スローライフ村の立ち退き調停に同席しています 前編
「この村は、私たちのです!」
リナ・ハーゼの声が、調停室に響いた。
机の上には、古い地券が置かれている。
羊皮紙は黄ばみ、端は擦り切れていたが、押された紋章だけははっきり残っていた。
ノルヴァン男爵家所有地。
北の街道外れ。
未利用原野。
その横には、泥のついた古い杭が一本。
さらに、薄い木札と帳面、それから小さな木箱が並んでいる。
泉修繕費。
パン窯使用札。
薬草畑の畝札。
旅人宿帳。
調停官ユリス・グレンは、地券と杭を順に見た。
「本日の争点は、一つです」
リナが唇を噛む。
向かいに座る領主家代理人エルド・ノルヴァンは、背筋を伸ばしたまま動かない。
灰色の上着。磨かれた靴。膝の上には、領主家の印章袋。
怒鳴るために来た男ではなかった。
だからこそ、机の上の地券が重く見えた。
「この土地から、リナ様たちは退去しなければならないのか」
ユリスは、そこで一度言葉を切った。
「そのために、二つ確認します。どう始まったのか。今、何があるのか」
「始まりなら明らかです」
エルドが言った。
「地券上、この土地はノルヴァン男爵家の所有地です。リナ様たちは、許可なく小屋を建て、畑を作り、旅人から宿代を受け取っています。無断占有である以上、明渡しを求めます」
「無断占有って……!」
「違いますか」
エルドの声は荒くならなかった。
だが、リナはすぐに言い返せなかった。
「あなたは、この村は私たちのものだとおっしゃった」
エルドは地券の端に指を置いた。
「しかし、男爵家の台帳では、ここは未利用原野です。村ではありません。宿でもありません。薬草市でもありません」
「でも、今は違います!」
リナは机に手を置いた。
「村を作るつもりはありませんでした」
リナは、泥のついた杭を見た。
「王都では、朝から晩まで薬を作っていました。貴族の肌荒れ、商人の胃痛、冒険者の怪我、夜会前の眠気覚まし。鐘が鳴るたびに次の客が来て、薬草を刻んでいる間にも、早くしろって扉を叩かれて」
リナは、少しだけ目を伏せた。
「だから、静かな場所で暮らしたかったんです。朝に薬草へ水をやって、昼に黒パンを焼いて、夕方に泉のそばで薄荷茶を飲む。誰にも急かされない暮らしがしたかった」
リナは、宿帳に手を置いた。
「最初は、本当にそれだけでした」
ユリスは、泥のついた杭を見た。
「それが、最初の小屋の杭ですか」
「はい」
リナは頷いた。
「雨がひどい日に、泉のそばに倒れ込むみたいに座って。枝を組んで、布をかけて、この杭を打ちました」
「許可を得て打ちましたか」
リナの喉が動いた。
「……勝手に打ちました」
エルドが、わずかに眉を上げた。
調停室が静かになる。
ユリスは何も言わなかった。
リナの言葉を、ただ書き留める。
「でも、そこで終わらなかったんです」
リナは続けた。
「泉の水がいいから、羊飼いが寄るようになりました。薬草茶が効くから、旅人が泊まるようになりました。パン窯があるから、御者が朝まで馬を休めるようになりました。雨の日に子どもが濡れないように板を敷いたら、その道をみんなが使うようになりました」
リナは、困ったように笑った。
「気づいたら、原っぱに朝の煙が何本も上がっていました」
「つまり」
エルドが言った。
「勝手に始めた田舎暮らしが、勝手に集落になった」
リナは言い返せなかった。
エルドは、地券を指で押さえた。
「その間、男爵家への届け出も、税の納付も、土地使用の許可もなかった。違いますか」
リナは、宿帳の端を指で押さえた。
「ありません。ちゃんとした紙は、何も」
その一言で、机の上の地券がさらに重くなった。
「宿代や薬代を受け取っていたことは、争いませんね」
ユリスが言った。
「争いません」
リナの声は小さかった。
ユリスは宿帳を開いた。
日付。
名前。
支払いの品。
薬代。
泊まった人数。
銀貨一枚。
麦袋半分。
干し肉。
子どもの熱冷まし代。
馬の脚の薬代。
丁寧とは言えない字が、何十、何百と続いていた。
「あなた方は、村だと言う。では、村として誰が責任を負うのですか」
エルドが言った。
リナは答えられなかった。
