私と愛しい人。
「アーサー、兄様がナンパしてる。」
「はぁ?って、まだ子供じゃないか。おどかすなよ。」
兄カルロの下に弟と共に引き取られ、母の魅了に支配され続けている貴族達に甘やかされながら、日々教養を身に付けていく日々。その合間には、自分の力を磨く為に兄の指示を受けて特訓も続けていた。
ある日、キャロラインは身も知らない場所で目覚めた。
眠る前はちゃんと王宮に用意された自分の部屋だった筈。なのに、目覚めてみればキャロラインは12歳という年齢に見合った、可愛らしドレスや最低限のそれでいて最高級品だと分かる装飾品を身に纏い、キャロラインと同じように身支度を整えた兄と、キャロラインの傍に就くことが多い『影』アーサーと共に小さく振動する馬車の中に居た。
戸惑うキャロラインに兄は笑うだけで、説明一つしてくれなかった。
見かねたアーサーが、とある国が主催する舞踏会に出席するのだと教えてくれた。ダンスや礼儀作法はこの前習っていたよね、と笑う兄を殴りたくなった事をキャロラインは何時までも忘れることはないだろう。
会場に着いた後、暫くはキャロラインと一緒に居て様々な人間と挨拶していた兄だったが、初めての状況に戸惑い怯えるキャロラインをアーサーに任せて姿を消したかと思えば、キャロラインとそう年の変わらない少女に声を掛けている姿を見てしまった。
上品さなど一切ない田舎で育ったキャロラインの口から、俗な言葉が零れた。
キャロラインの言葉に驚いたアーサーが、皇太子に付き添う若い貴族という外面を保っていた顔を大きく崩してキャロラインが指差す場所を見た。
公爵家の娘か。
『影』であるアーサーは、この国を訪れるに当たって事前に情報を頭に入れていた。その顔を見ただけで名前、家名、帝国にとっての重要度が頭の中に流れる。
カルロが声を掛けて、会場の壁沿いに用意されている休憩用の椅子に誘っているのは、筆頭公爵の娘、そして第二王子の婚約者だと瞬時に理解した。本人は隠しているようだが、微妙な足のぎこちなさに足を痛めたのかと推測する。キャロラインの一つ上の少女の様子に、カルロが気遣いを見せたのだろうか、と判断した。そんな心がアーサーの主君にあるかと言われれば首を傾げるが、余計な口出しはしない。この会場に居る間は、アーサーの役目はキャロラインを護ることだ。カルロの守りは、何処かに潜んでいる仲間が担っている。
「大分、お前に警戒を向けているな。」
「うん。これで、次にこの場所に来た時は皆、私に優しくしてくれるよ。」
キャロラインがこの場につれてこられたのは、特訓の成果を発揮する為だった。
隣国にあたる大国の皇太子が突然、王子達とそう年の離れていない『妹』だという少女を連れてきたのだ。何をする気だ、と貴族達が秘かに警戒を強めるのは仕方ない事だ。第一王子の妻にと言い出せば、大国が第一王子の後ろ盾となることを意味することになる。第二王子の妻にと言い出せば、全てにおいて比べ物にならない大国に逆らうことは難しく、すでにいる婚約者などその話を遮る壁の役目にもなりはしない。どちらにしようと、王国は大きく顎を開いた大国に飲み込まれる寸前の状態に追い込まれるだろう。
「失礼。僕と踊って頂けませんか?」
あからさまではないものの集まってくる視線の中で、そうキャロラインに声を掛けてきた勇気ある子供は、こういった場に慣れていないのか緊張した面持ちでキャロラインに手を差し出してきた。
どうしよう。
キャロラインがアーサーを見上げて聞いてきたが、こういう場合で断るのはあまり得策ではない。行ってくるといい、と普段では使わない優しげな声音でキャロラインの背中を押した。
婚約者は皇太子と、第二王子は皇女。
アーサーはニヤニヤと持ち上がりそうになる口端を何とか押し留め、クルクルと踊り出したキャロラインから目を離さないようにと気を引き締めた。
初めての場所の、初めて知らない相手と踊るダンス。キャロラインはこの日誘われて踊った相手の事を全く覚えてはいなかった。
でも、アーサーは覚えていた。
踊っている中で、第二王子ラシドがどんな表情をしていたのかも。
姿形を自在に変幻させる『祝福』を持つアーサーは、人の僅かな顔色や表情の変化でその時その時の考えや想いを推し量る事が出来る。それが、40年に及ぶ人生でアーサーが培った『祝福』とは関係のない特技だった。
