第十二話 ポフの失われた記憶
夜祭りの騒ぎが収まったあと、ミルカはポフを抱えたまま、薬草園の小屋へと運び込んだ。
ノエリアが慌ただしく薬箱を開き、ポフの様子を確かめる。
「呼吸は安定しています。ただ、体温が、少し低いようです」
「ポフ、大丈夫ですか……」
ミルカは、寝台代わりの布の上に横たえたポフの体を、そっと撫でた。いつもならふわふわと温かい毛並みが、今は驚くほど冷たい。指先に伝わるその冷たさが、ミルカの不安をいっそう掻き立てた。
村の夜祭りは、慌ただしく片付けられていった。皆、薬草園の奥から立ちのぼった黒い霧のことを話題にしながら、不安げな表情を浮かべつつ、それぞれの家路についていく。エルナとセルマも後片付けを終えたあと、心配そうな顔で小屋を覗きに来た。
「ミルカ、ポフちゃんは……」
「まだ、目を覚まさなくて」
ミルカの声に、エルナは眉を曇らせる。
「あたしたちにできることがあれば、何でも言って。今日は、もう帰るけど……」
「ありがとうございます。何かあったら、すぐに知らせます」
二人が去っていったあと、小屋の中には、ミルカとノエリア、そして意識を失ったポフだけが残された。ランプの淡い光の中、ミルカはポフの傍らに座り込み、ただじっとその小さな体を見守り続けた。
☆
夜が更け、明け方近くになった頃、ポフの体が、かすかに動いた。
「……ん……」
「ポフ!」
ミルカは思わず、身を乗り出した。ポフの瞼が、ゆっくりと開いていく。けれど、その目には、いつもの生意気さも、威厳を装う様子もなかった。ただ、深い疲労だけが滲んでいる。
「……ここは」
「薬草園の小屋です。あなたが倒れてから、ずっとここにいました」
ポフは、しばらくぼんやりとミルカを見つめていたが、やがて、小さく体を起こそうとする。
「無理しないで。まだ、体調が万全じゃないはずです」
「……いや。少し、話しておかねばならぬことがある」
ポフの声には、これまで聞いたことのない、重い響きがあった。ミルカは、傍らのノエリアと顔を見合わせたあと、ゆっくりと頷いた。
「あの黒い霧に触れたことで……我は、失っていた記憶の一部を、思い出し始めた」
その言葉に、ミルカは息を呑んだ。
☆
ポフはぽつり、ぽつりと、途切れがちな言葉で、記憶の断片を語り始めた。
「かつて、この薬草園は……村人と、我たち精霊が、共に守る場所じゃった」
「共に、守る……?」
「そうじゃ。村の者たちは薬草の世話をし、我は土地の魔力を分け与えていた。それは、互いに信頼し合う、対等な関係じゃった」
ポフの目に、遠くを見るような色が浮かぶ。
「じゃが、ある時……王都の魔法師たちが、この薬草園へやって来た」
「王都から……」
「何のために来たのか、村とどのような話をしたのか、まだ、はっきりとは思い出せぬ。ただ……彼らが土地の許容量をはるかに超える魔力を、無理やり吸い上げていったことだけは覚えておる」
ミルカの脳裏に、昨夜見た光景が蘇る。魔法陣を描く王都の魔法師たち。乾いていく大地。そして、それを守ろうと立ちはだかる、大きな白い狐の姿。
「あなたは、それを止めようとしたんですね」
「……止めようとした。じゃが、力及ばなかった」
ポフは俯くように頭を垂れた。
「我は身を挺して、これ以上の魔力を奪われぬよう、土地との繋がりを守ろうとした。じゃが、その代償として……我自身の力の大半と、記憶の多くを失った」
ポフの体が小さく震えている。ミルカはそっとその体を抱き寄せた。
「薬草園は、我が守り切れなんだせいで枯れ果てた。そして、いつしか村人たちも、この場所へ来なくなった」
ポフは、寂しそうに目を伏せた。
「なぜ皆が去っていったのか、その頃の我には分からなかった。……いや、今もまだ、すべてを思い出したわけではない」
「ポフは、ずっと、この薬草園を、一人で背負ってきたんですね」
ミルカの言葉に、ポフは力なく頷いた。
その様子には、長い年月をかけて積み重なった、深い罪悪感が滲んでいた。ミルカは、これまで見てきたポフの姿――偉そうに振る舞い、時折子どもっぽく甘えるその態度の裏に、こんなにも重い痛みが隠されていたことに、胸を締め付けられる思いがした。
「陽気なマスコットだと、思っていました。……ごめんなさい、あなたが、こんなに長い間、傷ついていたなんて、気づけなくて」
「謝ることではない。我は、あえて、そう振る舞うておった。この姿でいる限り、誰も、我の過去を、深く尋ねようとはせぬからのう」
