勇者パーティの離婚調停に同席しています 前編
「勇者様。魔王軍四天王の名前をお願いします」
「暗黒騎士グラム、毒竜将バルザ、氷葬姫メルネ、獄炎公ザガン」
即答だった。
王国中央家庭調停所、第二調停室。深夜二時。
世界を救った勇者アレクは、椅子に浅く腰かけたまま、まるで聖剣を抜くような速さで答えた。金色の髪は少し乱れていたが、それでも物語の挿絵にしたら民が拝む顔をしている。
私は羽根ペンを置き、次の紙を見た。
「では、お子様の幼児園の主担任の先生のお名前は」
勇者様の口が止まった。
隣の聖女エリス様は、何も言わなかった。白い法衣の膝に、小さな上履きを一足だけ置いている。つま先が少し擦れて、右足の内側だけ黒くなっていた。
勇者様は、その上履きを見なかった。
「……園には、複数の先生がいる」
「主担任です」
「エリスが、よく話している先生だ」
「お名前を」
勇者様の喉が動いた。
魔王の呪いを受けても折れなかった男が、三歳児の担任名で沈黙した。
「分かりません」
その声は小さかった。
私は調停記録に書き込んだ。
分からない。
この仕事をしていると、その言葉をよく聞く。殴ったわけではない。怒鳴ったわけでもない。本人は本当に、悪人のつもりがない。ただ、知らない。
妻が何を背負っていたか。子どもの靴がきつくなっていたこと。乳母が休みの日に誰が代わりを探していたか。施療師に症状を説明する紙を、誰が夜明け前に書いていたか。
知らないだけで、家庭はちゃんと壊れる。
「本日は同席確認です。これまで別室で伺った内容を、双方の前で整理します。離婚意思、親権、養育費、面会交流、財産分与、慰謝料、そして婚姻生活中の家庭運営責任について確認します」
「家庭運営責任」
勇者様は眉を寄せた。
「俺は生活費を出していました。乳母も雇った。侍女も家政係も増やした。専属施療師も呼べるようにした。王都で一番安全な屋敷にしたんです」
「その主張は記録しています」
「なら、なぜ離婚なんですか」
聖女様が笑った。
声は出なかった。口元だけが、ほんの少し動いた。その笑い方を、私は何度も見たことがある。泣く体力が残っていない人間の顔だ。
「勇者様」
私は机の上に、一枚の勤務表を置いた。
「こちらは、勇者家に雇用されていた乳母、侍女、家政係、護衛、専属施療師の連絡体制表です。作成者は聖女様」
「それは、エリスが得意だから」
「次に、こちらは乳母長の休暇調整表。作成者は聖女様」
「家のことは、エリスがよく分かっていた」
「こちらは、お子様が発熱した際の施療師への症状説明書。作成者は聖女様」
「俺は討伐に出ていて」
「こちらは幼児園の持ち物表への対応記録。替えの靴下、昼寝用の薄布、手拭き布、雨の日用の外套、季節替えの上履き。記入者は聖女様」
勇者様は黙った。
私は紙を一枚ずつ並べた。
乳母の勤務表。
侍女の引き継ぎ帳。
施療師の往診記録。
幼児園の連絡帳。
王宮支援員への依頼書。
護衛騎士の送迎記録。
家庭教師候補の面談予定表。
机の上が、家庭の裏側で埋まっていく。
聖剣も、勲章も、詩人の歌もない。そこにあるのは、誰かが毎日見て、判断して、修正して、頭を下げて、また翌日に回した紙だった。
「勇者様は、外部委託を整えたと主張されています」
「事実です」
「では、誰に何を委託するか決めたのは」
「……エリスです」
「乳母長が休んだ時、代替の手配をしたのは」
「エリス」
「施療師へ症状を説明したのは」
「エリス」
「幼児園へ家庭状況を伝えたのは」
「エリス」
「侍女が入れ替わった際、子どもの好みと注意点を伝えたのは」
「……エリス」
勇者様の声が少しずつ落ちていく。
「勇者様が直接、継続的に担った家庭運営業務は」
沈黙。
深夜二時の調停室で、壁の時計だけが小さく鳴った。
「俺は、家族を守っていました」
「具体的な業務名でお願いします」
