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勇者パーティの離婚調停に同席しています〜異世界家庭裁判所の調停官〜  作者: あゆと


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10/22

賢者の魔法式登録調停に同席しています 後編

「その鍵で開く扉を、塔で作り続けていた人がいます」


調停官ユリス・グレンの言葉のあと、第二調停室はしばらく静かだった。

賢者リュシアン・ヴァルトは、机に並んだ三つの資料を見ていた。出征前の原式。戦地から送った竜脈観測報告。研究塔で三年間更新された改訂履歴。どれか一つだけなら、彼は迷わなかっただろう。

最終式を完成させたのは自分だ。魔王城地下で、竜脈が裂けるように歪む瞬間を見たのも自分だ。勇者アレクが剣を構え、聖女エリスが結界を張り、魔法使いミレーヌが魔力を撃ち込む中、古代結界の底で数値を読み取ったのも自分だ。

それは嘘ではない。

リュシアンは、本当に命を賭けていた。

だからこそ、彼は自分が完成させたのだと思っていた。

だが、机の上の改訂履歴には、彼のいない三年があった。

塔は止まっていなかった。

「私は」

リュシアンは、ゆっくり口を開いた。

「マリエルの貢献を軽んじたつもりはない」

マリエル・クラインは答えなかった。

その言葉を、彼女は予想していた。軽んじたつもりはない。悪意はなかった。感謝している。助かった。どれも、聞き慣れた言葉だった。

けれど、そのどれも創案者欄には届かなかった。

「謝辞欄に名を入れました」

リュシアンは続けた。

「研究塔を維持し、弟子を管理し、実験を続けたことへの感謝です。そこを消すつもりはありません」

「謝辞欄の話は確認しています」

ユリスは、登録申請書を示した。

「本日確認するのは、謝辞欄に置くべき貢献と、創案者欄に置くべき貢献の切り分けです」

リュシアンの目が細くなる。

「切り分け」

「はい」

ユリスは、資料を二つに分けた。

「研究塔の会計管理、弟子の食事手配、修繕費の支払い、炉心室の清掃。これらは重要ですが、それだけで創案者性を生むものではありません」

マリエルは、小さく頷いた。

それでいい。

彼女は、何もかもを研究成果として取り戻したいわけではない。塔を掃いた手まで、創案者欄に書けと言いたいのではない。

彼女が取り戻したいのは、式の中にある自分の一行だ。

「一方で」

ユリスは、第一仮説の草稿、安定化条件式、暴走停止記録を机の中央へ戻した。

「第一仮説、周期補正、逆流防止、炉心温度上昇時の安定化条件。これらは、完成式の構成要素として残っています」

リュシアンは黙っていた。

「賢者様」

ユリスは尋ねた。

「登録された完成式から、マリエル様の安定化条件式を除いた場合、術式は稼働しますか」

長い沈黙があった。

リュシアンの指が、黒い外套の袖口を押さえる。

「短時間なら」

「長期稼働では」

「不安定になる」

「大型魔力炉では」

リュシアンは、目を閉じた。

「暴走の危険がある」

「承知しました」

ユリスは書き込んだ。

「マリエル様の安定化条件式は、大型魔力炉での長期稼働に不可欠」

書記官リナ・フェルの羽根ペンが、紙の上を走る。

マリエルの喉の奥が、熱くなった。

不可欠。

その三文字が、三年間の夜に触れた。

炉心室の熱。弟子の叫び。焦げた袖。魔力炉が止まる直前の白い光。リュシアンから届く短い報告書。返信を書くために、震えた指を握り込んだ朝。

それらが、ようやく研究の言葉になった。

「しかし」

リュシアンは、まだ崩れなかった。

「最終収束式を書いたのは私です。戦地観測値を持ち帰ったのも私だ。マリエルの式だけでは、《竜脈安定式》は完成しなかった」

「その通りです」

ユリスは即答した。

リュシアンが、わずかに意外そうに顔を上げる。

「賢者様の戦地観測と最終収束式も、完成に不可欠です。ですから、本件はマリエル様単独の創案ではありません」

「では」

「共同創案です」

調停室の空気が、そこで変わった。

リュシアンの表情が固まる。

マリエルは、息を吸うのを忘れた。


共同創案。

その言葉を、彼女はずっと心の中で言えなかった。

自分で言えば、欲張りに聞こえる気がした。リュシアンの栄光に便乗しているように見える気がした。魔王討伐に行かなかった自分が、戦場を見た賢者と同じ欄に並ぼうとするのは、厚かましいのではないかと思った夜もある。

