魔女の異臭騒動調停に同席しています 後編
「この板は、小屋の外側から打ち付けられています」
調停官ユリス・グレンの声は、いつもと変わらなかった。だが、机の上に置かれた焦げ板を見た瞬間、村長バルムの顔色は明らかに変わった。
板の片側には、釘の頭が残っている。内側から外へ打てば、釘の頭は小屋の中に残る。だが、この板は逆だった。外から換気穴を塞ぎ、煙の逃げ道を潰した跡がある。
「子どもの悪戯でしょう」
村長はすぐに言った。
「村には、そういう悪戯をする者もおります。魔女殿の小屋は、子どもが近づきやすい場所にありますからな」
「子どもが、村番詰所の焼印が残る板を使ったのですか」
ユリスは、板の端を指で示した。そこには、薄い焼印がある。村番詰所で使う備品板の印だった。
ヘルガ・ロウが、息を止める。
「村長さん」
「詰所の古材が流れたのでしょう。そこまで管理はできません」
「管理の不備は別に確認します。今は、異臭が強くなった原因の一部として、この板を扱います」
魔女メルヴィナ・クロウは、板を見ていた。怒ってはいない。ただ、深く疲れた目をしていた。臭いと言われることには慣れていても、煙の逃げ道まで塞がれていたとは知らなかったのだろう。
「メルヴィナ様。換気穴が塞がれていた時期に、煙の出方は変わりましたか」
「変わりました。煙が上へ抜けず、低く流れるようになりました。小屋の中にも戻ってきたので、喉が焼けました」
「それでも作業を続けたのですか」
「咳止め薬の依頼がありました。井戸の香も、虫除け香も、止めるなと言われていました」
村長が咳払いをした。
「村の生活に必要な範囲で、お願いしただけです」
「必要な作業であることは確認します」
ユリスは、洗濯布、子どもの上着、村長印の虫除け依頼札、井戸番の浄化香受領札、家畜小屋の疫病除け薬袋、換気穴の板を順に並べた。
「同時に、ヘルガ様の洗濯被害も確認します。匂いがあること、生活に影響が出ていること、子どもがからかわれたことも、本件の事実です」
ヘルガは、膝の上で手を握った。
「私は、魔女さんを追い出したいわけじゃありません。でも、娘が泣くんです。服が臭いって言われて、学校に行きたくないって。夜も、窓を開けられない日がある。村長さんに相談したら、小屋を移すしかないって」
メルヴィナは、ヘルガを見なかった。
「匂いは、出ます。薬草を煮れば、出ます。香を焚けば、出ます。私が気づかなかった日もあると思います」
「では、私的な調合による匂い被害は認めますか」
「認めます」
ユリスは頷いた。
「では、次に村委託の作業を分けます」
机の上に、木札が四枚並べられた。村長印の虫除け香依頼札。井戸番の浄化香受領札。牧場組合の防疫香依頼札。商店会の祭り前害虫避け香増量依頼札。
「村長様。虫除け香の通常量三倍は、村長印です」
「祭りのためです」
「牧場組合長ドラン様。家畜小屋の防疫香は、あなたの組合印です」
後ろの席にいた大柄な男が、気まずそうに顎を撫でた。
「牛が咳をしていた。あの香を焚いてから、広がらなかったのは確かだ」
「井戸番エミル様。浄化香の受領札は、あなたの印ですね」
細い老人が、ゆっくり頷いた。
「梅雨前になると、井戸が腐ったように匂う。あの香を焚くと、少し落ち着く」
「商店会の祭り前害虫避け香については」
村長が顔をしかめた。
「それは、村の商いに必要でした」
「つまり、異臭の発生源の一部は、村の依頼作業です」
ユリスは言った。
「ただし、村が依頼したからといって、ヘルガ様がすべて我慢する理由にはなりません」
調停室が静かになった。
ユリスは、風向き地図の上に小さな石を置いた。洗濯場。ヘルガの家。魔女の小屋。井戸。家畜小屋。石が置かれるたび、匂いの通り道が見えてくる。
