妹に婚約者を奪われた件の婚約変更調停に同席しています 後編
「名前を消したなど、人聞きの悪い」
ベルフォード伯爵夫人の声は、少し震えていた。怒りなのか、動揺なのか。本人にも分かっていないようだった。
「家の婚礼を整え直しただけです。同じベルフォード家の娘が嫁ぐのですから、何もかも白紙にする必要はないでしょう」
「整え直した結果、誰の名前が消えたのかを確認しています」
ユリス・グレンは、訂正済みの婚礼招待状を閉じなかった。
元の控えには、クラリッサ・フォン・ベルフォード。訂正後の控えには、ミリア・フォン・ベルフォード。
同じ日付。同じ会場。同じ相手家。違う名前。その一行の差だけで、調停室の空気は重かった。
「クラリッサ様」
ユリスは、訂正済みの招待状を机の中央に置いた。
「本件で、最も記録に残したいことは何ですか」
クラリッサは、訂正済みの招待状を見た。そこには、もう自分の名前がなかった。
「私が、妹へ譲ったことにしないでください」
調停室の空気が止まった。
伯爵夫人の扇が、膝の上で小さく音を立てる。
「婚約は終わります。それは受け入れます。けれど、私は譲っていません。黙っていただけです。泣かなかっただけです。家のためだと言われるたびに、反論する場所を失っていただけです」
クラリッサの白い手袋の指先が、紙の端を押さえた。
「十五歳で婚約が決まった時、私は初めて、自分の名前で出ていく場所ができたと思いました」
伯爵が顔を上げた。
「クラリッサ」
「誰かの姉ではなく、誰かの代わりでもなく、クラリッサ・フォン・ベルフォードとして嫁ぐ場所です」
声は震えなかった。震えないように、二十三年かけて覚えてきた声だった。
「それを、二十三歳になった今、妹の名前に書き換えられました」
伯爵夫人が何か言いかける。クラリッサは、初めてそれを待たなかった。
「私の名前を消した婚礼に、私を使わないでください」
その一言に、ミリアの涙が止まった。
伯爵の表情が変わる。アルベルトの顔から、血の気が引く。伯爵夫人の扇が、完全に止まる。
誰もが、今さら気づいた顔だった。
招待状の訂正。
侯爵家への説明文。
席次表。
贈答品の宛名。
衣装箱の管理。
ミリアの礼法。
侯爵夫人への挨拶。
それらを、誰が整えるつもりだったのか。家族全員が、心のどこかで分かっていた。
クラリッサだ。婚約者を失った姉に、妹の婚礼の後始末をさせるつもりだった。
「私は、アルベルト様を返してほしいのではありません」
クラリッサは言った。
「ミリアの婚礼を、私の手で整えさせないでください」
「あなたは姉でしょう」
伯爵夫人は、反射のように言った。
「ミリアは、こういう場に耐えられる子ではありません。侯爵家への説明だって、あなたが一番よく分かっているでしょう。今さら全部投げ出すなんて」
「はい」
クラリッサは頷いた。
「二十三年、そうでした」
伯爵夫人が、息を止める。
「聞き分けがよいと言われるたびに、私の分だけ減りました。ミリアが泣くたびに、私は黙りました。けれど、私が黙っていた時間は、妹への贈り物ではありません」
ミリアの目から、また涙がこぼれた。クラリッサは、その涙を見ても、ハンカチを出さなかった。
「ミリア」
彼女は妹を見た。
「あなたが泣くたびに、私は黙りました。でも、私の沈黙は、あなたの支度金ではありません」
ミリアは両手で口元を覆った。
伯爵が、低い声で言った。
「クラリッサ。お前は家を壊したいのか」
「違います」
ユリスが答えた。
伯爵の視線が、調停官へ向く。
「本日確認しているのは、家を壊すかどうかではありません。クラリッサ様個人の名義、私物、部屋、婚礼準備金、労務を、本人の同意なく使えるかどうかです」
「労務?」
「婚礼準備に関する作業です」
ユリスは、招待状の訂正控えを指で押さえた。
「侯爵家への説明文作成。席次表の修正。招待客への再通知。贈答品の宛名確認。ミリア様の礼法補助。いずれも、クラリッサ様に求める予定でしたか」
伯爵は答えなかった。伯爵夫人も、ミリアも、アルベルトも。その沈黙が、答えだった。
「記録します」
ユリスは羽根ペンを取った。
「婚礼変更に伴う実務を、クラリッサ様へ依頼する予定があった。ただし、対価、同意書、依頼書は存在しない」
「そこまで書くのか」
伯爵の声が硬くなる。
「そこまであったからです」
ユリスは淡々と返した。
「家族のお願いは記録します。ですが、本人の労務提供の同意書にはなりません」
伯爵夫人が震える声で言った。
「クラリッサは、昔はそんなふうに線を引く子ではありませんでした」
クラリッサは母を見た。
「線を引かなかったのではありません」
彼女は、ゆっくり言った。
「引く線を、持っていませんでした」
調停室が静まり返る。
ユリスは、少しだけ待った。調停は、当事者の沈黙も記録する。逃げ道がなくなった時、人は初めて、自分の言葉が誰に何をしていたかを見る。