「屋敷に結界石を置いた」
「設置後の日常確認は」
「家政係が」
「その家政係へ確認を指示したのは」
「エリス」
「他には」
「護衛を増やした」
「護衛の勤務調整は」
「エリスが、護衛隊長と」
「他には」
「専属施療師を契約した」
「症状連絡、受診判断、薬の管理は」
勇者様は、両手を膝の上で握った。
「エリスです」
聖女様は目を伏せていた。勝ち誇った顔ではない。負けたことを証明しているのは、自分も同じだからだ。彼女は三年間、自分が壊れていた証拠を、一枚ずつ机に置かれている。
「聖女様。外部委託があったことは認めますね」
「認めます」
聖女様の声は、思っていたよりはっきりしていた。
「乳母はいました。侍女もいました。家政係も、施療師も、護衛もいました。だから私は、鍋を洗わずに済んだ日があります。洗濯物を干さずに済んだ朝もあります。ミナを抱いてもらえた昼もあります」
勇者様が、かすかに息を吐いた。
自分の主張が通ると思った顔だった。
「でも」
聖女様は、膝の上の上履きを揃えた。
「誰に何を頼むか、誰が休んだ時にどう埋めるか、施療師へ何を伝えるか、園にどの事情を伏せるか、ミナが夜に泣いた時に誰を呼ぶか。それを決める人間は、私しかいませんでした」
「俺は、任せていた」
「ええ」
聖女様は顔を上げた。
「あなたは、私に家庭を任せました。私は、あなたに父親を任せたかった」
勇者様の顔から色が引いた。
それは、剣で斬られた顔ではなかった。自分が立っていると思っていた場所に、床がなかったと気づいた顔だった。
「勇者様」
私は次の書面を出した。
「ご自宅は、どなたの家ですか」
「俺とエリスの家です」
「お子様は、どなたのお子様ですか」
「俺とエリスの子です」
「では、なぜ勇者様は外注元の支払者としてしか座っていなかったのですか」
勇者様の息が止まった。
「違う。俺はそんなつもりでは」
「つもりの話は、別室で伺いました」
私は羽根ペンを握り直した。
腹の底が熱くなる。この仕事で怒鳴ることはない。怒鳴ったところで、子どもの靴は明日の朝きついままだ。だから言葉を研ぐ。
「本日は実態を確認しています。金銭を支払ったこと。人員を雇用したこと。屋敷の安全を整えたこと。それらは勇者様の貢献です」
勇者様がわずかに顔を上げる。
「一方で、家庭内の判断、調整、情報共有、子どもの日々の変化の把握は、聖女様へ偏っていた。勇者様は家庭を支援したのではなく、家庭の維持を聖女様へ委任していた。そう整理します」
「委任……」
勇者様は、その言葉を舌の上で転がした。
まずそうな顔だった。
「俺は、家族を守っていた」
「守るとは何ですか」
「危険から遠ざけることです」
「では、こちらを確認します」
私は、幼児園の連絡帳を開いた。
【夜、三十八度二分。咳あり】
【朝、食欲なし。卵粥を少し】
【昼寝用の青い布を入れています】
【右足の靴擦れがあります。外遊びは短めでお願いします】
最後のページだけ、父親記入欄が空白だった。
「この週、勇者様は王都にいました」
「いた」
「父親記入欄が空白です」
「何を書けばいいか分からなかった」
「魔王軍四天王の弱点は、報告書に書けましたね」
勇者様は、何も言わなかった。
聖女様の膝の上で、上履きが少し傾く。
「お子様の靴のサイズは」
「最近、買い替えたばかりで」
「サイズを」
「……十四、くらいか」
聖女様が首を振った。
「十五半です。先月、十四半がきつくなりました。右足だけ赤く跡が残っていたので、私が式典の控え時間に抜けて買いに行きました」
「勇者様は、その日どこに」
「魔法使いの杖の修理に」
言ってから、勇者様自身が止まった。
私は次の紙を置いた。
魔法使いミレーヌ様。
勇者パーティの後衛。
魔王討伐の功労者。
王国魔術院の特別顧問。
そして、本件における不貞疑惑の相手。
「その件も確認します」




