剣の将軍
最深層の広間に満ちた海水が、赤い血をゆっくりと拡散させている。砕けた岩盤、崩れた柱、そして折れた棘翼。戦場はすでに原形を留めていない。
だが、戦いは終わっていない。
灰色の巨躯はまだ完全には立ち上がっていない。呼吸は重く、胸部の鱗は砕けたままだ。それでもアメジスト色の瞳は消えていない。狩人の光がまだ宿っている。
その前に立つのは二人。
剣の将軍、グラシア。
そして拳の継承者、カイ。
水面が揺れる。
グラシアは一歩前に出た。剣を肩に担ぐように構え、静かに息を吐く。その姿勢には焦りも怒りもない。ただ一つ、長い戦場を生き残ってきた者の静かな覚悟だけがあった。
「……ディルムッドはいい戦士だった」
誰に向けた言葉でもない。
ただ事実として言う。
そして剣を下ろす。
その瞬間、空気が変わった。
魔人の瞳が細くなる。
竜の瞳も同じだった。
危険。
それを直感で理解する。
グラシアの身体から、魔力が溢れ始めていた。派手ではない。炎のような輝きでもない。ただ、刃の周囲の空間が静かに歪む。
剣がわずかに鳴る。
グラシアは剣を持ち上げる。
刃が水面に触れる。
その瞬間、広間の水が動いた。
魔法ではない。
流れだ。
海水が剣の軌道に沿ってゆっくりと回転し始める。最初は小さな渦。だがそれは瞬く間に拡大し、広間の水そのものを巻き込み始める。
魔人が理解する。
これは魔法ではない。
技だ。
剣の軌跡が、水の流れを支配している。
グラシアが踏み込む。
速い。
さっきまでの速度ではない。
剣が振られる。
水が裂ける。
竜の首元を狙った斬撃は、棘翼で受け止められる。だが衝撃が違う。刃が当たった瞬間、水流が一斉に爆発する。
棘翼の骨が軋む。
竜の巨体が半歩後退する。
グラシアの瞳が細くなる。
二撃目。
刃が振り抜かれる。
今度は魔人が介入する。空間を歪め、位相をずらす。だが剣の軌跡は止まらない。水流が空間の歪みを押し流し、刃を本来の位置へ戻す。
魔人の瞳が見開かれる。
術式が押し切られた。
三撃目。
剣が落ちる。
「断海」
その一言と同時に、広間の水が縦に裂けた。
巨大な水の刃が、竜の身体を飲み込む。衝撃が岩盤を砕き、最深層の壁に大きな亀裂を走らせる。
竜の身体が弾かれる。
巨躯が壁へ叩きつけられる。
魔人の呼吸が止まる。
この剣。
危険だ。
単純な威力ではない。
水という環境そのものを刃へ変える技。ここが海水に満ちた戦場である以上、威力は際限なく増幅する。
グラシアは剣を振り抜いたまま動かない。
ただ静かに言う。
「次で終わる」
カイが横で拳を構える。
魔人は理解する。
この剣。
次を受ければ、主は耐えられない。
思考が回る。
逃げるか。
守るか。
攻撃するか。
答えは一つだった。
魔人が一歩踏み出す。
そして初めて、竜の横に立つ。
「主」
小さな声。
竜の瞳がわずかに動く。
その瞬間、戦場の空気が変わった。
これはもう。
個々の戦いではない。
竜と魔人。
二つの存在が、初めて完全に同じ戦場を共有する。
グラシアの瞳が鋭くなる。
カイが拳を握る。
最深層の戦いは、最後の段階へ進もうとしていた。




