大海が降る
王都マーレミアは海鳴りに包まれていた。
港湾の鎖が引き上げられ、戦列船が一斉に出航準備に入る。
甲板では魔導兵が刻印を描き、海兵たちは潮汐測定器を担いで走る。港町のざわめきは、いつしか重い静寂へと変わっていった。
これは遠征ではない。
国家規模の魔術行使である。
謁見の間ではなく、王は城下の海辺に立っていた。
海砕大剣アビスラグナが地面に突き立てられている。刃は蒼く、内部を流れる水流が脈打つたび、空気が震える。これは武器ではなく“媒体”。海域そのものを術式へと変換する継承装置。
ヴァウデオウス五世は両手で柄を握った。
「流せ」
低く、しかし優しい声。
海面が波打つ。
水が逆巻き、沖合から巨大な魔力の渦が立ち上る。
これは一斉放流。
灰森の地下水脈へと強制接続する術式。
だが王は動かない。
動けない。
起動後は術式の維持に魔力を注ぎ続ける必要がある。
その間、王は戦えない。
ただ海を支配し続ける存在となる。
それでも、王は笑う。
「母が子を守るのに、剣を振るう必要はないわ」
その言葉を聞いた者は、皆、膝を折った。
グラシアとディルムッドは陸軍を統括し、沿岸に巨大な術式補助陣を敷設する。魔導兵団が交代制で魔力を供給する準備に入る。
王国が、本気で牙を剥いた。
出陣準備を終えたカイは、甲冑の紐を締め直していた。
拳を握る。
エリスの背中が、浮かぶ。
あの人は、命令を守った。
最後まで、迷いながら。
(俺は何を守る)
命令か。
王か。
それとも——
灰森の竜巣を思い出す。
あの深層。
圧迫する魔力。
守るために動いた竜の姿。
自分は敗北した。
だが逃げたわけではない。
命令を守った。
「……次は、逃げない」
呟きは低い。
水没作戦は強力だ。
だが万能ではない。
ダンジョンが地下水脈を操作できる可能性。
地形を動かせる存在がいる可能性。
報告にあった“地蟲型の支配個体”。
(もしあれが地下を制御できるなら)
水は流されるだけでは終わらない。
カイは空を見上げる。
王は動けない。
将軍二名は前線指揮。
自分は——
最終突入要員。
深層へ再び降りることになる。
拳を握る。
恐怖はある。
だがそれ以上に、熱がある。
そして——
次は、あの竜を越える。
海は動き始めた。
地下深く。
地蟲界主は静かに層を組み替えていた。
通路を塞ぐ。
流路を曲げる。
水を誘導する。
核は目を閉じる。
「主、来る」
まだ水は届いていない。
だが圧は感じる。
灰森の竜は翼をわずかに広げた。
今回は、迎え撃つ戦いではない。
耐える戦いだ。




