生きる湖
灰森中央湖へ向かう水路は、不気味なほど静かだった。
黄金牙傭兵団の船団は、細く入り組んだ水路を抜け、灰色の森に抱かれる巨大湖へ差しかかっていた。百名を超える傭兵達は船縁に立ち、武器の点検を続けている。槌、斧、長柄武器、対魔物用投槍、そして商盟の資金で揃えられた魔力防壁具。どれも一級品だった。
先頭の船に立つガルド=ベレトは、腕を組んだまま湖面を見ていた。
広い。
森の湖としては不自然なほどだ。しかも水面が揺れない。風は吹いているのに、波紋はほとんど立たず、鏡のような湖面が空と森を映している。
「……静かすぎるな」
副官が肩をすくめた。
「巨大魔物の気配はありませんぜ。拍子抜けってやつでしょう」
「それが気に入らねえ」
ガルドは短く返した。
黄金牙傭兵団は、力で押し潰す戦いに慣れている。正面から叩き、砕き、踏み越える。それが彼らの戦い方だ。だからこそ敵が見えない状況は落ち着かない。強敵ほど圧がある。殺気がある。
だがこの湖には、それがない。
ない、はずだった。
船が、沈んだ。
最初は誰も意味を理解できなかった。水面は静かなままなのに、船首がわずかに傾き、そのままゆっくりと沈んでいく。
副官が眉をひそめた。
「おい、何だこれ」
甲板の下から、青いものが滲み出していた。
水ではない。
粘液だった。
半透明の青い粘液が船底から染み出し、木材を内側から侵食している。触れた部分がじゅうじゅうと音を立てて溶けていく。
「敵襲だァッ!」
怒号が上がった。
その瞬間、湖が動いた。
湖中央で小さな渦が生まれる。だがそれは一つでは終わらない。二つ、三つ、十、二十。湖面全体に渦が広がり、それらが互いに引き寄せられるように回転を始めた。
ガルドの顔色が変わる。
「……おい」
渦が一つになる。
湖全体がうねり始める。
そこでようやく傭兵達は理解した。
この湖には魔物が潜んでいるのではない。
この湖そのものが魔物だ。
誰かが叫んだ。
「こ、これは巨大なスライム!」
別の傭兵が怒鳴る。
「そんなのありかよ!」
答えの代わりに、湖が襲いかかった。
湖面が立ち上がる。いや、水ではない。巨大な青い粘液の壁が船団を囲むようにせり上がったのだ。
最初の船が呑まれた。
悲鳴は長く続かない。粘液が船ごと傭兵を包み込み、木材を溶かし、鎧の隙間から入り込み肉を焼く。湖に飛び込んだ者もいたが、それは逃走ではなく処刑の順番を早めただけだった。
「前へ出ろ! 固まるな!」
ガルドが怒鳴る。
黄金牙傭兵団がここで崩れなかったのは、さすがだった。重装の大男達が魔力を込め、巨大戦槌や戦斧を振り上げる。
「叩き割れ!」
ガルドが自ら先頭へ出た。戦槌に魔力が走る。
「黄金破城撃!」
戦槌が振り下ろされた瞬間、衝撃波が湖面を割った。
轟音。
青い粘液が巨大に抉れ、湖の中心に一瞬だけ空洞が生まれる。そこに見えたのは、より濃い青の魔力層だった。
「そこだ! 畳みかけろ!」
魔力投槍が飛ぶ。爆裂符が炸裂する。火と衝撃が湖面を焼く。
だが。
湖が、脈打った。
次の瞬間、中心部から巨大な渦が生まれる。湖全体が下へ引き込む力を持ち始め、船が次々と傾いた。
これは戦闘ではない。
捕食だった。
船同士が衝突する。粘液が縄を伝い甲板を走る。重装備の傭兵は逃げることすらできない。足が沈み、腰まで呑まれ、そのまま湖へ引きずり込まれる。
しかもこの湖は、ただ溶かすだけではない。
魔力を食っていた。
防壁具の光が次々消えていく。武具の魔力が粘液に吸われていくのだ。
百を超える傭兵団が、目に見える速度で削られていく。
ガルドは再び戦槌を振り上げた。
だが二撃目を打ち込む前に、足元の甲板が消えた。
船が溶けた。
身体が湖へ沈む。
「くそが……!」
その瞬間、背後の影が歪んだ。
「掴め」
ミカゲだった。
影から伸びた腕をガルドが掴む。
次の瞬間、二人は影へ沈んだ。
湖面が暴れる。
だがそこにはもう誰もいない。
次の瞬間、森の縁に二人の影が現れた。
ガルドは膝をつき、荒く息を吐く。鎧は溶け、皮膚は焼けていた。
湖を振り返る。
そこには何もなかった。
船も、部下も、痕跡すらない。
ただ広い青い湖だけが、静かに揺れていた。
ガルドが呟く。
「……全滅か」
ミカゲは湖から目を離さない。
「戦うべきじゃない」
少しの沈黙。
そして低く言う。
「八首の魔物よりも驚異だな……」
ガルドが苦く笑った。
「どうなっているんだ、この森は?」
答えはない。
灰森は国家を喰った。
ならば百人の傭兵など、ただの餌だった。
ミカゲが背を向ける。
「退くぞ」
黄金牙傭兵団団長ガルド=ベレト。
その男は、生き残った。
ただ一人だけ。




