継がれた拳
ディルムッドの巨体は、もう動かなかった。
岩壁にめり込んだ身体は、水に半分沈み、血がゆっくりと広間へ広がっていく。最深層に満ちていた海水が、その赤を薄く拡散させていた。
カイは動かなかった。
拳を構えたまま、視線だけが壁に向いている。
呼吸が荒い。
ディルムッドは自分より上の戦士だった。
それが。
一撃。
それだけで終わった。
「……そうか」
声は低い。
怒りではない。
悲嘆でもない。
理解だった。
この戦場では、強い弱いではない。
狩れるか、狩られるかだ。
グラシアが横目でカイを見る。
「立て」
短い言葉だった。
だが意味は明確だった。
戦場に感傷を持ち込むな。
カイは答えない。
ただ、ゆっくりと拳を握り直す。
水面が揺れる。
灰色の竜は完全には立ち上がっていない。
翼は折れ、呼吸も重い。
それでも。
その瞳は狩人のままだ。
魔人がその隣に立つ。
紫と蒼の瞳が静かにこちらを見ている。
敵は二体。
しかも連携している。
カイの脳裏に、ある姿が浮かぶ。
小柄な男。
少女のような顔。
だが誰よりも強かった。
エリス。
拳の師。
あの男が言っていた。
「拳は力じゃない」
カイの呼吸がゆっくり変わる。
荒かった呼吸が落ち着く。
肩の力が抜ける。
構えが変わる。
それを見てグラシアが眉を動かす。
「……やっとか」
カイは目を閉じる。
水の音。
呼吸。
敵の気配。
すべてが流れとして感じ取れる。
拳が少しだけ下がる。
そして。
踏み込む。
速い。
今までとは違う速度だった。
魔人が反応する。
位相転写。
だが。
拳は止まらない。
「海砕流」
拳が空間を裂く。
衝撃は魔人に届かない。
だが水が動く。
海水が拳の流れに沿って回転し、渦を作る。
魔法ではない。
拳の“流れ”が水を操っている。
魔人の座標がずれる。
魔法の制御が一瞬だけ遅れる。
グラシアの瞳が細くなる。
「……なるほど」
カイの拳は、竜を見ていない。
魔人も見ていない。
見ているのは、戦場全体。
拳が振り抜かれる。
空間が鳴る。
「海砕流・断潮」
エリスの奥義。
だが完全ではない。
それでも。
竜の視線が変わる。
狩人の瞳が、わずかに細くなる。
魔人も理解する。
この人間。
さっきまでとは違う。
カイが拳を構え直す。
そして小さく呟く。
「師匠」
水面が揺れる。
戦場が、また変わる。




