竜騎士の面会交流調停に同席しています 後編
「怖いのは、最初だけだ」
ガレス・ヴァルドは、絵日記から目を離さずに言った。
声は硬かった。戦場で命令を出す時の声ではない。自分の胸の内側に生じたひびを、外へ漏らさないために押さえている声だった。
「リアはまだ五歳だ。空の高さに慣れていないだけだ。私の子なら、いずれ竜の背を好きになる」
ユリス・グレンは、絵日記の上に手を置かなかった。
閉じれば楽になる。だが、今日は閉じない。
「慣れるまで続ける、というご主張ですか」
「竜騎士の家に生まれた以上、竜を避けては通れない」
「お子様は、竜騎士になる意思を表明されていますか」
ガレスは黙った。
「将来の職業選択ではなく、今の面会方法を確認しています」
「私は父親だ」
「その点は争っていません」
ユリスは面会交流予定表を示した。
「確認しているのは、父親として会う方法です」
エレナは、焦げた上履きを布の上に置いたまま、じっと見ていた。目元は赤くない。声も荒げない。ただ、唇の内側を噛んでいることだけが分かった。
「エレナが大げさにしている」
ガレスは言った。
「私は、娘に会いたいだけだ。母親が私とアッシュを怖がらせているのではないか。父親を奪われているように感じる」
「会いたいお気持ちは記録します」
ユリスは、羽根ペンを取った。
「父親としての不安も記録します。ただし、それは、お子様の恐怖を軽く扱う理由にはなりません」
「恐怖、恐怖と言うが、私は一度も危険な飛び方をしていない」
「先ほども申し上げました」
ユリスは、欠席記録を開いた。
「安全に飛べることと、安心して会えることは別です」
ガレスの頬が強張った。
ユリスは、一枚ずつ資料を確認する。
「春月四日の面会翌日。欠席。理由は腹痛。春月十八日の面会翌日。欠席。夜間不眠。花月二日の面会翌日。遅刻。登校時に羽音を聞いて校門前で動けなくなった、と学舎職員の記録があります」
「羽音など、王都なら聞くこともある」
「そのたびに机の下へ隠れています」
ユリスは、学舎職員の報告書を置いた。
「花月九日。竜騎士団の巡回飛行音を聞き、授業中に机の下へ入る。呼びかけに応じるまで五分。本人は『おとうさまがくるかとおもった』と発言」
ガレスは、その文を見たまま動かなかった。
竜騎士団の巡回飛行。彼にとっては、王都を守る誇りだろう。リアにとっては、父親が予定外に空から来る合図になっていた。
「お子様が嫌がっているのは、父親ですか」
「竜で空へ連れて行かれることですか」
ユリスは静かに尋ねた。
ガレスは答えなかった。
答えられない顔をしていた。
エレナの指が、上履きの布を撫でた。
「リアは」
彼女はようやく口を開いた。
「父親が嫌いではありません」
ガレスが、はっとしてエレナを見た。
「面会の日の朝、あの子は髪を結び直してほしいと言います。お父様に会うから、かわいくして、と言います。小さな焼き菓子も、半分残して持っていこうとします」
エレナの声は、そこで少しだけ揺れた。
「でも、前の夜は眠れません。竜の羽音がしたらどうしよう、と聞きます。交流室なら会えるかもしれない。でも空は嫌だ、と小さな声で言います」
「なぜ、私に言わなかった」
ガレスの声は荒くなかった。
責めているというより、本当に分からない人間の声だった。
「言えなかったのです」
エレナは、絵日記を見た。
「あなたが、空を怖がるなと笑ったから」
ガレスの喉が動く。
「私は、笑ったのではない。励ましただけだ」
「リアには同じでした」
エレナは、焦げた上履きを両手で包んだ。
「帰ってきた日、あの子は布団の中で『おとうさまはわるくない』と泣きました。怖かったね、と言うと、泣きながら首を振りました。おとうさまはわるくない、私が小さいだけ、と言いました」
エレナは親指で、上履きの焦げ跡をこすった。
黒は落ちなかった。
「その夜、リアは上履きを枕元に置きました。明日、先生に見せないといけないから、と言って。けれど、朝になると布団から出られませんでした。おなかが痛いと言って、両手で膝を抱えて、竜の音がしないか窓を見ていました」
調停室の空気が、重く沈んだ。
「私は、あなたからリアを奪いたいのではありません」
エレナは言った。
「むしろ、嫌いになってほしくないんです。父親に会う日が、怖い日になってほしくないんです」
ガレスの手が、膝の上で握られる。
戦場で竜笛を握ってきた手だ。その手が、今は何を掴めばよいのか分からないように固まっていた。
「この子は、父親が嫌いなのではありません」
エレナは、ようやくガレスを見た。
「嫌いになりたくないから、怖いと言えなかったんです」
ガレスは、何も返せなかった。
ユリスは少しだけ待った。
調停は、相手を倒す場ではない。言葉が届いたかどうかを、沈黙で確認する時間が必要な時がある。
壁の時計が一度だけ鳴った。
ガレスは、かすれた声で言った。
「では、私は何を見せればいい」
ユリスは羽根ペンを置いた。
「何を、とは」
「剣も竜も置いて行ったら、あの子に私は何者として会えばいい。私は、竜騎士としてしか生きてこなかった。戦場で勝つ背中しか、見せ方を知らない」
