ドワーフ鍛冶工房の跡目争い調停に同席しています 前編
「その剣を打ったのは、親方じゃありません!」
ミーシャ・バルクの声が、調停室の石壁に跳ねた。
机の上には、一本の大剣が置かれている。
黒い鞘。炎を噛む山羊の紋章。王都武具展で金賞を取ったばかりの剣、《黒炉の黎明》。
その横には、賞状。
王都武具展 金賞。
作品名 黒炉の黎明。
製作者 グンデル・バルク。
屋号 グンデル工房。
さらに、赤い広告札。
名工グンデル親方直打ち。
王侯貴族御用達。
予約三年待ち。
調停官ユリス・グレンは、剣、賞状、広告札を順に見た。
「本日の争点は、一つです」
怒鳴り返そうとしていた兄ボルガが、そこで口を止めた。
壁際の弟子頭ロッカは、膝の上に置いた古い槌を握ったまま動かない。
老親方グンデル・バルクだけが、白い髭の奥で黙っていた。
「グンデル工房の跡目を、誰にするのか」
ユリスは、四人を順に見た。
「順に聞きます。まず、ミーシャ様」
「私が継ぐ!」
ミーシャは、火傷だらけの手袋を机に叩きつけた。
「この剣を打ったのは私だ。金賞を取った剣にも、三年先まで予約が埋まっている剣にも、私の手が入っている。それなのに、賞状にも広告にも、私の名前は一文字もない。父さんの名前で売られるたび、私の銘だけが削られてきた。もう腹の中に名前を隠すのは嫌なんだ!」
「次に、ボルガ様」
「跡目は俺だ」
兄のボルガ・バルクが、低く言った。
太い肩。整えた髭。金の指輪。磨かれた上着。
炉の前より、王都貴族の応接間が似合う男だった。
「親父が商談に出られなくなってから、誰が客を繋いできたと思ってる。値を守り、納期を守り、保証を付け、紹介状を切らさない。名門は腕だけでは残らない。看板を守れない者に、工房は継げない」
「確認します」
ユリスは、ボルガを見た。
「ボルガ様は、剣を打てるのですか」
ボルガの頬が、わずかに動いた。
「最高の剣は打てない」
ボルガは答えた。
「実用剣なら打てる。修理もできる。だが、《黒炉の黎明》のような一本は俺には打てない。そこは認める」
ミーシャが、机の向こうで目を細めた。
「それで、どうして跡目を名乗るんだ!」
「工房は、一本の剣だけで残るわけじゃないからだ」
ボルガは逃げなかった。
「客を取り、材料を買い、職人に仕事を回し、納期を守り、値を下げずに売る。それができなければ、どれだけ良い剣を打てても工房は続かない。俺は槌の一番ではない。だが、工房を残す仕事はしてきた」
「ロッカ様」
「俺は親方の椅子が欲しいわけじゃねえ」
壁際のロッカが、古い槌を膝に置いたまま言った。
「剣なら打てる。弟子どもの剣も見られる。騎士団に納める実用剣なら、俺が仕切ってきた。修理も、検品も、失敗した刃の直しもやってきた。そこは嘘じゃねえ」
ロッカは、机の上の《黒炉の黎明》を見た。
「だが、この一本はミーシャだ。刃の線が細いのに折れねえ。重さを落としてるのに、受けた時の鳴りが残る。ああいう気持ち悪い釣り合いは、俺には出せねえ」
「褒めてるのか、けなしてるのか、どっちだ!」
「褒めてる。腹立つくらいな」
ミーシャは言い返そうとして、口を閉じた。
ロッカは、古い槌の柄を親指でこすった。
「ただ、ミーシャ一人で工房が回るわけじゃねえ。ミーシャが朝まで打つだろ。次の日、弟子が研ぎを間違える。柄が合わねえ。納期は明日だ。客は待ってる。そういう時に、誰が拾う。俺たち現場だ」
ロッカは、ボルガを見た。
「ボルガが継いで打ち手の名前を消すなら反対だ。ミーシャが継いで、弟子どもの失敗を全部気合いで潰すなら、それも反対だ」
「私がそんなことをするって言うのか!」
「しねえと、ここで言わせに来たんだよ」
ロッカは、古い槌を握り直した。
「俺は跡目じゃなくていい。だが、次の親方の下で働くのは俺たちだ。納期を詰められるのも、失敗を隠せと言われるのも、弟子をただの手足にされるのも現場だ。誰が継ぐかで、俺たちの仕事の仕方が変わる。だから口を出す」
「最後に、グンデル様」
全員の視線が、老親方へ向いた。
グンデル・バルクは、白い髭の奥で黙っていた。
かつて王都に名を轟かせた名工。
その右手は、膝の上で小さく震えている。
「跡目について、どうお考えですか」
「決めん」
老親方は、剣を見たまま言った。
「決めれば割れるんじゃ」
「もう割れてる!」
