灰森は海を呑む
交易都市オルカは、まだ形を保っていた。
だが空気はすでに死んでいる。領主セルガルドは帰らず、騎士団は壊滅し、将軍エリスは戦死したという報せが街を覆い、王国からの本格的な増援が来るまで持ちこたえるという、曖昧で希望的な目標だけが人々を繋ぎ止めていた。
しかし、灰森の竜は学んでいる。
深層の奥、巨大な空洞の中心で、灰色の巨体は静かに横たわりながら思考していた。翼は畳まれ、棘は収まり、アメジストの瞳だけがゆるやかに開いている。前に出れば核が狙われる。質量と力で押し切れる相手もいるが、ダンジョンを理解する者が現れた以上、自らが戦場の中心に立つことは合理ではない。
「私は、奥にいる」
低く響く声は独り言ではなく、宣言に近い。
核が応じる。
『外は、任せてください』
街は森の外縁にあり続ける限り、兵を送り、杭を打ち、いずれは王国の本軍を呼び寄せる。そのたびに深層は狙われる。ならば街そのものを消すべきだと、灰色の竜は結論する。憎悪ではない。復讐でもない。ただダンジョンの障害物を取り除くという判断。
ダンジョンが脈打つ。
地中に走る通路が一斉に開き、王種が動き出す。ギガ・アイソポッドは丸まりながら進み、石畳を押し潰し、城門を内側から崩す。多層殻が弓矢を弾き、魔法を逸らし、その巨体は止まらない。城壁の一角が内側から崩れ落ちたとき、街の防衛線は形だけのものになる。
同時に、地面が波打つ。
ギガントワームが地中を進み、基礎を喰らい、家屋を丸ごと飲み込む。悲鳴が石畳の下へ吸い込まれ、建物が傾き、塔が裂ける。逃げ惑う者の足元が突然崩れ、湿った闇がすべてを覆う。
灰王狼の群れが現れる。統率された動きで路地を塞ぎ、逃走経路を断ち、抵抗する兵を刈り取る。その背後では賢緑鹿が角を輝かせ、魔力を地へ流し込む。石畳の隙間から芽が伸び、蔦が塔を締め上げ、根が建物の内部に食い込み、石造の構造をゆっくりと内側から崩していく。
港は影沼粘体に覆われ、水路は黒く濁る。船底が腐食し、船は傾き、桟橋が沈む。海と森の境界が曖昧になり、潮の匂いは湿った土と混ざる。
蛇種は城館を締め上げる。窓から侵入し、梁に巻き付き、支柱を引き倒す。抵抗する魔法使いの詠唱は途中で止まり、鎖のような体がその動きを封じる。
それでも街は戦う。兵が盾を並べ、王国式の陣を敷き、魔法陣を展開する。だがそれは戦場の理であり、侵食の理ではない。これは正面衝突ではなく、環境そのものを書き換える拡張である。
深層で、灰色の竜は静かに観ている。
「森を拡げる」
それは征服ではなく、生存圏の拡張という理解だ。人間が街を築くように、蜂が巣を広げるように、ただ領域を増やす。そこに善悪はない。
三日を待たず、街の輪郭は崩れる。五日もすれば、石塔は蔦に覆われ、門は苔むし、道は根に割られる。十日も経てば、オルカという名は地図に残っても、実体は森となる。
灰森は、もはや森ではない。
海を呑み、街を呑み、境界を曖昧にする樹海へと変わる。
深層で、灰色の竜はゆっくりと息を吐く。
「これで、届きにくくなった」
核がわずかに震えながら応じる。
『森は、広がりました』
歓喜はない。ただ一つの事実だけが残る。
オルカは消えた。
灰森は、もはや樹海となった。
そして王国は、この報せを受け取る。