エレナの表情が、少しだけ変わった。
同情ではない。それでも、その言葉だけは初めて聞いた、という顔だった。
ユリスは、面会交流予定表を示した。
「父親としてです」
ガレスの目が、予定表へ落ちる。
「今日確認しているのは、竜騎士ガレス様の価値ではありません。リア様が安心して父親に会える方法です」
ガレスは、何も言わなかった。
だが、さっきより少しだけ、肩が落ちていた。
ユリスは調停案の用紙を出した。
「では、今後の面会交流について整理します」
ガレスは顔を上げた。
「面会を、禁止するのか」
「禁止しません」
ユリスは即答した。
「お子様は、父親と会うこと自体を拒否していません。母親側も、面会継続に反対していません。変更するのは、方法です」
ガレスの肩から、わずかに力が抜けた。
だが、その安堵は長く続かなかった。
ユリスは読み上げた。
「一、面会交流は月二回、継続します」
「二、最初の三か月は、調停所指定の第三者立会い付きとします」
「三、受け渡し場所は学舎前ではなく、王国中央家庭調停所指定の交流室。学舎敷地内への竜の着地は禁止」
「四、送迎は徒歩、または馬車。竜送迎、予定外の飛行、空中散歩は禁止」
「五、竜との接触は、お子様本人が希望し、施療師および学舎が問題なしと判断した場合のみ、短時間から開始」
「六、面会前後の連絡帳を父母で共有します。睡眠、食事、体調、面会後の様子を簡潔に記録してください」
「七、面会時の持参物は、水筒、着替え、手拭き布、お子様の好きな焼き菓子。竜笛、騎士団の模擬剣、竜用の訓練具は不要」
「八、学舎の窓修繕費、村の屋根修繕費は、ガレス様が負担します」
ガレスは渋い顔のまま、二項目目に視線を戻した。
「第三者?」
「交流室の職員です。父母の直接接触を避け、お子様の様子を確認します」
「アッシュを近づけるな、と」
「学舎への着地を禁止します」
ユリスは文言を正した。
「私に、竜を置いて行けというのか」
ガレスの手が、胸元へ動いた。
竜笛がそこにある。
「竜騎士としてではなく、父親として会いに行ってください」
その言葉に、ガレスの手が止まった。
「リアが望めば、アッシュに会わせられるのか」
「望めば、です」
ユリスは強調しすぎなかった。
「私は文官ではない」
「父親です」
ガレスは口を閉じた。
「竜笛まで」
「面会交流は、訓練ではありません」
ユリスは最後の修繕費明細を示した。
「払う」
そこだけは早かった。
ガレスは、机の上の修繕費明細に視線を落とす。
「金の問題なら、最初から」
「金の問題だけではありません」
ユリスは、焦げた上履きを見た。
「焦げ跡は、修繕費では消えません。ですが、次に焦げない取り決めは作れます」
ガレスは、上履きを見た。
小さい。竜の爪と比べれば、冗談のように小さい。あの足で、空から帰ってきて、怖くなかったと言ったのだ。
胸元の竜笛を握る手が、強くなる。
革紐に繋がれた笛は、古く、黒ずんでいた。戦場で竜を呼び、火の海から兵を救い、王都の空を守ってきたものだ。彼が何者かを示す道具だった。
その笛を持って、学舎へ行っていた。
父親としてではなく、竜騎士として。
「竜笛を置いていくことは」
ガレスは低く言った。
「私から、竜騎士であることを奪うのと同じだ」
「違います」
ユリスは首を振った。
「調停所は、あなたから竜騎士の誇りを奪いません」
そして、面会交流予定表を示した。
「ただし、お子様と会う一時間だけは、誇りより先に安心を置いてください」
ガレスの目が、絵日記へ戻る。
大きな竜。黒い空。小さく丸まった子ども。
『おとうさまはすき。
でも、そらはこわい。』
長い沈黙のあと、ガレスは胸元から竜笛を外した。
机に置く音は、小さかった。けれど、エレナの肩がわずかに動いた。
ガレスは羽根ペンを取った。
署名欄の前で、一度だけ止まる。
「焼き菓子は」
彼は、紙から目を離さずに言った。
「何が好きなんだ」
エレナはすぐには答えなかった。
疑っているのではない。遅すぎる質問を、どう受け取ればいいのか、少し迷っている顔だった。
「蜂蜜入りの丸いものです」
「店は」
「学舎の西門を出て、二軒目のパン屋です。大きいものではなく、小さい方を二つ。リアは、一つを帰りに残したがります」
「分かった」
ガレスは署名した。
字は大きく、まっすぐだった。戦場の報告書と同じ字かもしれない。だが、今日の署名の横には、討伐記録ではなく、徒歩送迎の地図があった。
ユリスは調停案を確認し、押印した。
「調停成立です」
エレナは、焦げた上履きを布に包み直した。
ガレスは、竜笛をすぐには取らなかった。
調停室を出る直前、彼は机の上に残された小さな地図を見た。学舎。西門。パン屋。交流室。竜なら一息で越える距離だった。
歩けば、きっと時間がかかる。子どもの足なら、もっとかかる。それでも、その道を歩くための線が、紙の上に細く引かれていた。
竜騎士は、竜笛を机に置いた。
代わりに受け取ったのは、学舎から交流室までの徒歩送迎地図だった。




