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勇者パーティの離婚調停に同席しています〜異世界家庭裁判所の調停官〜  作者: あゆと


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11/22

調停官は、判決を下しません

新人書記官リナ・フェルが王国中央家庭調停所へ配属されてから、五件目の大きな案件だった。


勇者家離婚調停

王太子婚約解消調停

竜騎士面会交流調停

ベルフォード家婚約変更調停

竜脈安定式登録調停


五つ目の記録箱を棚に収めようとして、リナはふと手を止めた。

どれも、最初に聞いた時は、指先が少し震えた名前だった。勇者。王太子。竜騎士。伯爵家。賢者。王都の新聞なら、一面に大きな活字で載る名前ばかりだ。王宮広場の噴水前で詩人が歌えば、人が集まる。酒場で噂になれば、三日で尾ひれが十枚は増える。

けれど、調停所の記録箱に入る頃、その大きな名前は別のものに変わっていた。

幼児園連絡帳の写し。大聖堂のキャンセル料明細。面会交流予定表。外された銀の名札。王立魔導院の登録簿訂正写し。

英雄譚には載らないものばかり。

リナは、その五つの記録箱を見つめたまま、しばらく手を離せなかった。


「リナ」

背後から声がした。

振り返ると、調停官ユリス・グレンが、机の上で羽根ペンを拭いていた。

夜の第二記録室。窓の外では王都の灯りがひとつずつ増えている。昼間は人の声と足音で満ちている調停所も、この時間になると紙の匂いの方が強くなる。

インク。封蝋。古い羊皮紙。乾いた木箱。少し冷めた茶。

リナは、この匂いにまだ慣れきっていない。人の人生が箱に入って並んでいるようで、息を深く吸うたび、胸の奥が少し重くなる。

「すみません。少し、見ていました」

「記録漏れですか」

「いえ」

リナは背表紙へ視線を戻した。

「私が配属されてから担当した大きな案件、これで五件目です」

「もう五件ですか」

ユリスはそう言って、拭き終えた羽根ペンを置いた。

驚いたようには聞こえなかった。

ユリスは、いつもそうだ。慌てない。声を荒げない。相手が勇者でも、王太子でも、竜騎士でも、賢者でも、机の前に座った瞬間から同じ声になる。

最初、リナはそれが少し怖かった。

冷たい人なのだと思った。勇者様が言葉に詰まっても、王太子殿下が顔色を変えても、ガレス様が竜笛を握り締めても、ユリスは大きく表情を動かさなかった。

けれど、五件の調書を取って、少しだけ分かってきた。

ユリスは冷たいのではない。

机の上に置くために、手を冷たくしている。

「どれも、大きな名前から始まりました」

リナは言った。

「勇者様の離婚、王太子エドワルド殿下の婚約解消、竜騎士ガレス様の面会交流、ベルフォード家の婚約変更、賢者様の魔法式登録」

「ええ」

「でも、最後に残ったのは、連絡帳や明細書や予定表や名札や研究ノートでした」

ユリスは、少しだけ目を細めた。

「この仕事では、よくあることです」

「よくあることなのに」

リナは、記録箱から手を離した。

「誰も最初は見ようとしないのですね」

言ってから、少し踏み込みすぎたかと思った。

けれど、ユリスは咎めなかった。

「見えにくいのです」

「見えにくい?」

「大きな言葉は、人の目を引きます」


ユリスは机の端に置かれた写しを一枚手に取った。

幼児園連絡帳の写し。

父親記入欄だけが、空白のまま残っている。

「勇者様は、世界を救いました。生活費を出し、護衛を置き、屋敷を安全にした。それは全部、事実です」

「はい」

「だから、本人も周囲も、家族を守っていたと思っていた」

リナは、その連絡帳の写しを見た。

勇者様は、魔王軍四天王の名前を即答した。けれど、子どもの主担任の名前は言えなかった。あの瞬間の静けさを、リナはまだ覚えている。

羽根ペンの先が、紙の上で止まった。

世界を救った男が、三歳児の担任名で沈黙した。

「ユリス様は、勇者様を責めたかったのですか」

「いいえ」

答えは早かった。

「私は、勇者様を裁いたのではありません。父親記入欄が空白だったことを、見てもらっただけです」

リナは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。

それだけ。

ユリスは、よくそういう言い方をする。

けれど、その“それだけ”で、人は逃げられなくなる。


「王太子殿下の件も同じですか」

「同じです」

ユリスは次の写しへ目を落とした。

大聖堂のキャンセル料明細。招待状再通知費。貴賓宿泊取消費。公爵家への解決金。名誉回復文書。

リナは、あの調停を思い出した。王太子エドワルド・レイヴァン殿下は、本当に堂々としていた。金の髪も、整った声も、王国の未来と呼ばれてきた人にふさわしかった。

真実の愛。

彼がそう口にした時、その言葉には力があった。

だが、机に大聖堂の明細書が置かれた瞬間、その力は少しずつ紙へ吸われていった。

「私は、殿下の恋を否定したのではありません」

ユリスは言った。