ポフは、自嘲するように、小さく笑った。
「じゃが……おぬしは、違った。おぬしは、この薬草園に、本気で向き合おうとした。その姿を見て、我は、少しずつ、忘れていたはずの過去を、思い出し始めておるのやもしれぬ」
ミルカは、ポフの体を、そっと抱きしめた。
「ポフ、今度は、一人で背負わせません」
その言葉に、ポフは、驚いたように顔を上げる。
「一人で守ろうとしなくていいんです。私がいます。エルナさんも、ノエリアさんも、村の皆も。今のこの薬草園は、あなた一人が守るものじゃなくて……皆で、育てていくものだから」
ミルカの言葉に、ポフの目に、じわりと光るものが浮かんだ。
「……小娘のくせに、生意気を言う」
「小娘で結構です」
ミルカは、思わず笑みをこぼした。ポフも、ふん、と鼻を鳴らしながら、けれど、その表情には、これまでにない、柔らかな安堵が滲んでいた。
傍らで、その様子を見守っていたノエリアが、ゆっくりと口を開いた。
「今のお話、記録に残しておいてもいいでしょうか。もちろん、あなたたちが望むのであれば、という話ですが」
「……構わぬ。じゃが、王都に伝わるような形では、記してほしくない」
ポフの言葉に、ノエリアは頷いた。
「分かりました。村の記録として、大切に残しておきます。……これは、きっと、この村にとっても、忘れてはいけない歴史だと思うので」
ミルカは、ノエリアの言葉に密かに安堵した。ポフの過去、そして薬草園の真実は、慎重に扱わなければならない、繊細なものだ。それを、真摯に受け止めてくれるノエリアの存在は、心強いものだった。
「あの黒い霧は……あなたの記憶が、まだ完全には戻っていないから、生まれるものなんでしょうか」
ミルカが尋ねると、ポフは、しばらく考え込むように黙っていた。
「……分からぬ。じゃが、薬草園の最奥、古い精霊樹の下に、まだ多くの記憶と、力が眠っておるような気がする」
「精霊樹……」
「かつて、我の力の源であった木じゃ。今は、あの黒い霧の中心となっておる。……そこに近づくのは、まだ危険じゃろう」
ポフの声には、はっきりとした警戒があった。ミルカはその言葉を胸に刻み込んだ。
☆
重い話が一段落した頃、ノエリアがゆっくりと立ち上がり、竈の方へ向かった。
「少し、温かいものを淹れます。……こういう時、体を温めることも、大切ですから」
しばらくして、湯気の立つ薬草茶を手に、ノエリアが戻ってくる。差し出された茶碗に、ポフが鼻先を近づけた。
「これは……」
「眠り草と、蜂蜜を少し。疲れた体に、優しいはずです」
「ふむ、悪くないな」
ポフは、まだ本調子ではない様子で、ゆっくりと茶を舐めるように飲んだ。しばらくすると、心なしか、その顔に赤みが差してくる。
「ノエリア、おぬし、なかなか、良い腕をしておるな」
「褒め言葉として、受け取っておきます」
ノエリアが、珍しく口元を緩めた。その様子に、張り詰めていた小屋の空気が、少しだけ和らいだ。
「もう一杯、もらえるか」
「まだ、そんなに元気なんですか」
「うるさい。美味いものは、美味いのじゃ」
弱々しかったはずのポフが、茶のお代わりをちゃっかりねだる様子に、ミルカとノエリアは思わず顔を見合わせて、小さく笑い合った。深刻な空気の中に、ふと差し込んだ、ささやかな温かさだった。
☆
明け方の淡い光が、小屋の窓から差し込み始めた頃、ポフはようやく、いつもの様子で体を起こすことができるようになった。
まだ、完全に力を取り戻したわけではない。けれど、その目には、これまでとは違う、確かな光が宿っているようにミルカには感じられた。
「ミルカ」
「はい」
「おぬしの言葉、感謝する。……一人で守らずともよい、という言葉」
「はい、いつでも、そう思っています」
ポフは小さく頷くと、ミルカの膝にそっと体を寄せた。まだ弱々しさの残るその仕草に、ミルカは思わず優しくその体を撫でる。
「これからも、一緒に、思い出していきましょう。あなたの記憶も、薬草園の過去も」
「うむ……。おぬしとなら、きっと」
小屋の外では、朝の光が少しずつ薬草園を照らし始めていた。
夜祭りの賑わいが去ったあとの静かな朝。ミルカは窓の外へ広がる畝を見つめた。
まだ分からないことは多い。
それでも、今度は一人で抱え込まずに進んでいける気がした。
傍らでは、ポフが小さく寝息を立てていた。




