賢者の魔法式登録調停に同席しています 後編
「その鍵で開く扉を、塔で作り続けていた人がいます」
調停官ユリス・グレンの言葉のあと、第二調停室はしばらく静かだった。
賢者リュシアン・ヴァルトは、机に並んだ三つの資料を見ていた。出征前の原式。戦地から送った竜脈観測報告。研究塔で三年間更新された改訂履歴。どれか一つだけなら、彼は迷わなかっただろう。
最終式を完成させたのは自分だ。魔王城地下で、竜脈が裂けるように歪む瞬間を見たのも自分だ。勇者アレクが剣を構え、聖女エリスが結界を張り、魔法使いミレーヌが魔力を撃ち込む中、古代結界の底で数値を読み取ったのも自分だ。
それは嘘ではない。
リュシアンは、本当に命を賭けていた。
だからこそ、彼は自分が完成させたのだと思っていた。
だが、机の上の改訂履歴には、彼のいない三年があった。
塔は止まっていなかった。
「私は」
リュシアンは、ゆっくり口を開いた。
「マリエルの貢献を軽んじたつもりはない」
マリエル・クラインは答えなかった。
その言葉を、彼女は予想していた。軽んじたつもりはない。悪意はなかった。感謝している。助かった。どれも、聞き慣れた言葉だった。
けれど、そのどれも創案者欄には届かなかった。
「謝辞欄に名を入れました」
リュシアンは続けた。
「研究塔を維持し、弟子を管理し、実験を続けたことへの感謝です。そこを消すつもりはありません」
「謝辞欄の話は確認しています」
ユリスは、登録申請書を示した。
「本日確認するのは、謝辞欄に置くべき貢献と、創案者欄に置くべき貢献の切り分けです」
リュシアンの目が細くなる。
「切り分け」
「はい」
ユリスは、資料を二つに分けた。
「研究塔の会計管理、弟子の食事手配、修繕費の支払い、炉心室の清掃。これらは重要ですが、それだけで創案者性を生むものではありません」
マリエルは、小さく頷いた。
それでいい。
彼女は、何もかもを研究成果として取り戻したいわけではない。塔を掃いた手まで、創案者欄に書けと言いたいのではない。
彼女が取り戻したいのは、式の中にある自分の一行だ。
「一方で」
ユリスは、第一仮説の草稿、安定化条件式、暴走停止記録を机の中央へ戻した。
「第一仮説、周期補正、逆流防止、炉心温度上昇時の安定化条件。これらは、完成式の構成要素として残っています」
リュシアンは黙っていた。
「賢者様」
ユリスは尋ねた。
「登録された完成式から、マリエル様の安定化条件式を除いた場合、術式は稼働しますか」
長い沈黙があった。
リュシアンの指が、黒い外套の袖口を押さえる。
「短時間なら」
「長期稼働では」
「不安定になる」
「大型魔力炉では」
リュシアンは、目を閉じた。
「暴走の危険がある」
「承知しました」
ユリスは書き込んだ。
「マリエル様の安定化条件式は、大型魔力炉での長期稼働に不可欠」
書記官リナ・フェルの羽根ペンが、紙の上を走る。
マリエルの喉の奥が、熱くなった。
不可欠。
その三文字が、三年間の夜に触れた。
炉心室の熱。弟子の叫び。焦げた袖。魔力炉が止まる直前の白い光。リュシアンから届く短い報告書。返信を書くために、震えた指を握り込んだ朝。
それらが、ようやく研究の言葉になった。
「しかし」
リュシアンは、まだ崩れなかった。
「最終収束式を書いたのは私です。戦地観測値を持ち帰ったのも私だ。マリエルの式だけでは、《竜脈安定式》は完成しなかった」
「その通りです」
ユリスは即答した。
リュシアンが、わずかに意外そうに顔を上げる。
「賢者様の戦地観測と最終収束式も、完成に不可欠です。ですから、本件はマリエル様単独の創案ではありません」
「では」
「共同創案です」
調停室の空気が、そこで変わった。
リュシアンの表情が固まる。
マリエルは、息を吸うのを忘れた。
共同創案。
その言葉を、彼女はずっと心の中で言えなかった。
自分で言えば、欲張りに聞こえる気がした。リュシアンの栄光に便乗しているように見える気がした。魔王討伐に行かなかった自分が、戦場を見た賢者と同じ欄に並ぼうとするのは、厚かましいのではないかと思った夜もある。
でも、研究ノートは知っていた。
あの式は、一人では立っていなかった。
「私は、あなたの名誉を奪いに来たのではありません」
マリエルは、静かに言った。
リュシアンの視線が、彼女へ向く。
「あなたが戦場で見たものを、私は見ていません。魔王城の地下で竜脈が裂ける瞬間も、聖女様の結界が割れる音も、ミレーヌ様の魔力が焼ける光も、私は知りません」
彼女は、古い研究ノートに触れた。
「でも、あなたがその報告を送ってきた時、塔にあった炉心へ入れ、燃えない形に直したのは私たちです」
リュシアンは、唇を結んだ。
「あなたは最後の鍵を持ち帰りました」
マリエルは言った。
「私は、その鍵で開く扉を、塔で作っていました」
ユリスは、少しだけ待った。
当事者が、自分の言葉で争点に届く瞬間を、調停官は急がせない。
マリエルは、登録申請書の謝辞欄を見た。
「私は、謝辞を求めているのではありません」
