竜の狩り場
水の音が、少しだけ変わった。
それは波の音ではない。
地下水脈から流れ込む海水の流れが、わずかに歪んだ音だった。
グラシアがその変化に気づく。
視線が動く。
水面。
天井。
岩壁。
そして、魔人。
少女の姿をしたそれは、ゆっくりと後退していた。逃げているわけではない。距離を測っている。足の運びは小さいが正確で、視線は三人を同時に捉えている。
カイが踏み込む。
拳が空気を裂く。
だが魔人は回避する。
半歩。
それだけで距離が外れる。
「逃げるな!」
ディルムッドが斧を振り上げる。
巨体が水を割り、踏み込みの衝撃で岩床が砕ける。
魔人は跳ぶ。
天井近くまで浮き上がり、空中に魔法陣を刻む。
水が動く。
海水ではない。
広間に溜まっていた水が、ゆっくりと流れを変える。
一見すると、何も起きていない。
だが戦場は確実に変わっている。
魔人は学習していた。
剣の間合い。
斧の振り抜き。
拳の踏み込み。
三人の戦闘動作が、頭の中で再構成されていく。
グラシアが剣を振るう。
魔人の髪が切れる。
しかし肉体は避ける。
ディルムッドが追撃する。
斧が床を砕く。
魔人はまた半歩下がる。
後退。
また後退。
カイの拳が迫る。
海砕流の残滓が空気を震わせる。
だが魔人は焦らない。
戦っているのではない。
“位置を作っている”。
グラシアの眉がわずかに動く。
違和感。
この魔人は未熟だ。
魔法の威力は大きいが、制御が甘い。
決定打がない。
それなのに。
なぜ退かない?
なぜ逃げない?
なぜ――
この位置で止まる。
その瞬間。
水面の下で、何かが動く。
グラシアの目が見開かれる。
「下だ!」
叫びが響いた瞬間、床が割れた。
灰色の巨躯が、跳ね上がる。
死んだはずの竜。
だがその瞳はまだ燃えている。
アメジスト色の光が、水の中で鋭く輝く。
棘翼は半壊している。
鱗は裂け、血が流れている。
それでも。
その一撃は、生き物の本能そのものだった。
尾が振り上がる。
岩盤を砕く質量。
巨獣の全体重。
怒りではない。
狩り。
ディルムッドが反応する。
斧を構え、防御の姿勢を取る。
その判断は正しい。
普通の魔物なら、それで防げた。
だが今回は違う。
尾が振り抜かれる。
衝突。
衝撃が広間を揺らす。
岩が砕ける。
水柱が立ち上がる。
ディルムッドの巨体が宙を舞う。
骨が折れる音がした。
壁に叩きつけられた瞬間、岩盤が陥没する。
血が飛ぶ。
斧が転がる。
動かない。
広間に沈黙が落ちる。
グラシアの剣が止まる。
カイの拳が固まる。
将軍級の戦士が、一撃で沈んだ。
竜は完全に立ち上がっていない。
翼は折れたまま。
身体も崩れかけている。
それでも。
狩りの一撃は、確実に命を奪った。
魔人は静かに着地する。
視線が竜へ向く。
小さく呟く。
「主」
竜の呼吸が重く響く。
完全な回復ではない。
だが狩場に戻った。
グラシアが剣を握り直す。
カイが拳を構える。
二人とも理解している。
今までの戦いとは、もう違う。
敵は二つ。
竜。
そして。
魔人。
水面が揺れる。




