動乱の世界へ
海を越えてきた伝令船が王都の港へ入ったとき、岸壁にいた兵士たちはその船の異様な姿にすぐ気づいた。帆は半分ほど裂け、船体には岩を削ったような巨大な爪痕が残り、船底には乾いた血が黒くこびりついている。まともな戦闘を経験した船ではない、あれは逃げてきた船だと誰もが理解した。
船は岸壁にぶつかるように止まり、甲板から兵士が転げ落ちるように降りてきた。その顔を見ただけで、周囲の者はただ事ではないと悟る。青ざめた顔、焦点の合わない目、そして剣を握る手の震え。
「オルカが……」
男はそこで言葉を失った。
喉が乾き、声が出ない。それでも彼は歯を食いしばり、ようやく絞り出した。
「交易都市オルカ奪還部隊……壊滅……」
周囲が凍りつく。
誰かが聞き返すより早く、男は続けた。
「王国軍……壊滅……」
そして最後に、最も信じ難い言葉を吐き出した。
「ヴァウデオウス五世……戦死……」
港にいた全員が言葉を失った。
王が死んだ。
それは単なる敗北ではない。
国家の中心そのものが、戦場で砕けたという意味だった。
その報せは、王都を駆け抜けた。
兵士から役人へ、役人から貴族へ、そして市井の人間へ。半日も経たないうちに、王都のすべての人間がその話を知ることになる。
だが、この事件の本当の恐ろしさはそこではなかった。
王が死んだ理由。
それを知った者は、誰もが同じ言葉を口にした。
灰森。
灰森の竜。
王都の会議室では、重苦しい沈黙が続いていた。
王の席は空席のままになっている。その背後に掲げられた王家の旗が、窓から吹き込む風にゆっくりと揺れていた。
「……信じられん」
老貴族の一人が、低く呟いた。
「ヴァウデオウス陛下が敗れるとは」
別の貴族が地図を見つめたまま言う。
「敗れただけならまだしも...」
彼の指は、灰森の位置を指していた。
「殺された...」
部屋の空気がさらに重くなる。
マーレミア王国は海洋国家であり、王はその象徴だった。海砕大剣アビスラグナを振るう海王剣術は国家そのものの象徴であり、王がいる限り王国は敗れないと信じられていた。
その王が死んだ。
しかも相手は国家ではない。
ダンジョンだった。
「灰森の竜巣」
誰かがその名前を口にした。
それはすでに人々の間で広まり始めている呼び名だった。
灰森の奥に生まれたダンジョン。
そして、その頂点にいる存在。
灰森の竜。
この事件は、王国一国の問題ではなかった。
数日後、その報せは海を越え、山を越え、他の国家へ届くことになる。
北方帝国。
リドヴァル商業同盟。
東方群島国家。
聖域都市連盟。
すべての国家が同じ報告を受け取り、同じ言葉を呟いた。
「王が死んだ」
そしてもう一つ。
「ダンジョンが、国家を滅ぼした」
だがこの事件を最も静かに観測している存在がいた。
遥か上空、星を観測する塔の頂で、一羽の鳥が翼を広げる。
酉。
十二災冠の一柱。
星界の観測者。
彼は遠く灰森の方向を見つめ、静かに呟いた。
「ついに国家を砕いたか」
風が塔を吹き抜ける。
「面白い」
その一言は、誰にも届かない。
しかしその瞬間、世界のどこかで別の存在も動き始めていた。
巨大な原生林の奥で、地面がわずかに揺れる。
岩山の頂で、巨大な影がゆっくりと立ち上がる。
それは虎だった。
山のように巨大な体躯、岩を砕く爪、そして戦場の匂いを嗅ぎ分ける黄金の瞳。
覇牙の試練王。
寅。
十二災冠の一柱。
その虎は遠く灰森の方向を見つめ、低く唸った。
「国家を殺した竜、か」
巨大な尾が岩を砕く。
「育ってきたじゃないか...」
虎は一歩踏み出した。
その一歩で山が震えた。
「その牙が、本物かどうかを俺自らが確かめようか...」
世界はまだ知らない。
この瞬間から始まる戦いが、国家の戦争ではなく、世界の戦争の前触れになることを。




