スローライフ村の立ち退き調停に同席しています 後編
「勝手に大きくなった村を、どう扱うかです」
ユリス・グレンがそう言うと、リナ・ハーゼは宿帳を抱えるように手を置いた。
机の上には、領主家の地券がある。
泥のついた古い杭がある。
旅人宿帳がある。
泉修繕費の木札がある。
パン窯使用札がある。
薬草畑の畝札がある。
そして、ノルヴァン男爵家の焼き印が押された受領札がある。
領主家代理人エルド・ノルヴァンは、受領札から目を離さなかった。
「男爵家の土地であることは変わりません」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
だが、譲るつもりもない声だった。
「はい」
ユリスは頷いた。
「土地の名義は、ノルヴァン男爵家にあります」
リナの指が、宿帳の端を握った。
「リナ様」
ユリスはリナを見た。
「その点は争いますか」
「争いません」
リナは、地券を見た。
「ここを私の土地にしろとは言いません。最初の小屋を勝手に建てたのも、ちゃんと届けを出さなかったのも、私です」
「では、明渡しを」
「ただ」
リナは、エルドの言葉を遮った。
遮ったあとで、少しだけ頭を下げた。
「すみません。でも、明日から原っぱに戻れと言われたら、あそこで暮らしている人たちは立ち行きません」
「暮らしている人たち、ですか」
エルドは宿帳を見た。
「正式な村ではありません。男爵家の台帳にも載っていない。宿の届け出もない。薬の販売許可もない。税の納付記録もない。あなた方は、土地を使い、金品を受け取り、人を泊めていた。これを放置すれば、次に事故が起きた時、責任を負うのは男爵家です」
「それは、分かりました」
リナは小さく言った。
「分かっただけでは困ります」
エルドは言った。
「泉で腹を壊した旅人が出た。荷馬車が横転した。夜に火が出た。そうなった時、リナ様は薬草を煎じることはできても、領地としての責任までは負えないでしょう」
リナは言い返せなかった。
都会で薬を作っていた頃なら、薬瓶を並べれば済んだ。
熱冷まし、胃薬、眠気覚まし、軟膏。
客は来て、金を払い、帰っていく。
けれど、原っぱでは違った。
羊飼いは泉に戻ってくる。
御者はパン窯の火を借りる。
旅人は寝床を覚える。
子どもは板を敷いた道を走る。
薬を渡して終わりではなかった。
「この札について確認します」
ユリスが、焼き印のある受領札を机の中央に置いた。
「泉使用料。通行水代。旅人泊まり札。薬草市場所代。いずれも正規の税ではないと、エルド様は主張しています」
「はい」
エルドは言った。
「男爵家の帳簿には上がっていません。正規の徴税であれば、徴税吏の名と日付が残ります。この札には、それがない」
「では、この焼き印は」
「調べます」
エルドの返事は早かった。
「見回り兵が勝手に使ったのなら、男爵家として処分します。古い焼き印が流出していたのなら、それも調べます」
「つまり、男爵家側の者が現地を見ていた可能性は否定しませんね」
エルドは、わずかに口を閉じた。
リナが顔を上げる。
「否定はしません」
エルドは言った。
「ですが、それは土地使用の許可ではありません」
「はい」
ユリスは頷いた。
「この札は、土地使用の許可書ではありません」
リナの肩が落ちた。
「ですが」
ユリスは続けた。
「男爵家側の者がこの場所を見て、金品を受け取っていた可能性はあります。そうであれば、男爵家がまったく知らなかった場所として扱うこともできません」
「末端が勝手に金を取っていたなら、なおさら整理が必要です」
エルドは言った。
「無許可の小屋、無許可の宿、無許可の薬草市。そこに男爵家の名をかたった金品の授受まである。すぐに止めるべきです」
「止めるとは、全員を出すことですか」
リナが聞いた。
「危険があるなら、そうなります」
「今夜の寝床は」
「それは」
エルドが、初めて言葉に詰まった。
リナは畳みかけなかった。
ただ、宿帳を開いた。
「私は、村にするつもりはありませんでした。朝に薬草へ水をやって、昼に黒パンを焼いて、夕方に泉のそばで薄荷茶を飲むだけでよかったんです」
