賢者の魔法式登録調停に同席しています 前編
「賢者様。出征前の式と、王立魔導院へ登録された式の差分を確認します」
王国中央家庭調停所、第二調停室。
ユリス・グレンがそう告げると、賢者リュシアン・ヴァルトは、片眉をわずかに上げた。
四十二歳。王立魔導院史上、最年少で賢者位を授けられた男。魔王討伐遠征では、勇者アレク、聖女エリス、魔法使いミレーヌたちと共に、魔王城の古代結界を解読した功労者である。
銀灰色の髪。長い指。黒い外套の胸元には、王立魔導院の徽章と、魔王討伐遠征章が並んでいる。
天才。
その言葉が、彼の周囲だけ少し温度を変えていた。
「差分、ですか」
リュシアンは、静かに言った。
「魔法式とは、最終的に完成された形で評価されるものです。途中の走り書きを拾い集めても、本質は見えません」
「本日は、その途中の走り書きが、完成式のどこに残っているかを確認します」
ユリスは、机の中央に三枚の羊皮紙を置いた。
一枚目。賢者リュシアンが魔王討伐へ出征する前に残した、《竜脈安定式》の原式。
二枚目。魔王戦役中、リュシアンが戦地から王都の研究塔へ送った竜脈観測報告。
三枚目。王立魔導院へ登録された、完成版《竜脈安定式》。
その横に、さらに厚い冊子が置かれる。
研究塔改訂履歴。三年分。
「こちらが、賢者様が出征された後、研究塔で更新された改訂履歴です」
リュシアンの視線が、そこで初めて動いた。
向かい側に座るマリエル・クラインは、背筋を伸ばしたまま、その冊子を見ていた。
三十九歳。王立魔導院の元研究員であり、リュシアンの研究塔で十年以上《竜脈安定式》の研究に携わってきた魔導師である。濃茶の髪を後ろでまとめ、飾り気のない灰色の外套を羽織っている。華やかな研究発表の場に立つ者というより、実験炉の前で朝を迎える者の姿だった。
左袖の端に、小さな焦げ跡がある。古いものだ。何度洗っても、そこだけ色が戻らなかった。
「申立人は、マリエル・クライン様」
ユリスは記録を確認する。
「王立魔導院への《竜脈安定式》登録について、創案者欄への追記、登録内容の訂正、術式使用料の配分、研究記録の保全を求めています」
「私は、彼女の貢献を否定していません」
リュシアンは、すぐに言った。
「登録申請書の謝辞欄にも、マリエルの名は入れています」
謝辞欄。
その言葉で、マリエルの指先が、膝の上で少しだけ折れた。怒りではない。怒りなら、もっと早く出せた。
彼女が最初に感じたのは、空白だった。
王立魔導院の登録申請書を見た日。創案者欄には、リュシアン・ヴァルトの名が一つだけあった。
その下。小さな文字で記された謝辞欄。
研究補助に尽力したマリエル・クライン女史へ感謝する。
そこに自分の名前を見つけた時、マリエルは一瞬、何を読んでいるのか分からなかった。名前は消されていない。ただ、置き場所が違った。
「謝辞欄に名前があることと、創案者欄に名前があることは別です」
ユリスは登録申請書を机に置いた。
「本日は、その置き場所を確認します」
「言い方が悪い」
リュシアンは、わずかに苦笑した。
「魔法式の完成者は私です。魔王城地下で竜脈が捩じれる瞬間を見たのは私だ。勇者も、聖女も、ミレーヌも、その場にいた。あの観測値がなければ、《竜脈安定式》は完成しなかった」
「記録します」
ユリスは頷いた。
「賢者様の戦地観測は、完成式に不可欠であるとの主張」
リュシアンの表情に、少しだけ当然だという色が戻る。
「では、次に確認します」
ユリスは研究塔改訂履歴を開いた。
「賢者様が魔王討伐へ出征されていた三年間、この式を更新していたのはどなたですか」
リュシアンの指が止まった。
「研究塔には、弟子たちがいた」
「弟子の名は記録にあります」
ユリスは頁をめくる。
「炉心測定、弟子ロアン。魔力量記録、弟子シェラ。温度修正、弟子ガイル。実験責任者欄、マリエル・クライン」
マリエルは、目を伏せなかった。
三年間。リュシアンは魔王城へ向かった。それは必要な旅だった。マリエルも、当時それを疑わなかった。
魔王城の地下にある竜脈異常を直接見る者が必要だった。古代結界を解読できる者が必要だった。リュシアン以上の適任者はいなかった。
だから、彼女は塔に残った。
朝、炉心温度を測った。
昼、弟子たちの記録を確認した。
夕方、戦地から届いた竜脈観測報告を読み、式へ反映した。
夜、暴走しかけた魔力炉の前で、安定化条件を一つずつ試した。
リュシアンが帰ってきた時、研究がまだ生きているように。
塔の火を、消さないように。
「こちらは、出征前の原式です」
ユリスは一枚目の羊皮紙を指した。
「こちらは、登録された完成式」