「匂いは、利益を受ける場所ではなく、風下へ流れています。虫除け香で得をしたのは祭りの屋台です。井戸の浄化香で得をしたのは村全体です。家畜小屋の防疫香で得をしたのは牧場組合と牛乳を買う家です。ですが、洗濯物に匂いがついたのは、風下のヘルガ様の家です」
ヘルガの目が、少しだけ赤くなった。
「そこです」
ユリスは、村長を見た。
「利益を受けた者と、匂いを負担した者がずれています。そのずれを、魔女様一人に負わせることはできません」
「では、どうしろと」
村長の声が硬くなった。
「村は薬も香も必要です。だが、住民は臭いと言っている。魔女殿は移れないと言う。なら、誰かが我慢するしかないでしょう」
「我慢だけで解決しません」
ユリスは、焦げ板を香炉の横へ戻した。
「作業時間、煙突の高さ、風向き板、洗濯場側の煙除け、小型炉、作業札、費用負担を決めます」
「そんなものに村費を出すのですか」
「村が依頼した作業の対策費です」
村長が黙った。
メルヴィナは、机の上の回覧板を見ていた。
魔女の小屋に近づくな。異臭あり。子どもを近づけないこと。
その文字だけが、まだ彼女の前に残っているようだった。
「メルヴィナ様」
ユリスが呼んだ。
「あなたが調停で求めることを確認します。小屋を動かさないことですか。薬草畑を残すことですか。村からの依頼料ですか」
メルヴィナは、すぐに答えなかった。
「全部、必要です」
そう言ってから、少しだけ首を振った。
「でも、一番はそこではありません」
ヘルガが顔を上げた。
メルヴィナは、村長印の木札に指を置いた。
「臭いと言われるのは慣れています。子どもに避けられるのも、慣れています。魔女だから仕方ないと、何度も思いました」
声は大きくない。けれど、調停室の全員が聞いていた。
「でも、頼まれた煙まで、私の悪意にしないでください」
村長は何も言わなかった。ヘルガも、牧場組合長も、井戸番も、しばらく黙っていた。
「確認しました」
ユリスは、回覧板を手に取った。
「この文面は、安全告知ではありません。魔女様を危険物として扱う文面です」
「危ないのは事実でしょう」
村長が言った。
「子どもが近づいて薬草を触れば、危険です」
「安全告知は必要です。差別的な回覧は不要です」
ユリスは、回覧板を机に置いた。
「近づくな、ではなく、作業札を確認する。子どもだけで近づかない。強い香が出る日を告知する。そう改めます」
ヘルガが、小さく頷いた。
「それなら、分かります。何をしている日か分かれば、洗濯を避けられる日もあります」
「洗濯被害については、石鹸代と洗い直し費を確認します」
ユリスは、ヘルガの提出した小さな紙を見た。石鹸代。洗い直しの水桶代。学校へ行く前に服を替えた日の控え。金額としては大きくない。だが、生活には確かに響く金額だった。
「村委託の作業日と一致する分は、村費または依頼団体の負担。メルヴィナ様の私的調合日に発生した分は、メルヴィナ様が一部負担。換気穴の板により煙が悪化した期間分は、村側の管理責任として扱います」
「魔女殿も払うのですね」
村長が言った。
「はい」
ユリスは即答した。
「匂い被害がすべて村委託作業ではない以上、魔女様にも改善義務があります」
メルヴィナは、静かに頷いた。
「払います。小型炉も、私の調合分なら私も出します」
「村長様」
ユリスは、次に薬草畑隣地の商会賃貸案を取った。
「この件は、異臭調停とは別件として扱います。本調停の成立後三十日間、薬草畑および隣地に関する商会賃貸交渉を停止してください」
「それは越権では」
