海の王
王都マーレミアは、海霧に包まれていた。
高台に築かれた王城からは、港に出入りする船の影が見える。だがその日、港はいつもより静かだった。鐘が一度鳴り、城門が開き、血と土にまみれた巨躯の男がゆっくりと中へ進む。
カイ。
鎧は割れ、拳は砕け、片腕は包帯で吊られている。それでも足取りは止まらない。将軍の従者であった者として、報告を終えるまで倒れるわけにはいかなかった。
大広間は高く、天井には海神を模した彫刻が刻まれている。中央に立つのは、ヴァウデオウス五世。
筋骨隆々の体躯に豪奢な外套を纏い、大剣を背に立つ姿は威圧的だが、その瞳は柔らかい。強い母のような目。
「……帰ったわね」
低く響く声に、カイは膝をついた。
「将軍エリス、戦死」
空気が変わる。
王は目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。拳がわずかに震えるが、それを誰にも見せない。
「どう戦ったの」
問いは冷静だ。
カイは顔を上げる。
「核を断つため深部へ侵攻。灰森の竜と交戦。将軍は奥義“断潮”を放ちましたが……竜は立ちました」
広間がざわめく。
断潮を受けて立つ存在。それはただの魔物ではない。
「竜は、守る戦いをする。構造を理解している。個の強さではなく、巣そのものが兵器です」
王は静かに頷く。
「灰森の竜……」
その名が初めて王の口から出る。
「十二災冠に届くかしら」
側近たちが顔を見合わせる。十二災冠――世界を揺るがす古き主たち。その名を軽々しく出す存在ではない。
王は大剣を背から外し、ゆっくりと床へ突き立てる。
「エリスは、最善を尽くした」
声は震えない。だが、その奥に深い哀しみがある。
「ならば、母が動く番ね」
そのとき。
扉が荒々しく開かれる。
伝令が転がるように入ってきた。
「ご報告! 交易都市オルカ、壊滅!」
静寂。
「街は森に呑まれました。生存者わずか。港は沈み、城館は崩落。現在、灰森は樹海と化しております!」
空気が凍る。
王の瞳がゆっくりと開く。
「……そう」
一歩、前へ出る。
「森を拡げたのね」
怒りはない。理解がある。
灰森の竜は学び、前に出ず、外を侵食した。合理的な判断。だからこそ脅威。
王は玉座へは戻らない。
そのまま振り返る。
「軍議を開く」
重臣、将校、魔導師団長が集められる。円卓が囲まれ、地図が広げられる。灰森の位置、消えたオルカ、広がる樹海。
「これはただの戦ではないわ」
王の声が広間を満たす。
「総力戦よ」
誰も否定しない。
「灰森の竜巣を、正式に国家級災害と認定する」
静かな宣言。
「総動員。海軍は封鎖線を張り、陸軍は進軍準備。魔導師団は対ダンジョン戦用術を再編成」
王は大剣を引き抜く。
「私が出る」
どよめきが走る。
「陛下自らは――」
「母が前に出なければ、子は死ぬわ」
その言葉に、誰も反論できない。
ヴァウデオウス五世は情に厚い。だからこそ、守るためなら戦う。
「灰森の竜を滅する」
それは憎悪ではない。
決意だ。
海の王国が、本気で動き出す。
そして灰樹海の奥で、灰色の竜はまだ知らない。
自らが拡げた森が、海の王を呼んだことを。




