軍靄
帝都軍事区。
そこは、戦うために作られた場所であり、戦うために生きる者たちが集まる区域だった。
整列した兵舎、連なる鍛冶場、魔導塔、そして外縁を固める城壁はすべてが戦場として機能するよう設計されているが、その中心に立つ一人の男――バルドリック・カイゼルは、空の歪みを見上げたまま、わずかに目を細めた。
「……ついに始まったのか。」
異変そのものには驚かない。
すでに戦争は始まっていたからだ。
だが、次の瞬間に訪れた変化は、彼の想定をわずかに上回っていた。
空間が裂ける。
いや、正確には“ずれる”。
視界の奥にあった帝都の街並みが、まるで別の場所に差し替えられるように変質し、その違和感が現実へと落ちてきた瞬間、兵士の一人が叫ぶ。
「……敵影!」
それは霧のように現れた。
黒。
灰。
そして白。
人だったもの。
鎧を纏ったまま倒れ、腐り、砕けたはずの存在が、立ち上がっている。
「隊列を組め」
バルドリックの声が落ちると同時に、帝国黒鋼騎士団が動く。
重装兵が前列を固め、後衛の魔導兵が展開し、槍兵が隙間を埋める。
完璧な布陣。
それに対して、死の軍勢はうごきを見せない。
しかしそれは――
すでに陣形が完成しているが故の余裕。
「……なるほど」
バルドリックは静かに呟く。
ただの死体が戦っているのではない。
何か強大な力を持つ存在に“操られている”。
その証拠に、動きがあまりにも合理的だった。
直後、地面に落ちた影が伸びる。
その中心から、ゆっくりと一体の存在が歩み出た。
灰殻界主。
骨と菌糸、それらが圧縮された構造体が人型を模しているが、その内部には“意思”はなく、あるのはただひたすらの空虚。
それが、前線に立っている。
「敵将、確認しました。あれは、王級頂点種?でしょうか?」
誰かが呟いた。
だが、その瞬間に戦闘は始まっている。
死体兵が踏み込むと同時に黒鋼騎士団の前列が盾を打ち込み、衝突した衝撃が空気を震わせながら双方の陣形を押し返す。
その隙間を縫うように槍が突き込まれ、数体の死体が砕けるが、後列から即座に補填され、戦線は崩れない。
「……質では勝っている」
バルドリックは冷静に判断する。
だが同時に、違和感を覚える。
数が減っているのに、圧が変わらない。
いや――
「むしろ増えている?死体を……再利用しているのか?」
砕かれたはずの兵が、再び動く。
骨が繋がり、筋が再構築され、戦線に戻る。
「厄介だな」
その時だった。
遠方。
軍事区の外縁にあたる塔の一つが、崩れた。
轟音。
振動。
視線が一斉に向く。
「……何だ?」
誰かが呟くよりも早く、次の塔が崩れる。
そして、城壁の一部が“潰れた”。
爆発はなく、削れたわけでもない。
ただシンプルに巨大な質量によって押し潰されたように。
「……まだ、何か来るのか?」
バルドリックの声が低く落ちる。
その瞬間、地面が震えた。
規模が違う。
戦闘の衝撃ではない。
もっと根本的な――
質量。
そして、見えた。
遠方。
瓦礫と煙の向こう。
それは“転がっていた”。
巨大な殻。
圧縮された球体。
だが、その表面には無数の棘と装甲が重なり合い、ただの塊ではないことを示している。
甲殻界主。
その本体が丸まり、回転しながら突進している。
進路上のすべてを巻き込みながら。
塔が砕ける。
城壁が弾ける。
逃げ遅れた人間が、瓦礫ごと消える。
その光景を、バルドリックは一瞬だけ見た。
「……っ」
反射的に踏み出す。
軍事区に多くの人がいる。
救助に向かわなければならない。
だが――
踏み込んだ足が、止まる。
“道が消えている”。
物理的に消えているわけではない。
しかし、救助に行くならば死体の群れを押しのけなければならないように陣が敷かれ、離脱経路が切断されている。
「……そう来るか」
理解は一瞬だった。
これは偶然ではない。
甲殻界主の突進。
それによる破壊。
そして、その後の救助行動を――
封じている。
「救わせる気はない、か」
低く吐く。
その間にも、死体兵は攻めてくる。
無駄な動きが一切ない。
完全に“誰一人逃がさないための戦術”。
バルドリックは剣を構え直す。
視線は前。
だが意識の一部は、確実に別方向へ向いている。
「……全隊、前線維持」
声が響く。
「ここが崩されれば、全て崩れる。踏みとどまれ!」
騎士たちが応える。
叫びはない。
低い、確信の声。
その瞬間、前列が踏み込み、死体兵を押し返しながら剣が振り抜かれ、骨ごと断ち切られた敵が崩れ落ちる。しかしその直後、後方から新たな死体が補填され、戦線は再び密度を増し、押し返したはずの距離が消える。
「……止まらんか」
それでも、バルドリックは退かない。
ここを抜ければ救える。
だが、抜ければ崩れる。
その選択を、相手は理解している。
「陛下ならば...」
静かに呟く。
そして同時に――
「このような戦場易々と突破されるでしょうなあ。」
踏み込む。
ただの斬撃ではない。
陣形を“断つ”一撃。
死体兵の連携を崩し、一瞬だけ戦線に歪みが生まれる。
その隙間。
だが――
即座に死の軍勢で埋まる。
「……そう簡単にはいかんか。」
その時、再び遠方で轟音が響く。
崩壊は止まっていない。
甲殻界主は、まだ止まらない。
そして、それを止める手は――
ここにはない。
「……くそ」
初めて、言葉が漏れる。
だがその直後、彼は再び剣を振るう。
迷いはない。
守るために、ここにいる。
だが――
救えない命があることも、理解している。
戦場は、すでにダンジョンに有利な形で崩壊していた。