声は震えなかった。
震えないように、三年間、研究塔で炉心の音を聞いてきた声だった。
「私の名前を、謝辞欄ではなく、創案者欄へ戻してください」
リュシアンは、しばらく何も言わなかった。
彼の顔には、怒りも侮蔑もなかった。ただ、理解が遅れて届いている顔だった。
「私は」
リュシアンは、低く言った。
「塔が待っていたのだと思っていた」
マリエルの指が止まる。
「私が戻るまで、塔が、研究が、そのまま残っていたのだと」
彼は、三年分の改訂履歴を見た。
「違ったのだな」
その声は、とても小さかった。
「君が、塔を進めていた」
マリエルは、目を伏せた。
泣かなかった。泣けば、また補助者の感情に見える気がした。だから、泣かなかった。
ユリスは新しい用紙を出した。
「調停案を整理します」
リナが記録を準備する。
「一、王立魔導院への《竜脈安定式》単独登録申請を訂正する」
「二、創案者欄に、リュシアン・ヴァルト様、マリエル・クライン様の二名を記載する」
「三、成立記録として、戦地観測および最終収束式はリュシアン・ヴァルト様、第一仮説、周期補正、逆流防止、安定化条件式、塔内改訂はマリエル・クライン様と明記する」
「四、術式使用料、魔導具製造許諾料、王立魔導院講習料について、寄与割合に基づき配分を再計算する。割合については、魔導院鑑定部の評価を受ける」
「五、今後の講演、教本、登録簿写し、魔導具製造許諾書において、《竜脈安定式》をリュシアン様単独創案と表記しない」
「六、研究塔の実験日誌、戦地報告書、改訂履歴、暴走停止記録、弟子の署名入り実験記録を保全する。廃棄、改ざん、持ち出しを禁じる」
「七、マリエル様が独立した研究室を王立魔導院へ申請する場合、リュシアン様は《竜脈安定式》共同創案者としての証明書発行に協力する」
マリエルは、そこで初めてユリスを見た。
独立した研究室。
その言葉は、遠い。
けれど、紙に書かれた瞬間、遠いだけではなくなった。
彼女は、リュシアンの塔に戻ることしか考えていなかった。
戻って、訂正された記録を棚へ戻し、弟子たちに説明し、また炉心温度を測るのだと思っていた。
だが、自分の研究室を持つ道が、そこに書かれている。
謝辞欄では、申請できなかった。
創案者欄なら、申請できる。
名前の置き場所が、人生の行き先を変える。
「内容を確認の上、署名をお願いします」
ユリスは用紙を回した。
最初に署名したのは、リュシアンだった。
彼の字は美しかった。王立魔導院の講演録で何度も見た字。天才の証拠のように、迷いがない字。
だが、今日の最後の線だけは、ほんの少し重かった。
次に、マリエルが署名した。
マリエル・クライン。
彼女の字は、古い研究ノートと同じだった。少し右へ傾いた、読みやすい字。弟子たちが、何度もその字をなぞって式を覚えた字。
ユリスは双方の署名を確認し、押印した。
「調停成立です」
その言葉のあと、調停室の空気がゆっくり動いた。
リュシアンは、登録申請書を見ていた。
「マリエル」
彼は言った。
マリエルは、顔を上げる。
「謝辞欄に入れれば、君を軽んじていないことになると思っていた」
彼の声は、苦かった。
「違ったのですね」
「違いました」
マリエルは答えた。
それ以上は言わなかった。
責める言葉も、慰める言葉も、今は必要なかった。
名前は、移るべき欄へ移る。
それで十分だった。
後日。
王立魔導院の登録簿に、訂正紙が差し込まれた。
創案者。
リュシアン・ヴァルト。
マリエル・クライン。
成立記録。
戦地観測および最終収束式。
リュシアン・ヴァルト。
第一仮説、塔内改訂、安定化条件式。
マリエル・クライン。
弟子の一人が、その登録簿を見て、小さく息を吐いた。
「マリエル先生の名前が」
彼は、創案者欄の二行目を指でなぞりかけて、寸前で止めた。登録簿には触れてはいけない。けれど、そこにある文字を確かめたい気持ちだけは、止められなかったのだろう。
マリエルは、古い研究ノートを抱えていた。
革表紙の角は擦り切れ、頁の端には焦げ跡がある。弟子たちが写した式の線も、暴走事故の日に曲がった第二条件式も、その中に残っている。
それはもう、賢者の留守を守った記録ではなかった。
彼女の研究が、三年間、確かに進んでいた証明だった。
研究塔へ戻る廊下で、リュシアンは少しだけ先に立ち止まった。
「君は、塔に戻るのか」
マリエルは、王立魔導院の中庭を見た。
冬の光が、白い石畳に落ちている。
「戻ります」
彼女は言った。
「弟子たちに、登録が訂正されたことを伝えなければなりません」
リュシアンが頷く。
「その後は」
マリエルは、古いノートを抱え直した。
その重さは、昨日までと少し違っていた。
「自分の研究室を申請します」
リュシアンは、何も言わなかった。
ただ、初めてそれを当然のこととして聞いた顔をした。
マリエルは、焦げ跡の残る研究ノートを抱え直した。
その表紙には、今日から、誰かの留守を守った記録ではない重さがあった。