次に、三枚目を指す。
「差分は、大きく七箇所」
書記官リナ・フェルが、横で記録を取る音が続いた。
「第一、竜脈振動の周期補正」
「第二、外部魔力流入時の逆流防止」
「第三、炉心温度上昇時の安定化条件」
「第四、緊急遮断式」
「第五、魔力炉三基以上の連結時の負荷分散」
「第六、戦地観測値の反映」
「第七、最終収束式」
「第六と第七は私だ」
リュシアンは言った。
「戦地観測値を持ち帰ったのも、最終収束式を組み上げたのも、私です」
「確認します」
ユリスは頷いた。
「では、第一から第五までの改訂欄を見ます」
空気が変わった。
マリエルの指が、研究ノートの端に触れる。古い革表紙。角が擦り切れている。その表紙を、彼女は数えきれないほど開いてきた。
「第一、竜脈振動の周期補正。筆跡、マリエル様。弟子ロアンの測定値をもとに修正」
「第二、逆流防止。筆跡、マリエル様。戦地報告第二十七号への応答」
「第三、炉心温度上昇時の安定化条件。筆跡、マリエル様。暴走事故後、条件式を追加」
リュシアンの顔から、ほんの少し余裕が消えた。
「それは、途中の補助だ」
「途中であることは確認します」
ユリスは、紙から顔を上げた。
「ただし、途中で崩れていれば、完成式は存在しません」
マリエルの喉が、少しだけ熱くなった。
途中。
その言葉を、彼女はずっと飲んできた。途中の記録。途中の実験。途中の失敗。途中の修正。
完成発表の壇上では、途中は語られない。だが、研究は途中でできている。
「こちらは、第六実験日誌です」
ユリスは別の冊子を開いた。
「炉心温度、想定値を超過。リュシアン師より届いた戦地報告第三十一号を適用。主式、安定せず。マリエル師、第二条件式を挿入。暴走停止。弟子三名、軽度火傷」
リュシアンの目が、その文字を追った。
「同じ記録が、三度あります」
ユリスは、暴走記録を三枚並べた。
「塔が爆発を免れた記録です」
「爆発という表現は大げさだ」
リュシアンの声が硬くなる。
「研究塔の魔力炉は、実験炉だ。小規模な暴走は珍しくない」
「修繕費明細では、南側炉壁、観測室の窓、弟子用防護結界三枚が交換されています」
ユリスは修繕費明細を置く。
「珍しいかどうかではなく、損傷と停止理由を確認しています」
リュシアンは黙った。
マリエルは、あの日の熱を覚えていた。
炉心の青が白くなった。弟子の一人が叫んだ。リュシアンから届いた戦地報告には、魔王城地下の竜脈が、通常値の三倍近く歪んだ時の観測が記されていた。
それは貴重な報告だった。
だが、そのまま塔の炉心へ入れれば暴走した。彼女は、震える手で第二条件式を書いた。式の最後の線が曲がった。
それで、炉心の暴走は止まった。弟子たちが生きていた。
その夜、マリエルは机に突っ伏して眠った。
朝になって、リュシアンへの返信にこう書いた。
戦地観測値、条件なしでは不安定。
塔内実験により第二条件式を追加。
詳細は改訂履歴に記録。
返事は短かった。
よい。続けよ。
その時は、それでよかった。
研究が進んでいると思えたから。
「マリエル様」
ユリスは尋ねた。
「あなたは、研究塔の管理や弟子の世話を理由に創案者欄への記載を求めていますか」
「いいえ」
マリエルは答えた。
「弟子を寝かせたことも、修繕費を数えたことも、炉心室のすすを拭いたことも、創案者欄へ載せてほしいわけではありません」
リュシアンの視線が、彼女に向く。
マリエルは、古いノートを開いた。
最初の頁には、二つの筆跡があった。リュシアンの速く鋭い字。マリエルの整った、少し右へ傾いた字。
「この式の第一仮説を書いた時、私は助手ではありませんでした」
彼女は言った。
「まだ名前のない魔法を、同じ机で見ていた研究者でした」
調停室の空気が、静かに張り詰める。
マリエルは続けた。
「私は、あなたの旅に同行したかったのではありません」
リュシアンの目が、わずかに揺れた。
「あなたが戻った時、この研究がまだ生きているように、塔に残りました」
彼女は、登録申請書の謝辞欄を見た。
「それを、謝辞欄に置かないでください」
リュシアンは何も言わなかった。
ユリスは、謝辞欄と暴走記録を並べる。
「賢者様」
彼は、静かに言った。
「あなたは旅から、最後の鍵を持ち帰りました」
戦地報告書が、机の中央に置かれる。魔王城地下の竜脈観測。リュシアンの筆跡。血が滲んだ跡のある羊皮紙。
次に、ユリスは三年分の研究塔改訂履歴を置いた。マリエルの筆跡で埋まった頁。弟子たちの署名。炉心温度。暴走停止。条件追加。再実験。
「ですが」
ユリスは言った。
「その鍵で開く扉を、塔で作り続けていた人がいます」




