竜騎士の面会交流調停に同席しています 前編
「竜騎士様。お子様が最後に、地に足をつけて学舎へ通ったのは、いつですか」
王国中央家庭調停所、第二調停室。
ユリス・グレンは、面会交流予定表の上に羽根ペンを置いた。
向かいに座る男は、椅子の背もたれを必要としていなかった。
ガレス・ヴァルド。王国竜騎士団の第三隊長。灰竜アッシュを駆り、北辺の山砦を三度守った英雄。銀の肩当てには竜の爪痕が残り、左手の甲には古い火傷が走っている。絵姿にすれば、子どもが木剣を握って真似をしたがる顔だった。
その竜騎士が、調停室で初めて言葉に詰まった。
「地に足をつけて、とは」
「徒歩、または馬車での通学です」
「竜の方が早い」
「早さは本日の争点ではありません」
ユリスは予定表の一行を指で押さえた。
「本来の取り決めでは、月二回、学舎近くの交流室で午後三時から四時まで面会。送迎は母親側または学舎職員による付き添い。父母の直接接触は避け、連絡帳で調整する、となっています」
「私は面会している」
ガレスはすぐに答えた。
「約束を破ったつもりはない。娘に会いに行った。父親が子に会う。それだけだ」
隣に座る元妻、エレナ・ヴァルドは、膝の上で布包みを押さえていた。薄灰色のワンピース。装飾の少ない外套。竜騎士の妻として夜会に立っていた頃の華やかさは、もうない。
ただ、背筋だけは曲がっていなかった。
「交流室ではなく、学舎の中庭へ竜で着地されています」
ユリスは、別紙をめくった。
「春月四日、春月十八日、花月二日、花月十六日。四回連続です」
「学舎の中庭は広い」
「学舎側からは、広さではなく安全について苦情が出ています」
「アッシュは訓練された竜だ。人を踏むような真似はしない」
「竜の飛行技術は確認していません」
ユリスは、学舎からの苦情書を机の中央へ置いた。
「確認しているのは、面会の方法です」
ガレスの眉が動いた。
「方法まで制限されるのか。私は罪人ではない」
「父親であることも争点ではありません」
ユリスは淡々と続けた。
「会いたいお気持ちは記録します。ただし、会い方はお子様の生活に合わせます」
ガレスは、そこで初めて不愉快そうに息を吐いた。
「エレナが言ったのだろう。私とアッシュを遠ざけたいのだ」
エレナの指が、布包みの上で止まった。
「遠ざけたいなら、調停に来ません」
その声は小さかったが、逃げてはいなかった。
「私は、リアが父親に会うこと自体を拒んでいません。だから、面会交流予定表にも署名しました」
「なら、なぜ竜を否定する」
「リアが怖がっているからです」
「怖がってなどいない」
ガレスは即答した。
「あの子は私の竜を絵に描いている。アッシュの鱗にも触った。空へ上がれば泣き止む。むしろ母親が過保護に怯えさせている」
エレナは唇を結んだ。言い返す代わりに、布包みをゆっくり開く。
中から出てきたのは、片方だけの小さな上履きだった。
右足のつま先が、黒く焦げている。竜の火炎ではない。火の粉か、熱を帯びた砂利か、何かがかすめただけの焼け跡。けれど、白い布地の上では、それだけで十分に目立った。
「それは」
ガレスの顔が変わった。
「アッシュが焼いたのではない。中庭へ降りる時に、少し熱風が」
「春月十八日の面会後です」
ユリスは連絡帳を開いた。
「学舎の先生の記録には、『右足の上履きつま先に焦げ跡。本人は大丈夫と答えたが、午後から話しかけに反応が遅い』とあります」
「本人が大丈夫と言ったのなら」
「翌日は欠席しています」
ユリスは連絡帳の次の頁を示した。
「理由は腹痛。朝から食事が取れない。夜に眠れていない。母親側の記入です」
ガレスは、焦げた上履きから目を離さなかった。
「その程度で欠席とは、やはり過保護だ」
エレナの手が、膝の上で強く握られた。言葉ではなく、指先の骨が白くなる。ユリスはそれを見てから、次の資料を出した。
「学舎からの苦情書です」
「苦情?」
「春月四日。灰竜の着地により、中庭の砂場が使用不能。花月二日。羽ばたきにより教室南側の窓一枚にひび。花月十六日。近隣の干し草小屋の屋根板が三枚破損」
「修繕費なら払う」
「支払い能力の問題ではありません」
ユリスは修繕費明細を机に置いた。
「面会交流は、周囲に被害を出しながら実施するものではありません」
「被害という言い方は大げさだ。竜が降りれば風は起こる。皆、分かっているはずだ」
「学舎は竜騎士団の訓練場ではありません」
その一言に、調停室の空気が少しだけ冷えた。
ガレスの目が細くなる。
「私は娘に誇りを見せている。父が何者か、知ってほしいだけだ。竜騎士の子なら、空を怖がってはならない」
「お子様は、竜騎士団の新兵ではありません」
ユリスの声は荒くならない。ただ、紙を一枚ずつ置く速度だけが変わった。
「こちらは欠席記録。面会日の翌日、三回欠席しています。こちらは施療師の所見。竜の鱗に触れた後、右腕に発疹。こちらは学舎職員の報告。竜の羽音が聞こえた際、机の下に隠れた、とあります」
「アッシュは危険な竜ではない」
「危険かどうかだけではありません」
ユリスは、施療師の所見を閉じた。
「安全に飛べることと、安心して会えることは別です」
ガレスの口が開き、閉じた。
戦場なら、彼は即座に命令を返せただろう。風向き、敵影、竜の疲労、火炎の角度。判断すべきことはいくらでもあったはずだ。けれど、机の上にあるのは戦場ではなかった。
焦げた上履き。
欠席の印。
施療師の小さな文字。
学舎からの苦情書。
どれも、敵として斬れないものばかりだった。
「それでも」
ガレスは低く言った。
「リアは、私とアッシュを嫌ってはいない。絵を描いている。竜を描いた。子どもは、好きなものを描く」
エレナの肩が、かすかに動いた。
ガレスは胸元の革袋から、折りたたまれた紙を取り出した。
「これを見ろ」
彼はそれを机に置いた。
「リアの絵日記だ。面会の後に描いたものだ。大きくアッシュを描いている。あの子は竜が好きだ」
ユリスは、すぐには手を伸ばさなかった。
「エレナ様。この絵日記を本件資料として確認してもよろしいですか」
「……お願いします」
エレナの声が、ほんの少し掠れた。
ユリスは絵日記を開いた。
最初に見えたのは、黒く塗られた空だった。
その下に、大きな竜。翼は紙いっぱいに広がっている。灰色の鱗。赤い目。子どもの筆圧では、竜の形は少し歪んでいた。それでも、たしかに竜だと分かる。
ガレスが、わずかに顎を上げた。
だが、ユリスの視線は竜では止まらなかった。
紙の下の方。地面の端に、小さな丸がある。膝を抱えたような、人の形。その横に、震えた字が並んでいた。
『おとうさまはすき。
でも、そらはこわい。』
調停室が静かになった。
ガレスの指が、机の端にかかったまま止まる。
エレナは目を伏せた。泣きはしなかった。何度も読んだ文字なのだろう。
ユリスは、絵日記を閉じなかった。
「竜騎士様」
ガレスは、返事をしなかった。
「これは、竜が好きな絵ではありません」
紙の上で、黒い空が広がっている。
「お父様に、怖いと言えなかった子の記録です」