「先月、北側の道で荷馬車が横転したそうですね。誰が報告を受けましたか。泉で腹を壊した旅人が出た時、誰が水を止めましたか。火事が出れば、男爵家の兵が呼ばれる。旅人が荷を盗まれれば、男爵家の詰所に訴えが来る」
エルドは、地券の上に指を置いた。
「けれど男爵家の台帳には、そこに村がない」
リナは唇を噛んだ。
「気づいたら村になっていました、で領地内に村が増えるなら、領主はいりません。道を整えるのも、治安を保つのも、病が出た時に兵を動かすのも、領主家の責任です。勝手に人を集めておいて、困った時だけ領主に責任を求めるのですか」
「困った時だけじゃありません」
リナは、小さな木箱に手を置いた。
「見回りの兵にも、払っていました」
エルドの顔が動いた。
「何をですか」
リナは木箱を開けた。
中には、小さな受領札が束になって入っていた。
泉使用料。
通行水代。
旅人泊まり札。
薬草市場所代。
粗い字で書かれた木札の端に、ノルヴァン男爵家の小さな焼き印が押されているものがある。
「泉を使うなら水代がいるって言われました」
リナは言った。
「旅人が泊まるなら、通行札がいるって。薬草を売るなら場所代がいるって。見回りの兵が来るたび、少しずつ払っていました」
エルドは、すぐには受領札を押し返さなかった。
「それは正規の徴税ではありません」
やや遅れて、エルドが言った。
「でも、紋が押されています」
「兵が勝手に押した可能性があります。あるいは古い焼き印を使ったのかもしれない。少なくとも、男爵家の帳簿には、この集落からの税収は上がっていません」
リナは、机の上の地券を見た。
「原っぱなら、誰も見に来なかったはずです。でも見回りの人は来ました。水を飲んで、パンを食べて、薬を持って帰って、札を置いていきました。それでも、知らなかったことになるんですか」
「領主家が正式に許可したわけではありません」
「でも、誰かは見ていました」
ユリスが、受領札を一枚取った。
「正規かどうかは、確認が必要です」
ユリスは言った。
「ただし、領主家側の者がこの場所を見て、金品を受け取っていた可能性があります」
エルドは表情を硬くした。
「仮に末端の不正があったとしても、土地の権利は変わりません。むしろ無許可の集落で金品の授受が行われていたなら、早急に整理すべきです」
「整理って、出ていけってことですか」
「必要ならば」
リナは、宿帳を抱えるように手を置いた。
「ここには、人が暮らしています」
「その暮らしは、許可なく始まっています」
「それは認めます」
リナは顔を上げた。
「でも、ここを私の土地だと言いたいんじゃありません」
エルドがリナを見る。
「では、何を求めているのですか」
「ここで朝を迎える人たちを、原っぱに戻さないでほしいんです」
リナは、宿帳を開いた。
「この人は、北の峠で足を折って、三日泊まりました。この子は、熱を出して薬を飲みました。この羊飼いは、春になると毎年泉に寄ります。ここに来る人は、地図の空白に泊まっているつもりじゃありません」
リナの声は大きくなかった。
それでも、最初の叫びよりも強かった。
「村を作ったんじゃありません。暮らしていたら、村と呼ばれるようになったんです」
「土地の話を避けることはできません」
エルドが言った。
「避けません」
リナは答えた。
「だから、ここに来ました」
ユリスは、そこでペンを置いた。
「整理します」
ユリスは、泥のついた杭を指した。
「リナ様たちは、勝手に始めました」
リナは、黙って頷いた。
次に、ユリスは宿帳と泉修繕費の木札を見た。
「ですが、ここにはもう暮らしがあります。旅人が泊まり、泉が直され、薬草が育てられ、パンが焼かれています」
エルドは黙っていた。
ユリスは、最後に焼き印のある受領札を机の中央へ置いた。
「さらに、領主家側の者がこの場所を見て、金品を受け取っていた可能性があります」
「正規のものではありません」
エルドが言った。
「その点も含めて、整理が必要です」
ユリスは、地券と杭と受領札を一直線に並べた。
「ここから確認するのは、退去させるかどうかだけではありません」
リナが顔を上げる。
「勝手に大きくなった村を、どう扱うかです」




