勇者パーティの離婚調停に同席しています 後編
「聖女様は、不貞行為の断定まではされていません。ただし、婚姻生活上、勇者様の優先順位が家庭ではなく魔法使い様に向いていたと主張されています」
「ミレーヌは仲間です」
勇者様はすぐに言った。
「命を預けた戦友だ。浮気ではない」
「肉体関係の有無を、今ここで断定する手続きではありません。確認するのは、配偶者と子への配慮を欠いた行動があったかどうかです」
「やましいことはない」
「魔法使い様の誕生日は」
「冬月の十三日」
「好物は」
「月蜜パイ。東通りの菓子屋のものが好きで、遠征帰りに」
勇者様の声が止まった。
聖女様は何も言わない。言う必要がなかった。
「聖女様の誕生日は」
「春だ」
「日付を」
「……春月の」
勇者様は額に手を当てた。
「すまない。覚えていたはずなんだ」
「産後一か月検診の日は」
「……」
「聖女様が授乳中に避けていた茶葉は」
「……」
「お子様が熱を出した時、飲める薬の種類は」
「……」
「魔法使い様の杖の修理日は」
「第七遠征の翌朝」
即答だった。勇者様自身が、一番驚いた顔をした。
調停室の空気が沈む。私は机の上に領収書を二枚置いた。
「こちらは、魔法使い様の杖修理代。勇者様が即日署名しています」
次に、幼児園の靴購入記録を置く。
「こちらは、お子様の上履き購入費。聖女様が三度、王宮会計へ申請しています。決裁は侍女長経由です」
「金額の問題ではない」
勇者様は低く言った。
「分かっています。だから、金額ではなく署名者を確認しています」
勇者様は黙った。聖女様の手が、上履きのかかとを包む。
「私は、ミレーヌ様が憎いわけではありません」
聖女様が言った。
「たぶん、あの方も戦っていました。魔王城で、あの方がいなければ全滅していた日もあります。それは分かっています」
「なら」
「でも、あなたは私にだけ、強いままでいることを求めました」
勇者様の声が止まる。
「ミレーヌ様が倒れたら、あなたは杖を直し、薬を探し、毛布をかけました。私が倒れたら、乳母と施療師がいるだろうと言いました。ミナが熱を出した夜、私は施療師に説明するために、咳の回数と食べた量を書いていました。あなたはミレーヌ様の杖がなければ次の討伐が危ないと言って、出ていきました」
「討伐は必要だった」
「私たちも必要でした」
その一言で、部屋が焼けた。叫んだわけではない。涙もこぼしていない。けれど、深夜二時の調停室の空気が、肺の奥で熱くなった。
「浮気だったかどうかなんて、もういいんです」
聖女様は、初めて勇者様をまっすぐ見た。
「私たちは、後回しだった」
勇者様は、両手を膝に置いた。
「俺は……そんなつもりじゃなかった」
「そうですね」
聖女様の返事は、刃物より静かだった。
「あなたは、いつもそんなつもりじゃありませんでした」
私は次の書類を開いた。ここからは、決めなければならない。怒りも、後悔も、言い訳も、全部ここに置いて、子どもの明日を決める。
「聖女様。離婚意思に変わりはありませんか」
「ありません」
勇者様が顔を上げた。
「待ってくれ」
聖女様の指が、上履きを包む。
「話し合うために、今日ここに来ました。でも、戻るためではありません」
「俺は変わる」
その声は必死だった。戦場の指揮よりずっと人間らしい声だった。
「本当に変わる。靴のサイズも覚える。園の先生の名前も、持ち物も、施療師への連絡も、乳母の勤務表も、全部見る。手伝うんじゃなくて、俺がやる。だから」
「その言葉を」
聖女様の声が震えた。上履きを握る指先も震えている。
「産後三か月の夜に聞きたかったです」
勇者様の口が開いたまま止まった。
「あの夜、ミナが泣いて、私は熱があって、結界の後遺症で指が動かなくて。乳母はいました。侍女もいました。でも、ミナは私の袖を握らないと泣き止まなかった。施療師へ症状を伝えるのも、乳母に休憩を取らせる判断をするのも、翌日の式典を欠席する連絡を入れるのも、全部私でした」
「……覚えてる」
「あなたは『人は足りているだろう』と言いました」
勇者様の顔が歪んだ。
「私は、あなたに乳母の代わりをしてほしかったわけではありません。侍女の代わりに洗濯してほしかったわけでもありません。施療師の代わりに薬を選んでほしかったわけでもありません」
聖女様は息を吸った。泣く寸前の顔で、それでも泣かなかった。
「父親として、隣に座ってほしかったんです」
勇者様の手から、署名用の羽根ペンが滑り落ちた。机の上で、小さく転がる。魔王討伐の凱旋式で掲げられた手が、今は拾い上げることもできずに震えていた。
私はしばらく待った。調停官の仕事は、勝敗を決めることではない。けれど、終わったものを終わっていないことにはできない。
「では、離婚を前提に条件を整理します」
勇者様は目を閉じた。聖女様は小さく頷いた。
「親権者は聖女様。勇者様は争わない、ということでよろしいですか」