でも、研究ノートは知っていた。

あの式は、一人では立っていなかった。

「私は、あなたの名誉を奪いに来たのではありません」

マリエルは、静かに言った。

リュシアンの視線が、彼女へ向く。

「あなたが戦場で見たものを、私は見ていません。魔王城の地下で竜脈が裂ける瞬間も、聖女様の結界が割れる音も、ミレーヌ様の魔力が焼ける光も、私は知りません」

彼女は、古い研究ノートに触れた。

「でも、あなたがその報告を送ってきた時、塔にあった炉心へ入れ、燃えない形に直したのは私たちです」

リュシアンは、唇を結んだ。

「あなたは最後の鍵を持ち帰りました」

マリエルは言った。

「私は、その鍵で開く扉を、塔で作っていました」

ユリスは、少しだけ待った。

当事者が、自分の言葉で争点に届く瞬間を、調停官は急がせない。

マリエルは、登録申請書の謝辞欄を見た。

「私は、謝辞を求めているのではありません」

声は震えなかった。

震えないように、三年間、研究塔で炉心の音を聞いてきた声だった。


「私の名前を、謝辞欄ではなく、創案者欄へ戻してください」


リュシアンは、しばらく何も言わなかった。

彼の顔には、怒りも侮蔑もなかった。ただ、理解が遅れて届いている顔だった。

「私は」

リュシアンは、低く言った。

「塔が待っていたのだと思っていた」

マリエルの指が止まる。

「私が戻るまで、塔が、研究が、そのまま残っていたのだと」

彼は、三年分の改訂履歴を見た。

「違ったのだな」

その声は、とても小さかった。

「君が、塔を進めていた」

マリエルは、目を伏せた。

泣かなかった。泣けば、また補助者の感情に見える気がした。だから、泣かなかった。

ユリスは新しい用紙を出した。

「調停案を整理します」

リナが記録を準備する。

「一、王立魔導院への《竜脈安定式》単独登録申請を訂正する」

「二、創案者欄に、リュシアン・ヴァルト様、マリエル・クライン様の二名を記載する」

「三、成立記録として、戦地観測および最終収束式はリュシアン・ヴァルト様、第一仮説、周期補正、逆流防止、安定化条件式、塔内改訂はマリエル・クライン様と明記する」

「四、術式使用料、魔導具製造許諾料、王立魔導院講習料について、寄与割合に基づき配分を再計算する。割合については、魔導院鑑定部の評価を受ける」

「五、今後の講演、教本、登録簿写し、魔導具製造許諾書において、《竜脈安定式》をリュシアン様単独創案と表記しない」

「六、研究塔の実験日誌、戦地報告書、改訂履歴、暴走停止記録、弟子の署名入り実験記録を保全する。廃棄、改ざん、持ち出しを禁じる」

「七、マリエル様が独立した研究室を王立魔導院へ申請する場合、リュシアン様は《竜脈安定式》共同創案者としての証明書発行に協力する」

マリエルは、そこで初めてユリスを見た。

独立した研究室。

その言葉は、遠い。

けれど、紙に書かれた瞬間、遠いだけではなくなった。

彼女は、リュシアンの塔に戻ることしか考えていなかった。

戻って、訂正された記録を棚へ戻し、弟子たちに説明し、また炉心温度を測るのだと思っていた。

だが、自分の研究室を持つ道が、そこに書かれている。

謝辞欄では、申請できなかった。

創案者欄なら、申請できる。

名前の置き場所が、人生の行き先を変える。

「内容を確認の上、署名をお願いします」

ユリスは用紙を回した。

最初に署名したのは、リュシアンだった。

彼の字は美しかった。王立魔導院の講演録で何度も見た字。天才の証拠のように、迷いがない字。

だが、今日の最後の線だけは、ほんの少し重かった。

次に、マリエルが署名した。

マリエル・クライン。

彼女の字は、古い研究ノートと同じだった。少し右へ傾いた、読みやすい字。弟子たちが、何度もその字をなぞって式を覚えた字。

ユリスは双方の署名を確認し、押印した。

「調停成立です」

その言葉のあと、調停室の空気がゆっくり動いた。

リュシアンは、登録申請書を見ていた。

「マリエル」

彼は言った。

マリエルは、顔を上げる。

「謝辞欄に入れれば、君を軽んじていないことになると思っていた」

彼の声は、苦かった。

「違ったのですね」

「違いました」

マリエルは答えた。

それ以上は言わなかった。

責める言葉も、慰める言葉も、今は必要なかった。

名前は、移るべき欄へ移る。

それで十分だった。


後日。

王立魔導院の登録簿に、訂正紙が差し込まれた。

創案者。

リュシアン・ヴァルト。

マリエル・クライン。

成立記録。

戦地観測および最終収束式。

リュシアン・ヴァルト。

第一仮説、塔内改訂、安定化条件式。

マリエル・クライン。

弟子の一人が、その登録簿を見て、小さく息を吐いた。

「マリエル先生の名前が」

彼は、創案者欄の二行目を指でなぞりかけて、寸前で止めた。登録簿には触れてはいけない。けれど、そこにある文字を確かめたい気持ちだけは、止められなかったのだろう。

マリエルは、古い研究ノートを抱えていた。

革表紙の角は擦り切れ、頁の端には焦げ跡がある。弟子たちが写した式の線も、暴走事故の日に曲がった第二条件式も、その中に残っている。

それはもう、賢者の留守を守った記録ではなかった。

彼女の研究が、三年間、確かに進んでいた証明だった。

研究塔へ戻る廊下で、リュシアンは少しだけ先に立ち止まった。

「君は、塔に戻るのか」

マリエルは、王立魔導院の中庭を見た。

冬の光が、白い石畳に落ちている。

「戻ります」

彼女は言った。

「弟子たちに、登録が訂正されたことを伝えなければなりません」

リュシアンが頷く。

「その後は」

マリエルは、古いノートを抱え直した。

その重さは、昨日までと少し違っていた。

「自分の研究室を申請します」

リュシアンは、何も言わなかった。

ただ、初めてそれを当然のこととして聞いた顔をした。

マリエルは、焦げ跡の残る研究ノートを抱え直した。

その表紙には、今日から、誰かの留守を守った記録ではない重さがあった。

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