に、ミルカの胸が大きく震えた。
「共に、息づくもの……」
それは、まさにミルカがこれまで薬草園で感じてきたことそのものだった。土地を支配するのではなく、寄り添い、共に生きる。学院で教えられた魔法とは、まったく違う在り方。
「これが、契約の本当の意味……」
ノエリアも、その文字を冷静に見つめながら、呟いた。
「王都の魔法師たちは、この契約の本質を見誤っていたのかもしれませんね。土地を、利用するものとしか、捉えていなかった」
その言葉に、みんなは、深く頷いた。
☆
聖獣は石の欠片を見届けたあと、静かに森の奥へと姿を消していった。その背中を見送りながら、ミルカは深く息を吐いた。
「今日、私たちが救った聖獣が、この場所へ導いてくれたんですね」
「うむ。この森と薬草園は、深く繋がっておる。あの聖獣もまた、この土地の一部なのじゃろう」
ポフの言葉に、ミルカは手の中の石の欠片を大切に見つめた。
「これを、薬草園の石碑と、合わせてみましょう」
「うむ。全容が分かれば、薬草園を完全に再生させる方法も、見えてくるやもしれぬ」
夕暮れが迫る森の中、みんなは来た道を戻り始めた。帰り道、疲れた様子のポフが、とうとう我慢できなくなったのか、エルナの荷物にじっと視線を送っている。
「エルナ殿、その、非常食とやら……そろそろ、味見をさせてもらえぬか」
「今頃!? まあ、いいけどね。頑張ったご褒美」
差し出された乾燥果物を、ポフは待ちきれない様子で頬張った。
「……美味い。じつに、美味い」
「良かったですね、ポフ」
夕焼けに染まる森の中、緊張の続いた一日の締めくくりに、ささやかな笑いが、みんなの間に広がった。
「私の魔法は、間違っていなかったんですね」
ミルカが呟くと、傍らを歩くポフが、木の実を頬張りながら、小さく笑った。
「当たり前じゃ。おぬしの魔法は、この土地が、本来求めておった在り方、そのものじゃからのう」
森を抜け、夕焼けに染まる空の下、みんなはそれぞれの胸に、確かな手応えを抱きながら薬草園への帰路についた。




