押し寄せる海
最初に異変を感じたのは、外縁の根だった。
灰樹海の地中深く、菌糸と根が張り巡らされた層の隙間を、冷たい圧が這い始める。水だ。だが地下水脈の穏やかな流れではない。押し込まれる力を持った、外部からの侵略。
地面が震えた。
震えは外から内へ、ゆっくりと、しかし確実に伝播していく。外縁層の空洞が一つ、二つと満ち、空気が押し出される音が響く。獣たちが吠え、影泥が波打つように後退する。
海が来た。
地下水脈へと強制接続された膨大な水量が、地表の森を経由せず、直接巣へと流れ込んでいる。
地蟲界主は、深層の最も広い層に立っていた。巨大な体躯が、地脈と一体化するように沈み込み、周囲の岩壁が柔らかく溶けるように形を変える。震路の力が発動する。通路が閉じ、流路が曲がり、空洞が傾く。
だが水は止まらない。
圧が違う。
これは自然流入ではなく、意志を持った流れ。海そのものが押し込まれている。
外縁第一層、完全浸水。
第二層、半浸水。
菌糸が千切れ、甲殻種が滑り落ちる。灰殻界主の前衛部隊が退きながら骨の梁を組み替え、上層への退避経路を確保する。樹牢界主が根を絡ませて空洞を補強するが、罅の入った擬似核がわずかに軋み、その負荷が確実に増している。
「主」
核の声が響く。焦りはないが、圧は感じている。
「地下水脈再接続率、四割。完全遮断は不可能」
竜は翼を畳んだまま、深層の高台から水の侵入を見下ろしている。瞳の紫が揺れる。逃げ場はある。だが逃げるわけにはいかない。ここは巣であり、継承のための地盤だ。
地蟲界主が大きく地を打つ。
地獄沈界はまだ使えない。あれは反転飲み込み。今やれば、自層ごと崩落しかねない。代わりに震路は、流路を分断する。水を一度に受け止めず、無数の細い通路へ分散させ、排水用の旧層へと誘導する。
しかし王の術式は止まらない。
海が、押してくる。
水圧で岩が砕け、上層が崩れ落ちる。浸水した層では界主の力は大きく鈍る。水中ではその巨体は動きが鈍り、王種中位程度まで弱体化する。今は耐えるしかない。
地蟲界主の擬似核が脈打つ。
セルガルドの魂を基にした核が、怒りのような圧を発する。守れなかったか、というあの最期の言葉が、地脈を震わせる。
今度は守る。
地面が再び動く。新たな空洞が形成され、水を逃がすための巨大な縦坑が作られる。そこへ流し込む。だが排水量は流入量に追いつかない。
核が計算を続ける。
「三層まで浸水想定。地蟲界主、戦闘参加不可」
竜は静かに頷いた。
上層では、灰殻界主と樹牢界主が補強を続ける。反殻は水圧を受け止める壁となり、衝撃を蓄積する。だがいずれ陸軍が来る。水はそのための布石だ。
深層の空気が湿り、冷たくなる。
海の匂いが、巣に入り込む。