多くの人間がキャロラインに、毒を仕込まれているのだとも知らずに警戒を示す中、ラシドだけは違う色を纏っていることに、アーサーは気づいていた。
「んんん?これって、まだ落とすのは先とは言ってたけど、厄介なことになるかも知れない、か?」
主君の言葉によれば、王国を落とすのはまだまだ先のこと。だから、その頃には第二王子もキャロラインに抱いた想いなど忘れているだろうと考え、アーサーは報告書の端に認めるだけで頭の端に追いやった。
まさか、帰国後すぐにカルロが父帝を退位させて、皇帝の座に即位することになるとは、アーサーもキャロラインも思ってもみなかった。
まだまだ数年も先のことを言っていた計画の開始を早めるとカルロが宣言した時は、アーサーだけでなく『強欲』の本性を知る『影』達全員が驚いた。
主君の命に背くことの出来ない、扱き使われる哀れな部下は、ただただ『強欲』の皇帝の意のままに、キャロラインに近い年代の姿を作り出し、子爵領に入り込み、皇帝の『友人』が寄越した騎士に気に入られて…、という流れに身を任せるだけだった。
んっ。
急速に頭が動き始めた。
閉じた瞼の向こう側が眩しく白い光に覆われている。
うっすらと目を開けてみれば、目の前を真っ白で小さな花が幾つも連なった植物が覆い尽くしていた。
ボォッとする頭を振りつつ、キャロラインは上半身を起こした。
「スゴイ…」
何よりも先にしなければならない状況判断も後回しにして、キャロラインの口から漏れたのは感嘆の言葉だった。まるで新雪が降り積もっているように、あたり一面が真っ白に染め上がっている。それはよく見れば、キャロラインが先程起きたばかりの際、目にした真っ白で小さな花が幾つもが連なり丸い花の形を作り上げている植物が大量に咲き乱れているのだと知れた。
そよそよと風に揺らされ、白い粉が空に浮かびあがる。
青い空の下に広がる幻想的ともいえる光景に、キャロラインはついつい見惚れてしまった。
「真っ白な花が咲き乱れる花園。」
一つの生を終わらせた命がまず足を踏み入れるのは、『冥府』の入り口にある花園。
見渡す限りに咲き乱れる数多の真っ白な花は、地上に存在する命の数だけあるという。
花園に足を踏み入れた命の、生前の記憶、『祝福』、『運命』、罪、善行などを一輪の花が吸い取り、死を迎えた命が『冥府の神』の下へと進み出る時には、『冥府の神』の手の中に白ではなくなった花が運ばれている。『冥府の神』は花の色、その中に宿った罪を裁定し、その命に裁きを下す。
キャロラインは、はっきりと目覚めを迎えた頭をしっかり持ち上げ、ハッと息を飲んだ。
「ラシド様。」
此処が『冥府』の入り口ならば、何処かにラシドが居るかも知れない。
死した命は、花園で数日過ごす。
それは、命それぞれで違うことだったが、最低でも数日、花が全てを写し取って真っ白な色を変化させるまで死者は次へと向かう道さえも見い出せない。
ラシドの処刑から三日しかたっていない。
ならば、この花園にまだ居てくれるかも知れない。
キャロラインは泣きそうな顔で立ち上がろうとした。
「キャロライン。大丈夫か?」
「ラシド…様…」
頭はしっかりと動き始めたが、体はまだだったようだ。
立ち上がろうとしたキャロラインは、足をしっかりと止めておくことが出来ずにふらりっと体を傾けてしまった。あぁ、このまま一度、真っ白な花の中に倒れてしまうのか。
神話が本当で、この花が地上にある命と同じだけあるのなら、キャロラインの体で圧し潰してしまっていいのか。倒れる自分の姿をまるで他人事のように感じながら、キャロラインはそんな仕様の無い事に頭を働かせていた。
「どうして…。」
そんなキャロラインの体を抱きとめてくれた人がいた。
ぼんやりとしていた考えと視界が、キャロラインの背中を力強く支える暖かな腕の熱に、靄掛かっていた全てが晴れていった。
そして、キャロラインの視界を全て奪い、支配したのは、キャロラインがその腕の中に閉じ込められている為に近すぎる距離にあったラシドの顔。
心配そうにキャロラインを覗くその顔が、キャロラインの胸を抉る。
そんな顔を私の為にしないで。
私にそんな価値は無いから。
「ラシド様、わた…」
「ようやく会えたな、キャロライン。お前に会えない間、どれだけ辛かったか。」
キャロラインは考えていた言葉の全てを吐き出そうとした。
でも、その言葉は始めることも出来ずに、ラシドによって遮られてしまった。
