拡がる灰森
帝都が消えたという報を最初は誰も信じなかった。
伝令が届かない。
連絡が途絶する。
それだけならば戦時においては珍しいことではない。
しかし、次第に異常は明確な形となって現れる。
――帝都からの定時命令が、来ない。
それが意味することを理解した瞬間、各地の指揮官たちは同時に動揺した。
「……ありえん」
北方帝国西方防衛都市。
交易都市として栄えたこの地において、統治を任されていた貴族――
侯爵レオナルト・ヴァルディスは、机を叩きつけながら吐き捨てた。
「帝都が幻のごとく……消えただと?」
報告は錯綜している。
だが、共通しているのは一点。
帝都が、存在しない。
「確認は!?」
「使者を三隊送りましたが……いずれも帰還しておりません!」
沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは――
外から聞こえた、音だった。
水。
流れる音。
だが、この都市に川はない。
「……なんだ?」
違和感を覚えた瞬間、床が濡れていることに気付く。
いつの間にか、水が入り込んでいる。
扉の隙間から、路地の奥から、広場の石畳の隙間から。
じわじわと。
だが確実に。
水位が上がっている。
「……これは」
直感が告げる。
「外に出るな!」
だが遅い。
次の瞬間、地面が崩れる。
石畳が液状化し、その下から黒い水が噴き出すと同時に、街路がそのまま“沈む”。
そして――
巨大な影があらわれる。
八つの頭。
毒海の八首。
「なっ――」
言葉にならない。
その存在は、帝国一と言われた屋敷よりも巨大であり、その身体が動くだけで周囲の建物が崩壊し、毒を帯びた水が一気に溢れ出す。
直後。
八つの頭が同時に開かれる。
「退避――!」
叫びと同時に、放たれる。
毒。
霧。
水。
全てが混ざり合ったそれは、触れた瞬間に人の皮膚を溶かし、鎧を腐食させ、石すら崩す。
防御魔法が展開される。
だが、意味を成さない。
魔力ごと侵食され、結界が崩壊する。
「クソが……!」
レオナルトが剣を抜く。
だが、その瞬間にはすでに膝まで水に沈んでおり、足が取られる。
その間にも、水位は上がる。
逃げ場はない。
都市全体が、沼へと変わる。
毒界沼獄。
その完成だった。
次の瞬間、足を取られた兵士たちが次々と沈み、毒に侵されながらもがき、やがて動かなくなる。
それを、八つの頭が順に喰らう。
「……まさか、本当にダンジョンに」
レオナルトは、静かに呟いた。
そして、次の瞬間にはその身体もまた毒に侵され、溶けるようにして水の中へと消えた。
交易都市マルスは、数刻のうちに毒の海へと沈んだ。
同時刻。
帝国南方農業地帯。
穀倉地帯として帝国の食糧を支えてきたこの地において、伯爵グレイウス・ラーデンは異変を察知していた。
「……地面が、揺れている?」
違う。
揺れではない。
踏みしめるたびに、振動が返ってくる。
まるで――
大地の下に、何かがいるかのように。
「総員、警戒――」
その言葉が終わる前に、地面が裂ける。
内部から、黒い鉱石の腕が突き出る。
そのまま、引き裂くように地面を割り――
現れる。
巨大な鎧。
紫晶黒鉱兵。
「……ここまで攻め込まれているだと?」
グレイウスは剣を構える。
その背後には、農兵、騎士、傭兵。
数はいる。誰もが祖国を守ろうという気概も持っている。
だが、質が違う。
その事実を、全員が理解していた。
次の瞬間、黒鉱兵が腕を振るう。
ただそれだけで、大地が抉れ、衝撃波が走り、前列の兵がまとめて吹き飛ぶ。
「前進しろ!」
叫ぶ。
突撃。
槍が突き出され、魔法が放たれ、弓が放たれる。
だが。
通らない。
装甲に当たった瞬間、全てが弾かれ、逆に衝撃で武器が砕ける。
「――散開!」
だが、その判断も遅い。
次の瞬間、黒鉱兵の装甲が開く。
そこから、無数の兵が生まれる。
紫晶刃兵。
紫晶槍兵。
紫晶盾兵。
紫晶弓兵。
それらが一斉に展開し、統率された動きで包囲を開始する。
「……これじゃあ、数も意味ないじゃないか」
誰かが呟く。
そう。
これは魔物ではない。
軍勢だ。
しかも。
疲労しない。
恐怖しない。
崩れない。
次の瞬間、戦線が崩壊する。
前衛が押し潰され、側面が突き崩され、後方が射抜かれ、部隊が一瞬で分断される。
その中心で。
紫晶黒鉱兵が進む。
一歩。
それだけで大地が砕ける。
二歩。
建物が崩れる。
三歩。
都市が、壊れる。
「……私達が、この穀倉地帯を奪われるわけには」
グレイウスが呟く。
そして、剣を構える。
「まだ、生きているものは...少しでも時間を稼ぐんだ!」
踏み込む。
全力の斬撃を装甲へ叩き込む。
だが。
通らない。
逆に、腕が折れる。
次の瞬間、黒鉱兵の拳が振り下ろされる。
衝突。
地面が陥没し、周囲の建物ごと崩壊する。
その中心で、グレイウスの姿は消えた。
その後、戦闘は続いた。
だが、それは戦いではない。
制圧だ。
畑は踏み荒らされ、灌漑は破壊され、倉庫は砕かれ、人は全て殺される。
そして最後に。
静かに、兵が整列する。
紫晶黒鉱兵の背後で。
まるで。
都市が、そのまま軍事拠点へと変わったかのように。
帝都消失から、数刻。
灰森は、広がる。
森が侵食し、菌糸が地中を走り、地脈が繋がり、魔物が湧く。
それは侵略ではない。
拡張だ。
生態系が、自らの生存圏を広げるだけの行為。
その結果として。
帝国の領土は、急速に失われていく。