宿帳の紙が、リナの指の下で少し曲がった。
「でも、羊飼いが来て、御者が来て、旅人が来て、子どもが来ました。誰かが来るたびに、少しずつ直しました。泉の石を積んで、ぬかるみに板を敷いて、パン窯を大きくして、薬草畑の畝を増やしました」
リナはエルドを見た。
「それを全部、明日からなかったことにするんですか」
「なかったことにはしません」
エルドは言った。
「ですが、勝手に作ったものを理由に土地の使用を認めろと言われても、男爵家は困ります」
「土地を取るつもりはありません」
「では、何を望みますか」
「続けたいんです」
リナの声は、少しだけ震えた。
「勝手に始めたことは認めます。でも、ここで暮らしている人たちに、明日から出ていけとは言えません」
ユリスは、泉修繕費の木札を手に取った。
「この泉修繕費は、誰が出しましたか」
「最初は私です」
リナは答えた。
「でも、途中から羊飼いと御者とパン窯を使う人たちが少しずつ出しました。雨で石が崩れるたびに直していたので」
「パン窯は」
「最初は小さい窯でした。黒パンを焼くだけのつもりで。でも、御者が朝に買うようになって、子どもが熱を出した時に粥を作るようになって、大きくしました」
「薬草畑は」
「私の畑です。でも、使う人は増えました。熱冷まし、虫刺され、馬の脚の薬。代金を払えない人は、草取りをしてくれました」
エルドが、低く言った。
「それは、商売です」
「はい」
リナは答えた。
逃げなかった。
「商売になっていました。自分では、暮らしの延長のつもりでした。でも、宿帳を見たら、もう違います」
リナは宿帳を閉じた。
「村にするつもりはなかったんです」
少しだけ息を吸う。
「それでも、村として扱われるなら、私が逃げるわけにはいきません」
エルドは黙った。
ユリスは、地券、杭、受領札、宿帳、泉修繕費の木札を順に並べた。
「提案します」
リナとエルドが、同時にユリスを見た。
「命令ではありません。受けるかどうかは、お二人で決めてください」
「調停ですからね」
エルドが言った。
「はい」
ユリスは、地券を押さえた。
「土地は男爵家のものです。そこは動かしません」
リナは小さく頷いた。
ユリスは、次に泥のついた杭を見た。
「ただし、即時退去にはしません。三か月、整理期間を置きます」
「三か月」
エルドが繰り返した。
ユリスは、宿帳と泉修繕費の木札を見る。
「その間に、使っている範囲、使用料、税の納め方、井戸と火事の責任、宿泊と薬の販売の扱いを正式に決めます。受領札は、男爵家が調査してください」
「これでは、男爵家が不法占有を追認したように見える」
エルドが言った。
「そう見えないよう、無断で始まったことを明記します」
ユリスは言った。
「同時に、男爵家側の者が現地を見ていた可能性も明記します」
「両方書くのですか」
「はい」
エルドは、少しだけ苦い顔をした。
「男爵家にも不利な書き方です」
「リナ様にも不利です」
リナが小さく頷いた。
「私が勝手に始めたことも、書くんですよね」
「書きます」
「……はい」
ユリスは、泥のついた杭に手を置いた。
「勝手に始めた暮らしは、勝手なまま続けられません」
リナは、宿帳に視線を落とした。
「ですが」
ユリスは、地券へ視線を移した。
「勝手に始まったからといって、明日すべてを更地にしてよいわけでもありません」
調停室が静かになった。
「責任者は」
エルドがリナを見た。
リナは、すぐには答えなかった。
王都を出た時、もう誰かの都合で走りたくないと思った。
朝一番の薬。夜会前の眠気覚まし。貴族の肌荒れ。商人の胃痛。扉を叩く音。早くしろという声。
だから原っぱに小屋を建てた。
朝に薬草へ水をやって、昼に黒パンを焼いて、夕方に泉のそばで薄荷茶を飲む。
誰にも急かされない暮らしが欲しかった。
けれど、リナは宿帳を見た。
足を痛めた旅人の名。
春ごとに来る羊飼いの名。
熱を出した子どもの名。
パン窯の横に小さく書かれた、麦袋半分という支払い。
誰にも呼ばれない暮らしは、いつの間にか、誰かが帰ってくる場所になっていた。
「……私がなります」