「異臭苦情に基づく小屋移転要求と、商会賃貸案が同じ地図に載っています。調停中に進めれば、本件の解決を妨げます」
村長は唇を結んだ。
「別件として領主役所へ出すことは妨げません。ただし、本件の解決条件として、魔女様の小屋と薬草畑を動かすことは認めません」
ヘルガが、息を吐いた。
「私は、倉庫の話なんて聞いていませんでした」
「でしょうね」
メルヴィナが低く言った。初めて、少しだけ棘が出た。
「聞いていたら、洗濯布だけで来なかったでしょう」
村長が睨んだが、言い返せなかった。
「調停案を整理します」
ユリスは、新しい用紙を出した。リナは羽根ペンを持ち替えた。調停室の空気が、証拠を並べる時間から、条件を決める時間へ変わる。
「一、メルヴィナ様の小屋および薬草畑の即時移転請求は、本調停では認めません」
「二、洗濯物への匂い移り、夜間煙、子どもの生活被害は実在するものとして確認します」
「三、匂いの発生源を、村委託作業、メルヴィナ様の私的調合、換気穴閉塞による低煙の三種に分けます」
「四、村委託作業による匂い対策費は、村または依頼団体が負担します」
「五、メルヴィナ様の私的調合は、強い匂いの出る作業を昼二刻から夕四刻までに限ります」
「六、夜間作業は、急病、井戸汚染、家畜疫病など緊急時に限り、村番へ告知札を出します」
「七、煙突の高さ変更、風向き板、洗濯場側の煙除け柵、小型調合炉を設置します。費用は村七割、メルヴィナ様三割。ただし村委託専用炉は村負担とします」
「八、洗濯被害について、村委託作業日と一致する分は村費から洗い直し石鹸代を支給します。私的調合分はメルヴィナ様が一部負担します」
「九、差別的な回覧板は撤回し、安全告知板へ改めます」
「十、薬草畑および隣地に関する商会賃貸交渉は、本調停成立後三十日間停止します」
村長は、九項目目で顔をしかめた。
「差別的とは、言い過ぎでは」
「では、読み上げます」
ユリスは、古い回覧板を手に取った。
「魔女の小屋に近づくな。異臭あり。子どもを近づけないこと」
それから、新しい文案を机へ置いた。
「薬草調合作業中。強い香が出る場合あり。作業札を確認し、子どもだけで近づかないこと」
ユリスは村長を見る。
「安全に必要なのは、後者です」
村長は、しばらく黙ってから、小さく頷いた。
「ヘルガ様」
ユリスが向き直る。
「この条件で、洗濯被害と夜間煙について、まず一か月試行できますか」
ヘルガは、洗濯布を見た。次に、子どもの上着を見た。最後に、メルヴィナを見た。
「一か月なら。でも、また娘が泣いたら、私はもう一度来ます」
「来てください」
ユリスは答えた。
「そのための調停所です」
メルヴィナが、わずかに目を伏せた。
「洗い直しの石鹸代は払います。私の調合の日なら」
「村の依頼の日は、村が払います」
ヘルガの声は、まだ硬かった。
「そこは、分けてください」
「分けます」
メルヴィナは言った。
村長は不満を残した顔で署名した。ヘルガは少し迷い、それでも署名した。メルヴィナの署名は細く、黒い薬草の染みが紙の端に少しだけついた。
ユリスは内容を確認し、押印した。
「調停成立です」
その後、机の上には洗濯布、虫除け依頼札、換気穴の板、古い回覧板、新しい安全告知案が残った。どれも派手ではない。だが、どれか一つ欠けても、誰かの生活がまた匂いの中に沈むものだった。
数日後、村外れの小屋の前に、新しい札が立った。
本日、風下につき虫除け香は休み。
咳止め薬は小炉で調合中。
子どもだけで近づかないこと。
ヘルガの娘は、少し離れた場所でその札を読んだ。鼻を押さえなかった。
メルヴィナも、声をかけなかった。
ただ、小屋の煙突から出る煙は、前より少し高いところへ流れていた。