ミーシャが、火傷だらけの手袋を握りしめた。
「父さんが決めなかったから、私たちは勝手に名前を取り合うしかなくなったんだ!」
グンデルは答えなかった。
ユリスは、一度だけ頷いた。
「では、この剣から見ます」
机の上には、剣がある。
賞状がある。
広告札がある。
予約台帳がある。
古い槌がある。
火傷だらけの手袋がある。
「この剣をめぐって、誰が何をしているのか」
ボルガが眉を寄せた。
「それはもう言っただろ。グンデル工房の名で売った。親父の名で注文を受け、親父が最後に確認し、親父の名前で世に出した。王都の客に伝わる言葉を選んだだけだ」
「ミーシャ様が打ったことは、否定しますか」
ユリスが聞くと、ボルガはすぐに首を振った。
「否定しない」
ボルガは、机の上の剣を見た。
「ミーシャが打った。今の工房で一番いい剣を打てるのは、こいつだ。そこまで否定するほど、俺は馬鹿じゃない」
ミーシャが、目を見開いた。
「だったら!」
「だが、外にどう出すかは別だ」
ボルガは言葉を切らなかった。
「親父は最後に見た。鋼材も、芯金も、重心も、鳴りも確認した。親父が出せと言わなければ、この剣は王都武具展に出していない。俺はそれを、王都の客に通る言葉にした」
「通る言葉って、親方直打ちのことか!」
「王都の客は、グンデルの名に金を払う。名も知られていない職人の剣として出せば、値を下げろと言われる。保証は誰が持つのか、今までの札は何だったのかと騒がれる。俺はお前の腕を安く見せたくなかった」
「私を無名にしたのは兄さんだろ!」
ミーシャは机に置いた手袋を握った。
「私が銘を入れようとするたび、兄さんは売れる形にしろって言った。売れる形って、私の名前を削ることだったんだ。売れた剣が戻ってくるたび、私の手だけが残った。火傷も、豆も、割れた爪も残った。だけど名前はどこにもなかった!」
「お前の腕を否定しているんじゃない」
ボルガはミーシャを見た。
「むしろ逆だ。お前の剣だから、高く売った。親父の名前、納品実績、事故が起きた時の保証、紹介状。その全部を付けて、王都で通る商品にした。俺はお前の剣を高く売ったんだ」
「高く売ったなら、私の名前も出せよ!」
ミーシャの声が荒くなった。
ボルガはすぐには返さなかった。
代わりに、分厚い予約台帳を開いた。
「王弟殿下の儀礼剣。侯爵家の婚礼短剣。北方騎士団長の退任記念剣。三年先まで注文は埋まっている。客は剣だけを買っているんじゃない。グンデル工房の保証を買っているんだ。看板を急に掛け替えて、客が離れたら誰が責任を取る」
「離れない剣を打つ!」
「商談をなめるな」
「剣をなめるな!」
ユリスは、二人の間に視線を置いた。
「ミーシャ様。実際に打ったことを示すものはありますか」
「柄の内側」
ミーシャの声が、少し低くなった。
「見えるところに刻めば、削られる。だから、見えないところに入れた」
ロッカが剣を押さえ、慎重に柄を外した。
金具の内側。
普通の客なら決して見ない場所に、小さな刻印がある。
M。
煤に隠れるような、けれど確かに残る一文字だった。
「作業印だろ」
ボルガが言った。
「工房の中で、誰がどこを触ったか分かるように入れる印だ。そんなものを、客に見せる銘と同じにするな」
「作業印じゃない」
ミーシャが、低く言った。
「私の銘だ」
「柄の内側だぞ。客には見えない」
「見える場所に入れたら削られるから、そこに入れたんだ!」
ロッカが、剣を押さえたまま言った。
「この位置に入れたなら、柄を組む前だ。途中で入れた印じゃねえ。ミーシャは、この剣を自分の仕事として残そうとしてた」
ボルガは、刻印から目を逸らした。
ユリスは、ロッカへ向き直った。
「ロッカ様。《黒炉の黎明》について、現場としての説明はありますか」
「この剣は、最初に一度失敗してる」
ロッカは、剣の根元を指した。
「ここに、焼き直した跡が残ってる。客には見えねえ。だが、火の前にいたやつなら知ってる。ミーシャが夜明け前に戻して、俺が柄組みを一日遅らせた」
「それで何が分かりますか」
「この剣は、机の上で名前だけ決まった剣じゃねえってことだ」
ロッカは言った。
「ミーシャが打って、俺たち現場が支えて、親方が最後に見て、ボルガが売った。一本の剣に、それだけの仕事が入ってる。なのに外に出る名前は、グンデル親方直打ちだけだ」