ぎゅっと抱き寄せられ、腕の中できつく締め付けられる。逃がさないように、もう二度と離さないという意思がはっきりと感じ取れる、ラシドの熱。
キャロラインは、目頭が熱くなるのを感じた。
「違う。違います。違うんです!それは、違うの!」
子供のように、ただ同じ言葉を繰り返すしか、心を抉り取られたキャロラインには出来なかった。
どうしよう、と思った。
ラシドはキャロラインに会えて嬉しいと言ったのだ。そんな事がある訳もないのに。はっきりと言われたその言葉に、あぁラシドに掛かった魅了が解けていないとキャロラインを混乱させた。
どうしよう。
魅了が解けてくれないと、キャロラインは本当の想いをラシドに伝える事が出来ない。彼の本当の想いを知って、受け止める事が出来ない。
キャロラインは泣きそうだった。
「ラシド様は、私の魅了の力が掛かってしまっているだけなんです。私の力は、私の事を警戒しただけで掛かっちゃうもので、だから、だからラシド様が私にくれた言葉は全部、全部…魅了の力のせいなだけなんです!」
全てを吐き出す。
ラシドが魅了の力に掛かったままなら、ラシドはキャロラインの罵りさえも受け止めて、笑って愛を囁くだろう。
だから、ラシドにはこれ以上、何も言わせない。
キャロラインは全てを吐き出す。
謝って謝って謝って。
自分が帝国の駒であること。
貴族達の罪を作り上げたこと。
魅了の力を使って、自分に帝国に有利な状況を作り上げたこと。
第一王子の『運命』と『祝福』の情報を帝国に流したこと。
彼の死を公爵に押し付けたこと。
全てを吐き出した。
叫ぶように涙を流し、ラシドの声を聞かないように耳を塞いで、キャロラインは罪を告白した。
そして、ラシドに掛かった魅了が解けていないと分かった時点で、言わないと決めていた言葉もぽろりと零れ落ちてしまった。
「好き。」
ぼろぼろと足下に広がる白い花に降り注ぐキャロラインの涙が段々と多くなる。
「好きでした。愛していました。こんな事を言われても困ると思う。でも、仕事だと思っていたのに、何時の頃からか私は貴方が好きだった。恨んで下さい。憎んで下さい。罵りも制裁だって受けてもいい。だけど、こうして一緒に死んだことだけは、最期まで貴方の妻としてあった事を許して下さい。」
一緒に逝かせて。
あと少しだ。この花園の中の何処かにある花がキャロラインの罪を吸い取ってくれるまで、ラシドを愛していることを許して欲しい。
それを伝えるキャロラインの顔は、段々と落ち着きを取り戻していき、ラシドの腕の中で涙の痕を残す顔に穏やかを浮かべて笑っていた。
「あぁ、俺も愛してる。何度も言っただろ。王位も国もいらない程、お前の事を愛している。」
違う。
キャロラインは叫ぼうとした。
でも、出来なかった。
「んっ!んん!!!」
キャロラインの口をラシドは強く塞いでみせたのだ、自分の、その口で。
「んっ…ぅん…」
ラシドとキャロラインは夫婦だった。
だから、キスなんて初めてのことではない。
でも、どうしてだろうか。
自分の思いの丈を全て吐き出した後のそれは、キャロラインを幸せにする。
はぁっ。
キャロラインの全身から力という力が奪われた。
こんなの酷い。魅了が掛かったままだということを忘れて、勘違いしてしまう。
キャロラインの目に、再び涙がにじみ始めた。
「俺は知っていた。だから、安心して俺を愛してくれ。それと同じだけ、いや違うな、それ以上に俺はお前を愛すると誓う。」
『愛の女神』の名に誓って、二度とお前を手放しはしない。
「…う、そ…だよ、そんなの…」
ラシドの目は真剣そのもので、キャロラインを捕らえて離さない腕にも、彼の本気の気持ちがビシビシッと伝わってきた。それでも、キャロラインにはまだ、信じられない。
「ちがっ」
「俺は、お前の兄と同じだ。他人に支配されることはないと『運命』によって約束されている。」
だから、魅了によって誘導された気持ちなど、持ったことなどない。
全て俺が、俺として抱いた欲だ。
「欲?」
「愛してる。キャロライン、初めてお前と会ったその時から、どうしようものないほどに、お前が欲しかった。お前が俺のものになるのなら、生まれ持った血も、守らねばならない国も、全て要らぬと捨て去れるくらいに。キャロラインという存在だけが欲しかった。」
『強欲』たる『運命』を持つ皇帝カルロに『魅了』は一切通じない。
