第10話:逆転の一手
冬弥の宣言は、単なる酔っ払いのハッタリではなかった。
週が明けると、取引先から「上層部の意向で、一旦ペンディングにしたい」という不穏な連絡が入り始めた。オフィスには重苦しい空気が漂い、あたしが必死に書き上げた企画書も、デスクの隅で虚しく埃を被りそうになっていた。
「なっつー……大丈夫?」
隣の席の行人が、荷物の整理をしながら声をかけてくる。今日はいよいよ、彼が大阪へ発つ日だ。
「大丈夫よ。あんな奴の思い通りになんてさせない。……でも、悔しいな。仕事で結果を出して、堂々とあんたのところへ行くつもりだったのに」
あたしはキーボードを叩くフリをして、溢れそうな涙を堪えた。
行人は少しの間、何かを考えていたが、急に立ち上がってあたしの手首を掴んだ。
「部長! ちょっと郁島を借ります!」
「えっ、おい、三浦?!」
行人は驚くあたしを連れて、会議室へと飛び込んだ。
「夏美、絶望するのはまだ早い。冬弥の会社が取引先を買収するなら、こっちはその『親会社』に直接プレゼンし直せばいい」
「えっ……でも、そんなツテ……」
「あるだろ。今回のプロジェクトに興味を示してた、あの外資系の物流最大手だよ。あそこなら冬弥の会社の圧力なんて通用しない」
行人の目は、まだ死んでいなかった。
彼は大阪へ行く直前まで、あたしの仕事を、あたしたちの未来を守るための「抜け道」を探していたのだ。
「いいか、夏美。俺は今から新幹線に乗る。でも、心はここに置いていく。……お前ならできる。冬弥が『可愛くない』と言ったその強さで、あいつを黙らせてこい」
行人は、あたしの額に軽く口づけを落とした。
オフィスの真ん中で、しかも会議室の透明なガラス越し。
周囲の「ええええ?!」という悲鳴のような声が聞こえたけれど、今のあたしにはどうでもよかった。
「……行ってらっしゃい、行人。 shadow。あんたが大阪で落ち着く頃には、いいニュースを届けてあげるわ」
「期待してるよ、パートナー」
行人は荷物を掴むと、振り返らずにオフィスを出て行った。
それからのあたしは、 shadow。自分でも驚くほどの集中力を発揮した。
部長を説得し、行人が残してくれた資料を元に、外資系の担当者へアポイントを取り付けた。
冬弥の会社が「買収」という力技で握りつぶそうとするなら、あたしは「正論」という圧倒的な正論で殴り返す。
プレゼン当日。
会場の会議室の前で、あたしは鉢合わせた冬弥と対峙した。
「無駄だよ、夏美。もう決まったことなんだ」
「決めるのはあんたじゃない。……冬弥、あんたが捨てたのは、 shadow。ただの『可愛くない女』じゃない。あんたの会社に莫大な利益をもたらすはずだった、最高のビジネスパートナーよ。後悔しなさい」
あたしは、かつてないほど自信に満ちた笑顔を冬弥に向け、重い会議室の扉を開けた。
一時間後。
会議室から出てきたあたしの手には、確かな「内諾」があった。
スマホを取り出し、大阪にいる行人へメッセージを送る。
『完全勝利。今夜、祝杯をあげに行くから、新大阪駅まで迎えに来なさい。……ユッキー!』
すぐに返信が来た。
『了解、夏美。最高のビールを冷やして待ってる』
冬弥の嫌がらせを逆手に取り、プロジェクトは当初の予定よりもさらに大きな規模で動き出すことになった。
仕事も恋も、失いかけて初めて、あたしは自分の手で掴み取る本当の強さを知った。
第10話をお読みいただきありがとうございました!
【次回予告】
第11話「大阪の夜、二人の距離」
ついに大阪で再会した二人。遠距離恋愛のスタートを祝う夜、行人の新居で夏美が見つけた「あるもの」とは……?