ボルガがロッカを睨んだ。
「だから何だ。お前が親方になる気はないんだろ。だったら、跡目の話に口を出すな」
「親方の椅子はいらねえ。だが、次の親方の下で働くのは俺たちだ」
ロッカは、古い槌を握ったまま言った。
「納期を詰められるのも、失敗を隠せと言われるのも、弟子をただの手足にされるのも現場だ。誰が継ぐかで、俺たちの仕事の仕方が変わる。だから口を出す」
ボルガは笑った。
「労働組合か」
「呼べ。弟子が潰れるよりましだ」
ロッカは平然と言った。
「ミーシャが三日寝ずに打っても、最後に柄を付ける手が震えてたら客には渡せねえ。工房ってのは、一人の天才と一枚の看板だけじゃ回らねえ」
ミーシャが少しだけ顔をしかめた。
「私が弟子を潰すと思ってるのか」
「思ってねえ。だから、ここで言わせてる」
「信用してないんだな」
「信用してるから言うんだ。エースは、自分が無理して打てるから、周りも無理すれば打てると思う時がある」
「……腹立つ」
「褒めてる」
「それで済むと思うな!」
グンデルの杖が、床を叩いた。
大きな音ではない。
だが、全員が黙った。
「名門、名門と」
グンデルは、疲れた声で言った。
「お前ら、そんなに欲しいか」
「欲しい」
ボルガが即答した。
「俺が継がなければ、客が逃げる。親父が王都の席に座れなくなってから、誰が値を守ったと思ってる。安売りするな、納期を守れ、保証を付けろ、紹介状を切らすな。その全部を俺が繋いできた」
「欲しい!」
ミーシャも言った。
「私が継がなければ、銘がまた消える。父さんの名前で売られるたび、私は自分の剣を他人の子みたいに見るしかなかった。もう嫌なんだ。腹の中に名前を隠すのは、もう嫌なんだ!」
「俺は欲しいとは言わねえ」
ロッカは、古い槌を見下ろした。
「けど、誰が継いでも現場の条件はいる。弟子どもは看板で育たねえ。材料を選んで、失敗して、直して、叱られて、ようやく一本打つ。そこまで親方の名前だけにされたら、誰の仕事か分からなくなる」
グンデルは目を閉じた。
「誰を選んでも、わしの工房ではなくなる」
「もう、そうなっています」
ユリスが言った。
グンデルの眉が動いた。
ユリスは、机の上へ順に指を置いた。
賞状。
広告札。
予約台帳。
火傷だらけの手袋。
古い槌。
柄の内側のM。
「この剣だけの話ではありません」
ユリスは言った。
「この剣には、四人分の仕事があります。客を繋いだ者。剣を打った者。現場を支えた者。最後に確認し、名前で保証した者」
ボルガが口を開きかけたが、ユリスは続けた。
「そして、もう一つあります」
ユリスはグンデルを見た。
「跡目を決める仕事です」
「わしが悪いと言いたいのか」
「まだ言っていません」
「同じ顔をしとる」
「では、顔ではなく確認します」
ユリスの声は変わらない。
「グンデル様。跡目を決めない理由は何ですか」
「決めれば割れるんじゃ」
「もう割れてる!」
ミーシャが、火傷だらけの手袋を握りしめた。
「父さんが決めなかったから、私たちは勝手に名前を取り合うしかなくなったんだ!」
グンデルは、長く黙った。
「決めたくなかったんじゃ」
老親方は、ようやく言った。
白い髭の奥の声は、炉の灰のように乾いていた。
「ボルガを選べば、剣が商売に使われる。ミーシャを選べば、客が離れる。ロッカを無視すれば、弟子が離れる。誰を選んでも、わしの知っとる工房ではなくなる」
「だから何も決めなかった」
ユリスが言った。
「そうじゃ」
「決めないことも、決めたことになります」
グンデルは、黙った。
ボルガも、ミーシャも、ロッカも、黙った。
ユリスは広告札を裏返した。
赤い文字が、机に伏せられる。
「この剣を見て、分かったことがあります」
ボルガが眉を寄せた。
ミーシャは火傷だらけの手袋を握った。
ロッカは古い槌から手を離さない。
グンデルだけが、剣を見ていた。
「客を繋いだのは、ボルガ様です」
「剣を打ったのは、ミーシャ様です」
「現場を支えたのは、ロッカ様です」
「最後に確認し、名前で保証したのは、グンデル様です」
ユリスは、伏せた広告札に手を置いた。
「ですが、跡目は一人です」
調停室の空気が、少し重くなった。
「では、その一人を誰にするのか」
ユリスは、三人の候補者を順に見た。
「ここからが、跡目争いです」