「恋をしたのでしょう。そこは確認しました」

「ですが、婚約契約は消えない」

「はい。未使用になった大聖堂の費用を確認しただけです」

リナは、少しだけ口元を押さえた。

笑うところではない。

けれど、どうしても思い出してしまう。愛を金で測るのか、と王太子殿下は言った。ユリスは、愛ではなく会場費を見ていた。

あの瞬間、リナは初めて、調停官という仕事の怖さを知った。

声を荒げるより、正確に切り分ける方が、人を追い詰めることがある。


「竜騎士様は」

リナは自分から言った。

「父親の威厳を見せたいだけではなかったと思います」

「そうですね」

ユリスは頷いた。

「お子様を愛していたのでしょう」

竜騎士ガレス様の記録箱には、面会交流予定表と、学舎からの苦情書が残っていた。添付された証拠写しには、小さな上履きがある。つま先に、薄い焦げ跡があった。

竜の翼が巻き上げた火の粉が、子どもの足元に落ちた日のものだ。

ガレス様にとっては、ほんの小さな火の粉だったのかもしれない。

だが、子どもにとっては違った。

月二回。場所は調停所指定の交流室。送迎は徒歩、または馬車。持ち物は、水筒、着替え、手拭き布、好きな焼き菓子。

そこに、竜の名前はなかった。空もない。凱旋もない。竜笛もない。ただ、子どもが疲れずに会い、帰れるための予定だった。

「父の誇りを笑ったのではありません」

ユリスは言った。

「子どもが安心して帰れる予定を作っただけです」

「だけ、ですか」

リナは思わず言った。

ユリスが、こちらを見る。

リナは少しだけ背筋を伸ばした。

「ユリス様の“だけ”は、あまり“だけ”に聞こえません」

言ってしまった。

少し顔が熱くなる。

だが、ユリスは怒らなかった。

ほんの少し、口元を緩めたように見えた。

「それは、気をつけます」

「いえ、そういう意味では」

「覚えておきます」

「忘れてください」

思わず即答してしまい、リナはさらに顔が熱くなった。

ユリスは今度こそ、少しだけ笑った。

小さな笑みだった。王太子殿下の美しい微笑みとも、竜騎士の豪快な笑いとも違う。薄い紙の端が、わずかに持ち上がるような笑い。

リナは、なぜか胸の奥が落ち着かなくなり、慌てて記録箱へ視線を戻した。


「クラリッサ様の件は」

口に出すと、自然に声が低くなった。

外された銀の名札。

クラリッサ・フォン・ベルフォード。

支度部屋の扉から外され、妹の婚礼のために場所を空けさせられた名札だ。

あの調停で、リナは何度も羽根ペンを握り直した。母の優しい声。父の「家のためだ」。妹の涙。婚礼招待状の花嫁名だけが差し替えられた控え。

どれも、大声ではなかった。

だからこそ息苦しかった。

「私は、伯爵家を壊したわけではありません」

ユリスは言った。

「お姉様なら分かってくれる、という言葉を、同意書ではないと確認しただけです」

「クラリッサ様は、婚約者を取り戻しに来たわけではありませんでしたね」

「ええ」

ユリスは銀の名札の写しを見た。

「自分を消した婚礼に、自分を使わせないために来ました」

リナは、あの背中を思い出す。

調停調書を抱えて、クラリッサ様は一人で廊下を歩いていった。勝者の背中ではなかった。逃げる背中でもなかった。

自分の名前を、自分で持っていく背中だった。


「マリエル様は」

リナは、最後の写しを手に取った。

王立魔導院の登録簿訂正写し。

創案者。

リュシアン・ヴァルト。

マリエル・クライン。

その二つの名が並んでいる。

「今日、少しだけ笑っておられました」

「笑ったというより、息が戻ったように見えました」

「そうです。それです」

リナは頷いた。

謝辞欄から創案者欄へ。

たったそれだけ、と言う人もいるかもしれない。

けれど、リナは今日、知った。

名前の置き場所は、人生の行き先を変える。

謝辞欄では、自分の研究室を申請できない。創案者欄なら、できる。

「私は、賢者様の天才を疑ったのではありません」

ユリスは言った。

「リュシアン様は本当に天才です。戦地観測値も、最終収束式も、完成に不可欠でした」

不可欠。

三文字。

リナは、さっき調書に書いた言葉を思い出す。

大型魔力炉での長期稼働に不可欠。その言葉を聞いた時、マリエル様の喉が少しだけ動いた。

泣かなかった。

泣かなかったからこそ、リナは余計に目を離せなかった。

「ただ、三年分の改訂履歴を、創案者欄へ戻しただけです」

ユリスは、登録簿訂正写しを机に置いた。


リナは五つの記録箱を見た。

どの案件も、ユリスは救ったとは言わない。裁いたとも言わない。ただ、置いたと言う。

それなのに、当事者の人生は、確かに少しだけ向きを変えている。

「ユリス様」

「はい」

「救ったとは言わないのですね」

「言いません」

その答えは、迷いがなかった。

「調停官は、誰の人生も代わりに選べません。勇者様に父親でいろと命じることも、セシリア様に許せと言うことも、ガレス様の面会を好きになれと言うことも、クラリッサ様に家を出ろと命じることも、マリエル様に研究室を持てと決めることもできません」