「では、被害項目と調停条項を整理します」
ユリスは新しい用紙を出した。
「一、クラリッサ様とアルベルト様の婚約解消は成立」
「二、クラリッサ様がミリア様へ婚約者を譲渡した事実はない、と確認します。今後、伯爵家、レイン侯爵家、その他関係者は『姉の祝福による変更』『姉が譲った婚約』等の表現を使用しない」
「三、嫁入り支度の返還。返還不能分は評価額で弁償」
「四、クラリッサ様の婚礼衣装三着は、ミリア様の寸法へ仕立て直し済みのため返還不能。仕立て直し前の評価額で弁償」
「五、婚約宝飾品はクラリッサ様へ返還。使用済み、加工済み、紛失分は評価額で弁償」
ミリアの肩が震えた。胸元の真珠飾りに手をかける。外す指も震えている。
「お姉様」
ミリアは、真珠飾りを両手で包んだ。
「私、知らなかったのです。本当に、全部、お姉様が許してくださっていると」
クラリッサは妹を見た。
「ミリア」
その声は、優しくも冷たくもなかった。
「知らなかったことと、返さなくてよいことは違います」
ミリアの涙が、今度こそこぼれた。クラリッサはハンカチを出さなかった。
伯爵夫人が反射的に手を伸ばしかけたが、途中で止めた。ミリアは、自分の手で涙を拭いた。
ユリスは続ける。
「六、クラリッサ様の支度部屋の退去通知を撤回。すでに使用不能の場合は、代替住居費を伯爵家が負担」
「七、クラリッサ様の婚礼準備金、衣装、宝飾品、私物、部屋を今後移動する場合、本人の書面同意を必要とする」
「八、ベルフォード伯爵家およびレイン侯爵家は、クラリッサ様の社交上の名誉回復文書を連名で作成する」
「九、クラリッサ様は、ミリア様とアルベルト様の婚礼準備、招待状訂正、侯爵家への説明、席次表作成、贈答品調整、礼法補助その他関連業務から外れる」
伯爵夫人が、そこで顔を上げた。
「待って」
声が、初めて揺れた。
「それでは、誰が侯爵家へ説明するの。ミリアはまだ社交の場に慣れていないのよ。クラリッサ、せめて訂正文だけは見てちょうだい。あなたが一番よく分かっているでしょう」
クラリッサは、訂正済みの招待状を見た。自分の名前が消えた紙。その紙を、自分の手で美しく整えろと言われている。
胸の奥で、何かが静かに切れた。
「見ません」
初めてだった。
クラリッサが、家族の前で、短く断ったのは。
「私の名前を消した招待状です。私が直すものではありません」
伯爵夫人は、言葉を失った。
ユリスは九項目目に追記する。
「本件婚礼準備からクラリッサ様を除外する。今後、同業務を依頼する場合は、本人の自由意思による別契約とし、対価を定める」
書記官リナの羽根ペンが、紙の上を走る。家族のお願いが、契約書の言葉に変わっていく。
それは冷たいようで、クラリッサには初めて暖かかった。お願いという名の命令から、逃げられる形をしていたからだ。
「アルベルト様」
ユリスは視線を向けた。
「本調停案に同意されますか」
アルベルトは、しばらくクラリッサを見ていた。
「私は」
彼はかすれた声で言った。
「クラリッサなら、分かってくれると思っていた」
「その認識は記録します」
ユリスは言った。
「ですが、分かってくれることと、使ってよいことは別です」
アルベルトは目を伏せた。
「同意します」
署名は、順に行われた。
アルベルト。ベルフォード伯爵。伯爵夫人。ミリア。クラリッサ。
クラリッサの字は、まっすぐだった。乱れていない。乱れていないことが、これまでどれだけ乱れることを許されなかったかを物語っていた。
ユリスは調停調書を確認し、押印した。
「調停成立です」
ミリアは、真珠飾りを机に置いた。伯爵夫人は扇を拾わなかった。伯爵は、婚礼準備業務からの除外条項を見つめていた。アルベルトは、訂正済みの招待状を見ていた。
クラリッサは書類箱を閉じる。箱の中に、婚礼衣装は入っていない。真珠飾りもない。レイン侯爵家への席次表も、招待状の訂正控えもない。
入っているのは、調停調書の写しだけだった。代替住居費、返還不能品の評価額、名誉回復文書の作成期限、本件婚礼準備からの除外条項。そして、最後の欄に、消されなかった名前。
クラリッサ・フォン・ベルフォード。
調停室の扉を開けると、廊下の窓から午後の光が差していた。
家へ戻れば、まだ荷物はある。説明しなければならないこともある。失ったものは、戻らない。
けれど、もう妹の婚礼の招待状を直す必要はなかった。母の扇の音に振り返る必要もなかった。父の「家のためだ」に頷く必要もなかった。ミリアの涙に、自分の予定を差し出す必要もなかった。
クラリッサは、胸元の小さな名札を握った。
外された名札。机の上に置かれた名札。誰かが外した、自分の名前。彼女はそれを、書類箱の奥ではなく、手の中に持った。
王国中央家庭調停所の廊下を、クラリッサは一人で歩き出した。
嫁ぐためではない。譲るためでもない。
自分の名前を、自分で持っていくために。