「簡単に言わない方がいい」
エルドは言った。
「責任者になるなら、泉で腹を壊した者が出た時も、宿で盗難が起きた時も、火事が起きた時も、まずあなたのところに話が来ます」
「分かっています」
「本当に?」
「今、分かりました」
リナは正直に言った。
「私は、静かに暮らしたかっただけです。村を作るつもりなんてありませんでした。誰かの朝も、誰かの水も、誰かの寝床も、背負うつもりはありませんでした」
リナは、泥のついた杭を見た。
「でも、人との繋がりまで、断てませんでした」
エルドは黙った。
「泉の水を褒められたら、次に来る時までに石を積んでおきたくなりました。黒パンを待つ人がいたら、火を消せませんでした。薬草茶が効いたと言われたら、畑を広げてしまいました」
リナは、宿帳を閉じた。
「私は、ひとりで静かに暮らしたかった。でも、あそこに来る人たちを、もう他人だとは思えません」
少しだけ、声が震えた。
「だから、ここで生きていきます」
リナは、エルドを見た。
「届け出ます。税も払います。井戸も、火の始末も、宿帳も、薬草畑も、私が知らないふりをしない形にします」
それから、机の上の地券に目を落とした。
「その代わり、あそこを全部、原っぱに戻さないでください」
エルドはすぐには答えなかった。
「今まで払った分は」
リナが聞いた。
「すぐに返せとは言いません」
ユリスは答えた。
「泉を直した費用と、勝手に使っていた期間の使用料も、別に計算が必要です。ここで全部決めると、話が散ります」
「また調停ですか」
「必要なら」
リナは小さく息を吐いた。
「都会が嫌で逃げたのに、書類が増えていく」
エルドが、少しだけ目を細めた。
「村を作るとは、そういうことです」
「作るつもりはなかったんですけどね」
「作ってしまったのでしょう」
リナは、言い返せなかった。
代わりに、少しだけ笑った。
「そうですね」
エルドは、泥のついた杭を見た。
「この杭は、使用範囲に入れます」
エルドは言った。
「ただし、ここから先は、勝手に一本も増やさないでください」
「……届け出ます」
リナは小さく言った。
「田舎暮らしって、もっと自由なものだと思っていました」
「他人の土地でなければ、もう少し自由だったかもしれません」
エルドが言った。
「それ、今言います?」
「今言うべきことです」
ユリスは、二人の会話を止めなかった。
少しだけ、調停室の空気が変わっていた。
リナが、最初に叫んだ時のように、土地を自分たちのものだと言い張ってはいない。
エルドも、最初のように、地券だけで更地に戻せとは言っていない。
机の上には、まだ同じ物が並んでいる。
地券。
杭。
宿帳。
泉修繕費の木札。
受領札。
ただ、それぞれが向く先は、少し変わっていた。
「村じゃなくなるんですか」
リナが聞いた。
「今のままの村では、いられません」
ユリスは答えた。
リナの顔が曇る。
「ですが、地図にない原っぱでも、いられません」
エルドが、印章袋を開いた。
中から小さな仮登録印を取り出す。
「正式な村ではありません」
エルドは言った。
「三か月の整理期間中の、暫定登録です。男爵家としても、台帳にないまま人が集まり続けるよりはましです」
リナは、仮登録印を見た。
「名前は」
「こちらで仮に付けます」
エルドは台帳用の控え紙を取り出し、ペンを取った。
北街道外れ暫定集落。
リナは、その文字を見つめた。
「……かわいくない」
「正式名称です」
「薄荷の丘、とか」
「地名として確認できません」
リナはしばらく紙を見つめていた。
それから、少しだけ笑った。
「原っぱよりは、ましですね」
エルドは何も言わなかった。
ただ、控え紙の端に仮登録印を押した。
乾いた音が、調停室に響く。
その日、リナたちの村は、まだ正式な村ではなかった。
勝手に始めたスローライフは、勝手なままではいられなくなった。
けれど、ノルヴァン男爵家の台帳の余白に、初めて名前が書かれた。
北街道外れ暫定集落。
リナはその味気ない文字を見て、もう一度だけ笑った。
誰にも急かされない暮らしは、もう、届け出のない暮らしではいられなかった。