ユリスは、調停調書の束へ視線を落とした。

「でも、選ぶための紙を、机の上に置くことはできます」

リナは、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し熱くなった。

綺麗な言葉ではない。

英雄の演説でもない。

けれど、リナはたぶん、この言葉を忘れないと思った。

調停官は、判決を下さない。だが、選ぶための紙を机に置く。その仕事を、リナは今、隣で見ている。

「なぜ、そこまで現物にこだわるのですか」

質問は、気づいた時には口から出ていた。

ユリスの手が止まる。

踏み込みすぎた、とリナは思った。

けれど、ユリスは怒らなかった。

ただ、少しだけ窓の外を見た。王都の灯りの向こうに、王城の尖塔がある。遠くから見れば、美しい場所だ。

「昔、一度だけ」

ユリスは言った。

「机に置かれなかった手紙を見たことがあります」

リナは息を止めた。

ユリスは、それ以上詳しくは話さなかった。

ただ、その声の温度だけで、リナには十分だった。

古い話なのだろう。

まだユリスが、ここではないどこかの机に座っていた頃の話。

誰かの手紙があった。

でも、机には置かれなかった。

読まれず、証拠にもならず、調書にも残らなかった。

それだけで終わった人生が、きっとあった。

「それ以来です」

ユリスは、静かに言った。

「言ったはずです、という言葉を、あまり信じなくなりました」

リナは、何も言えなかった。

「言ったのなら、どこに残っているのか。頼んだのなら、誰が受けたのか。合意したのなら、どの紙に署名したのか。支払ったのなら、どの帳簿に載っているのか」

冷たい言い方かもしれない。

でもリナは、もうそれを冷たいとは思わなかった。

温かい言葉の下で消えるものを、五件分、見てしまったからだ。

家族だから。愛だから。名誉だから。功績だから。善意だから。感謝しているから。

どれも、人を支える言葉になる。そして時々、人から逃げる言葉になる。

「調停官は、判決を下しません」

ユリスは言った。

「けれど、逃げた言葉を、机の上へ戻すことはできます」

リナの指が、自然に羽根ペンを探した。

今の言葉を、どこかに書き残したいと思った。

けれど、これは調停記録ではない。

だから、心の中で繰り返した。

逃げた言葉を、机の上へ戻す。

それが、この人の仕事なのだ。

リナは、五つの記録箱を棚へ収めた。

背表紙が並ぶ。

勇者家離婚調停。王太子婚約解消調停。竜騎士面会交流調停。ベルフォード家婚約変更調停。竜脈安定式登録調停。

「少しだけ」

リナは言った。

「分かってきた気がします」

「何がですか」

「調停官の机に、最後まで残るものです」

ユリスは答えなかった。

ただ、机の上を見た。

そこにはもう、ほとんど何も残っていない。片づけられた羊皮紙。拭かれた羽根ペン。閉じられた記録箱。

それでも、リナには見える気がした。

連絡帳。明細書。予定表。名札。研究ノート。

大きな言葉の下から、机の上まで引き上げられたものたち。

それらを見ていると、自分がこの部屋に配属された日のことを思い出す。

緊張していた。失敗しないように。字を間違えないように。調停官の邪魔をしないように。そればかり考えていた。

でも今は、少し違う。

この机に置かれるものを、見落としたくない。誰かの小さな現物が、大きな言葉の下で消えないように、きちんと書き留めたい。

「リナ」

「はい」

「その顔は、何か決めた顔ですね」

ユリスに言われ、リナは目を瞬いた。

「そんな顔をしていましたか」

「していました」

「記録しないでください」

「今のは調書事項ではありません」

真顔で返された。

少しだけ悔しい。

リナは唇を引き結び、それから我慢できずに小さく笑った。

夜の記録室で笑うのは、不謹慎かもしれない。

けれど、ユリスも止めなかった。


その時、扉が控えめに叩かれた。

「失礼いたします」

夜勤の受付官が、薄い封筒を持って立っていた。

「明朝扱いの申立書ですが、至急確認指定がついております」

リナは封筒を受け取った。

表題は、まだ知らない家の名前だった。

知らない家。知らない申立人。知らない生活。

けれど、添付書類の欄には、もう見慣れた言葉が並んでいる。

契約書。領収書。生活費帳。未返信の手紙。

リナは、さっき棚に収めた五つの記録箱を思い出した。

連絡帳。明細書。予定表。名札。研究ノート。大きな言葉の下から、机の上まで引き上げられたものたち。

「ユリス様」

「はい」

「次も、机の上に置くのですね」

ユリスは封筒を受け取った。

「置けるものがあるなら」

そう言って、羽根ペンを取り直した。

調停官は、判決を下さない。

誰かの人生を、代わりには選べない。

ただ、机の上に置く。

大きな言葉の下で、消えかけていたものを。

第一部完結です

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