追撃戦
蒼天探索団の撤退していた。
乱れた呼吸を押さえ込みながらも、彼らの足運びにはまだ秩序があった。前を走るガレスが枝と岩の位置を瞬時に見切り、後方ではドゥーガが遅れた団員を強引に押し戻す。リディアは走りながら冷気をばら撒き、地面に薄い氷膜を張って追撃の踏み込みを乱そうとしていた。
だが、それでも距離は開かない。
背後の森で木々が揺れるたび、誰もが同じ確信を深めていく。
あの灰色の巨狼は、逃がす気がない。
アルヴァレクは一度だけ振り返った。
視界の奥、黒々とした樹々の隙間を、低い姿勢で滑るように駆ける影がある。月光も届かぬ灰森の中で、その双眸だけが濁った紫のように鈍く光っていた。
巨体であるはずなのに、耳に届く足音は異様なほど少ない。ただ、踏み込んだ地点だけが遅れて砕け、幹が斜めに折れ、獣道のような破壊の線が森に刻まれていく。
王級頂点種。
そして今は何より、蒼天探索団にとって最も危険な追手だった。
「団長、左から来ます!」
ガレスの声が飛ぶ。
その直後、左後方の木立が爆ぜた。
断牙の王はもっとも単純に、もっとも凶暴に、一直線で距離を潰してきたのだ。巨体が地を擦るほど低く沈み込み、次の瞬間には弾ける。筋肉の束が全身で一斉に収縮し、その解放だけで岩を砕き、土を抉り、空気すら遅れて悲鳴を上げる。
牙王絶走。
アルヴァレクの目が細くなる。
初撃ではない。すでに一度見た。だが、見たからといって対処できる速度ではなかった。
「散れ!」
叫びと同時に全員が跳ぶ。
狼が通過した跡だけが、遅れて裂けた。幹の太い古木が三本まとめて断ち切られ、飛び散った木片が刃のように頬を掠める。団員の一人が肩口を裂かれて転がり、すぐにエリネアが癒しの光を走らせた。傷は閉じるが、顔色は悪い。治せるのは裂傷であって、削られた体力までは戻らない。
蒼天探索団は強い。
王級魔物の討伐実績をいくつも持つ、人類側でも指折りの精鋭だ。そんな彼らが、逃げることしか選べない。
アルヴァレクは奥歯を噛み締める。
勝てないとは思はない。だが、この場で仕留める形に持ち込めない。森そのものが狼の脚を助け、こちらの視界と隊列を削ってくる以上、まともな決戦にはならなかった。
「陣地まで、あとどれくらいだ」
「この尾根を越えれば見えるはずです!」
リディアの返答は短い。彼女も余裕を失っていた。いつもなら冷えきった湖面のように静かな声が、今はわずかに掠れている。
背後で、また地面が鳴った。
来る。
アルヴァレクは走りながら大剣を半ばまで引き上げる。星鋼の刃に重力が絡みつき、青白い歪みが剣の縁を走った。迎撃の姿勢を見せれば、狼が一瞬でも軌道を変えるかもしれない。そう思った刹那、断牙の王は真正面から加速した。
迷いがない。
様子見もない。
狩りとはこういうものだと、獣の側から押しつけてくる。
「――蒼天断界!」
振り下ろされた大剣の軌道に、目に見えぬ重力の断層が生まれる。空間そのものを噛み切るような斬撃が狼へ落ちた。並の王種なら、骨格ごと押し潰されながら両断される一撃だった。
だが、断牙の王は止まらない。
前脚が沈み、肩が捻れ、全身の筋繊維が紙一重で斬線を逸らす。直撃を避けたわけではない。受ける角度を、ほんの僅かに変えたのだ。毛皮が裂け、血が散り、分厚い肩肉が抉られた。それでも勢いは死なず、次の瞬間には狼の牙がアルヴァレクの目前まで迫っていた。
鈍い衝撃。
大剣で噛み止めたはずなのに、膝まで痺れる。押し返されたアルヴァレクの靴底が地面を削り、後ろへ長い溝を作った。肺の奥まで揺さぶられる重さだった。
それでも、その一瞬で十分だった。
森が途切れる。
開けた空間の先に、黒鉄の壁が現れる。
帝国黒鋼騎士団の前進陣地だった。
幾重にも打ち込まれた木杭の内側で、重装騎士たちがすでに槍と盾を構えている。黒鋼の全身鎧は夜気を吸い込んだように鈍く光り、その列は人の軍勢というより、地面から生えた金属の崖に見えた。
中央には、ひときわ巨大な騎影がある。バルドリック=カイゼル。鋼山の騎士王。その視線が、退いてくる蒼天探索団ではなく、さらに奥から現れた灰色の狼へ向けられていた。
「それが、王級頂点種か」
低い声だった。感嘆ではない。敵を見定める軍人の声だ。
断牙の王もまた足を止める。
さすがに正面の圧を感じたのか、先ほどまでの一直線の殺意が、わずかに形を変えた。巨狼は頭を低くし、騎士団の横幅を眺めるように首を巡らせる。単騎の獣でありながら、その視線には包囲と突破口を同時に測る冷たさがあった。