キャロラインを他とは一線を画して溺愛する様は、多くの者達に魅了されたが故と感じさせるものがあったが、『戦神』がそれを否定してのけた。
キャロラインよりも強力で、死後も弱まる様子も見せずに国の重鎮達を魅了し続けている母の力も王宮においてただ一人通用しなかったのだ。それを思えば、カルロがキャロラインに魅了などされていないと簡単に分かるだろう。
多くを欲し手にいれる『強欲』が、魅了によって自分を手放すなど許すわけがない。彼から己を奪い去る力の数々は一切、逆にその効果を奪われることになる。
だからこそ、キャロラインは心安らかに、兄を愛していると口にして側にあることが出来た。兄がただ、兄としてキャロラインを愛してくれていると分かるから。
それを同じだと、ラシドは笑う。
もし…ラシドが言っていることが真実だというのなら、そうなのだとしたらどんなに幸せだろうか。キャロラインの胸の奥深くから、燃えるような激しい熱が生まれた。
『我欲に狂い、貫く者』
それがラシドの『運命』だった。
亡き母も教えてはくれなかった『運命』を知ったのは、兄が死んだと知るを受ける少し前だった。誰に知られることもなくラシドの前に現れた隣国の皇帝。
『運命』に従え、と。
己の『運命』を『強欲』だと知る男が笑った。
欲しいのだろう、あの子が。欲しいのならば、その『運命』のままに、狂って貫けばいい。お前の中で煮え滾る衝動がどれだけのものか、『強欲』である私が一番良く知っている。己の『運命』を知らず、それ故に己を律しなければならないお前が哀れでならない。従え、『運命』に。
皇帝の囁く通りだった。
苦痛だった。自分が望んでもいない王位に、望んでもいない婚約者。纏わりつく貴族達に、身勝手な理想を押し付けてくる民。
自分を押し殺さねばならない周囲の目の全てが、どうしようもなく壊しつくしたい衝動を湧き起こさせた。
「愛しているんだ、キャロライン。愛していた兄の死に嗤い、物心つく前から共にあった友達の死に心も動かず、婚約者であった女さえも捧げてしまえるくらいに。自分自身を捧げてしまえる程に、俺はお前を愛している。全てを捨て去り、自分さえも消し去った俺にもう価値はないか?」
そんな事はない、とキャロラインは首を振る。
国も肩書きも何もかもがないと彼は言うが、それを聞いてもキャロラインの中で燃え上がる想いを弱まるどころか、激しさを増す。
「わ、私だって全部捨ててきたわ。守らなきゃいけない弟も、ずっと愛してくれていた兄も、私が犯した多くの罪も、命も何もかも捨てて…。ただ、貴方に会いたくて…」
「キャロライン。これから先、喜びも悲しみも苦しみも、俺は感じる全てをお前と共に味わいたい。何があろうと、絶対にお前以外をこの心に入れたりしない。だから、お前も、俺だけを、お前の中に存在させてくれ。」
「今までも、そうだった。」
計画通りに戦争が起こった時から、キャロラインの心はラシドの事ばかりが支配していた。戦争を起こした兄のことも、王宮で戦況を耳にしているだろう弟のことも、何もかもが靄に包まれた状態で考えもしなかった。戦場に出ていたラシドの事ばかりを心配し、神に無事を祈っていた。
兄が手を尽くしてラシドを死なせないと分かっていても、戦争の後には敗戦国の王の命など消え去るだけと分かっていても、無事を祈ってしまっていた。
「それでは足りない。それだけでは俺は満足できない。兄のことも、弟のことも、お前の中にある俺以外の全てを消し去って、俺のことだけを考え、喜び涙して苦しめ。」
あれ?私、兄様やキースのことを、ラシド様に言ったかしら?
鬼気迫る顔をキャロラインの顔へと近づけるラシドに、キャロラインは疑問を抱いた。
でも、そんな疑問もすぐに消えさる。
苦しみを覚える程に抱き締められ、指一本が間に入るか入らないかという距離まで近づいたラシドの顔に、顔を真っ赤に染めたキャロラインは、浮かんだ疑問を考える余裕も無かった。
泣きじゃくりながら自分のやったことを説明した時に、自分でも気づかない内に言ってしまったのかも知れない。
直接口付けしているよりも、この距離にあるラシドの顔から顔を背けることが出来ないという事の方が、気恥ずかしさが強い。
「キャロライン、愛してる。」
「……私も愛してます、ラシド様。」
真っ白な花園の中に浮かびあがった異色の人影は、一つだけになった。