「……争いません」
「養育費は、勇者様の討伐報酬、王国年金、爵位手当、講演料、聖剣記念事業からの収益を基準に算定します。生活水準、教育費、施療費、護衛費、乳母費用、幼児園費用も個別に算入します」
「乳母費用も、俺が」
「父親として当然の負担です」
勇者様は頷いた。少し前なら、そこで胸を張ったかもしれない。俺が払う、と。だが今の勇者様は、金では埋まらない穴を見ている。
「面会交流について。月二回から開始。初回三か月は、第三者同席。場所は幼児園近くの交流室」
「王宮庭園を貸し切る」
勇者様が言った。声に、焦りが混ざっていた。
「ミナは花が好きだ。噴水も、白馬も呼べる。竜車も用意できる」
「却下します」
「なぜ」
「お子様は現在、人の多い場所で疲れやすいとの記録があります。幼児園帰りは眠くなります。初回は徒歩五分の交流室で、三十分から開始します」
「三十分」
「父親の面会は、凱旋式ではありません」
勇者様は唇を結んだ。
「持参するものは、聖剣ではなく、着替え、お茶、替えの靴下、手拭き布、必要なら青い昼寝布」
「聖剣は」
「不要です」
「護衛上」
「交流室に魔王軍は来ません」
「万が一」
「来ません」
聖女様が、ほんの少しだけ息を漏らした。笑いではない。でも、さっきよりは呼吸だった。
「面会前の確認事項です。お子様の靴のサイズ、かかりつけ施療院、担任名、食物制限、眠る時に必要な布、発熱時の対応、乳母長への連絡先、幼児園の持ち物規定。これらを事前に把握していただきます」
「覚える」
「暗記ではありません」
私は言った。
「生活してください」
勇者様が、はっとした顔をした。
「月に二回会うための試験ではありません。父親になるための最低限です。魔王を倒した話は、お子様が望んだ時にしてください。望まない時は、卵粥を冷ましてください」
勇者様の目が赤くなった。
「俺は、父親として失格ですか」
その問いに、聖女様は答えなかった。私も、すぐには答えなかった。失格と言ってしまえば楽だ。悪人にしてしまえば、物語はすっきりする。けれど、現実はもっと面倒で、もっと残酷だ。
「今日までの婚姻生活では、聖女様に責任を偏らせました」
私は言った。
「これから父親でいられるかは、これからの行動でしか判断できません」
勇者様は、ゆっくり頷いた。ようやく、物語の主人公ではない顔になった。
「分かった」
私は合意書を差し出した。
「内容を確認の上、署名をお願いします」
勇者様は羽根ペンを拾った。指先が震えていた。魔王討伐後の和平調印では、堂々とした字だったと聞いている。王城の広間に飾られたその署名を、私も見たことがある。
勇者アレク。太く、まっすぐで、迷いのない字だった。
今、合意書に書かれた名前は、少し歪んでいた。途中でインクが滲み、最後の線が震えている。
世界を救った男は、時間を戻せない敵に負けた。
聖女様も署名した。こちらの字は整っていた。整っていることが、痛々しかった。何度も何度も、心の中で書いてきた名前なのだろう。離婚届に。申立書に。眠れない夜の天井に。
私は合意書を確認し、押印した。
「調停成立です」
その言葉に、勇者様の肩が落ちた。聖女様は上履きを布袋にしまった。
部屋を出る直前、勇者様が声を出した。
「エリス」
聖女様は振り返らなかった。ただ、足を止めた。
「ミナの好きな卵粥の作り方を、教えてほしい」
調停室の空気が止まる。遅い。あまりにも遅い。けれど、その遅さを笑えるほど、誰も若くなかった。
聖女様は、しばらく黙っていた。
「私に聞かないでください」
勇者様の顔がこわばる。聖女様は、布袋の紐を結び直した。
「幼児園の連絡帳に書いてあります」
勇者様は、息を詰めた。
「読む」
「読んだら、分からないところを乳母長に確認してください」
「分かった」
「施療師にも確認してください。熱がある時に食べさせていいものと、避けるものがあります」
「分かった」
「それでも分からなかったら」
聖女様は、ようやく少しだけ振り返った。
「ミナに聞いてください。あの子は、もう自分の好きなものを言えます」
勇者様は泣かなかった。泣く資格があるか分からない顔をしていた。
聖女様は出ていった。白い法衣の裾が、調停室の扉の向こうへ消える。その後ろ姿は、魔王城で結界を張った聖女ではなかった。ただ、三年間、家庭の責任者を降りられなかった母親だった。
勇者様はしばらく座ったまま、机の上を見ていた。そこにはもう、聖剣も勲章もない。残っているのは、合意書の控え、面会交流の予定表、養育費の算定表、乳母長の連絡先、幼児園の持ち物表、連絡帳の写し。
勇者様は、その一枚を両手で持った。魔王の呪文書より慎重に。聖剣の契約書より真剣に。
そして、小さく呟いた。
「替えの靴下、水曜。青い布、昼寝用。卵粥、白パンを砕く」
私は記録簿を閉じた。深夜二時四十七分。
王国を救った勇者は、初めて家庭の引き継ぎ書を読んだ。




