浅域の番人
森は、途中から静かに変わり始めていた。
最初に気づいたのは魔導士ではない。前衛の兵だった。足元で踏み砕いた枝の音が、奇妙に澄んでいたからだ。
兵が足を止める。
「……石?」
枝を拾う。だがそれは木ではない。紫色に透き通った結晶だった。
後方から魔導士が叫ぶ。
「触れるな!」
しかしその時にはもう遅い。砕けた結晶が粉となり、兵の鎧に付着した。粉は微かに光りながら魔力を吸い上げていく。
魔導士達が顔を見合わせた。
「……これは」
副官が低く言う。
「結晶化領域か」
視線を上げる。
森の奥では、木々がゆっくりと姿を変えていた。幹の表面が石化するように固まり、その内部から紫色の結晶が伸びている。枝も葉も、岩も、地面すらも、同じように結晶化していた。
まるで森そのものが巨大な鉱脈になったようだった。
副官がセラフィナを見る。
「団長」
セラフィナは歩みを止めない。
「進む」
声に迷いはない。
「魔王は奥にいる」
聖域魔導団の進軍は、他の探索団より速かった。彼らは魔法戦闘を主軸とするため、森の魔物を焼き払いながら直進してきた。途中で蒼天探索団や帝国騎士団の戦闘音も聞こえた。
だがセラフィナは振り返らない。
「弱き者を救うため」
「魔王を討つ」
それが聖域の教義だった。
他の探索団がどうなろうと関係ない。
副官は小さく息を吐いた。
「……やれやれ」
結晶の森を抜けた先。
そこに洞窟があった。
巨大な洞窟入口だ。だが普通の岩壁ではない。岩も木も、すべてが結晶化している。紫晶の柱が洞窟入口を囲み、地面から巨大な結晶樹が生えている。
まるで誰かが作った城門のようだった。
兵が呟く。
「……なんだここは」
次の瞬間だった。
森の奥で、何かが動いた。
静かな足音。
巨大な影。
そして姿を現した。
鹿だった。
だが普通の鹿ではない。体高は人の三倍。体は緑の毛並みを持つが、その角は完全に紫晶化していた。枝分かれした巨大な角が、まるで長い時をかけて成長した古木のように空へ伸びている。
魔導士達の顔色が変わる。
「魔力反応が高すぎる……!」
「これは王種じゃない!」
副官が呟く。
「王級頂点種か」
鹿はゆっくりと首を動かした。
巨大な紫晶角が、微かに光る。
その瞬間。
地面が裂けた。
結晶樹が一斉に突き上がる。鋭い棘が地面から生え、前衛の兵を貫いた。
「防壁!」
魔導士達が同時に結界を展開する。だが次の瞬間、結晶の枝が横から伸び、魔導士の足を絡め取った。
森そのものが敵だった。
副官が叫ぶ。
「散開!」
だが遅い。
結晶の枝は空間を縫うように伸びる。まるで意思を持つ蛇のように魔導団を囲い込んでいく。
鹿は一歩も動かない。
ただ角を僅かに傾けただけだった。
それだけで森が戦場になる。
副官の顔が歪む。
「……本当に魔物か?かしこすぎる」
これはただの暴力ではなく戦術だ。
鹿は侵入者を観察していた。魔導団が魔法主体であることも理解している。そして魔力吸収結晶を地面へ広げ、魔導士の魔力消費を増やしていた。
「団長!」
副官が叫ぶ。
「このままでは削られます!」
セラフィナは前へ出た。
瞳は狂信者のそれだった。
「問題ない」
空に巨大な魔法陣が浮かぶ。
「神の律はここにある」
鹿が初めて動いた。
角が光る。
森が爆発するように結晶化した。
地面、岩、木。すべてが紫晶の棘となり突き上がる。魔導士達が次々と貫かれた。
それでもセラフィナは止まらない。
魔法陣が完成する。
「天律裁断」
光が落ちた。
空間が歪む。巨大な光線が鹿へ降り注ぐ。結晶の枝が蒸発し、地面が焼ける。
しかし。
鹿は避けた。
巨大な体が信じられない速度で横へ跳ぶ。
光線が角の先端を掠めた。
その瞬間。
角が砕けた。
紫晶の破片が空へ散る。
セラフィナの身体が揺れた。
「……失敗した」
直後。
魔力が切れた。
セラフィナが膝から崩れ落ちる。
副官が即座に抱き止めた。
「団長!」
鹿は動かない。
ただ静かにこちらを見ていた。
副官は理解した。
「……撤退」
兵達が顔を上げる。
「撤退だ!」
残存兵力は半分以下だった。
結晶の森が静かに揺れる。
副官は鹿を睨んだ。そこで気づく。
結晶の森は
最初から 洞窟入口を守る形に配置されていた。
戦闘の途中で作られたのではない。
最初から。
侵入者を
洞窟へ近づけないために。
副官は低く呟いた。
「……こいつ」
「戦っていたのではく、守っていただけなのか...」
視線の先で鹿の角が静かに光る。
「魔王の守護者か……」
鹿は何も答えない。
ただ角の魔力を再び地面へ流し始めた。
洞窟入口の結晶は、さらに増えていく。
聖域魔導団は退いた。
洞窟を守る鹿を残して。
浅域最後の番人は、
そこに立ち続けていた。