「蒼天探索団、後方へ下がれ」
バルドリックが片手を上げる。
その動きひとつで、黒鋼騎士団の槍列が一斉に傾いた。
「ここから先は、帝国黒鋼騎士団が受け持つ」
アルヴァレクは息を整えながら数歩下がったが、完全には引かない。
騎士団だけに任せれば危うい。だが、騎士団の陣を借りなければ、この狼の追撃は止められない。その判断が苦いまま喉に残った。
夜風が、血の匂いを運ぶ。
次の瞬間、断牙の王が吠えた。
鼓膜を震わせるというより、胸骨の内側を叩くような咆哮だった。浅い森全体がびりびりと鳴り、傷ついた団員たちの足が一瞬だけ止まる。威圧ではない。宣言だった。この場に新しい獲物が増えた、と。
「来るぞ!」
バルドリックの号令と同時に、騎士団の魔力が繋がった。騎兵、歩兵、盾、槍、鎧、そのすべてが一つの術式に束ねられる。黒鋼衝軍。個人の強さではなく、軍そのものを兵器に変える帝国の奥義だ。
断牙の王が踏み込む。
黒鋼騎士団もまた前に出た。
正面衝突は、雷鳴よりも重かった。
先頭の大盾が歪む。鋼板に牙が食い込み、火花と血が同時に散った。騎士が二人まとめて弾き飛ばされ、鎧のまま地面を転がる。
一方で、狼の肩口には何本もの槍が突き立ち、脇腹には魔力を帯びた大盾が横殴りに叩き込まれた。巨狼の脚が半歩だけ沈み、その一瞬を逃さず、後列の騎兵が突撃角度を重ねて押し込む。
「止めろ!」
バルドリックの叫びが響く。
騎士団の列が更に前へ出る。
だが、断牙の王は止まらない。
その牙は鎧ごと腕を噛み砕き、爪は盾の縁から騎士の胸板を裂く。
それでも、黒鋼騎士団は崩れない。
一人が倒れれば、後ろの騎士が半歩詰める。盾が割れれば、その隙間へ別の盾が滑り込む。狼の突進を正面から受け止め、完全には押し切らせない。王級魔物すら簡単に押し止める。その評価に嘘はなかった。
アルヴァレクはその攻防を見ながら、静かに理解する。
勝敗はつかない。
このまま続けば、騎士団は確実に損耗する。狼も無傷では済まない。だが、どちらも今この場で相手を仕留め切る形には届かない。
ならば、先に引く判断をした方が負けではない。
戦場の目的が、討伐ではなく損耗の回避へ切り替わるだけだ。
巨狼は、騎士団の分厚い列へもう一度だけ深く踏み込んだ。槍を二本へし折り、盾兵を弾き、バルドリックの大剣と真正面から噛み合う。金属の軋みが耳障りに響いた。だが、その直後、狼は自ら跳び退いた。
土を跳ね上げ、距離を取る。
紫の目が、陣地の前に立つ人間たちを順に舐めるように見た。
蒼天探索団。
黒鋼騎士団。
どちらも、容易く喰える相手ではないと理解したのだろう。
森から吹く風が、灰色の毛並みを逆立てる。狼は低く唸ったあと、ゆっくりと身を翻した。撤退ではない。狩りの延期だ。そう言いたげな背中だった。
やがて、その巨体は樹々の奥へ溶けるように消える。
静寂が落ちたあとで、初めて負傷者たちの呻きが戻ってきた。
折れた槍、抉れた土、血の匂い。
陣地の前には、痛み分けという言葉そのもののような光景が残されていた。
バルドリックは大きく息を吐き、剣先についた血を払う。
「……化け物め」
「同感だ」
アルヴァレクも短く答えた。
先ほどまで自分たちを追い詰めていた相手を、帝国騎士団は受け止めた。だが、押し返したとは言い難い。互いに相手の危険度を、骨身に刻み込んだだけだ。
それでも意味はあった。
王級頂点種は、遭遇すれば討てる災害ではない。
陣地一つ、精鋭一隊をぶつけて、ようやく止めることができるる類の脅威なのだと、人類側はここで初めて理解したのである。灰森の竜巣が至った高みに。
その頃、灰森のさらに上空では、別の王が翼を広げていた。
夜雲の切れ間を抜ける巨大な影。
竜蜥種の始祖にして最大の個体、灰森の翼王が、森の天蓋よりなお高く舞い上がる。膜翼の縁を流れる魔力は淡く紫灰色に光り、羽ばたくたびに薄い雲が裂けた。下ではまだ人と狼が血を流しているというのに、その視線は戦場へ向いていない。
もっと遠く。
灰森の外へ。
滅びたはずの海洋国家、その先へ。
マーレミア王国の王都の方角だった。
翼王は一度だけ高度を上げると、身体を南へ傾けた。長い尾が夜空を切り、次の瞬間、その巨体は風そのものになったかのように加速する。森を支配する空の王が、今度は森の外へ出る。
それは単なる移動ではない。
灰森が、自らの生存圏を内側に留めるつもりはないという、静かな予告だった。




