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勇者パーティの離婚調停に同席しています〜異世界家庭裁判所の調停官〜  作者: あゆと


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8/10

妹に婚約者を奪われた件の婚約変更調停に同席しています 後編

「名前を消したなど、人聞きの悪い」


 ベルフォード伯爵夫人の声は、少し震えていた。怒りなのか、動揺なのか。本人にも分かっていないようだった。


「家の婚礼を整え直しただけです。同じベルフォード家の娘が嫁ぐのですから、何もかも白紙にする必要はないでしょう」

「整え直した結果、誰の名前が消えたのかを確認しています」


 ユリス・グレンは、訂正済みの婚礼招待状を閉じなかった。


 元の控えには、クラリッサ・フォン・ベルフォード。訂正後の控えには、ミリア・フォン・ベルフォード。

 同じ日付。同じ会場。同じ相手家。違う名前。その一行の差だけで、調停室の空気は重かった。


「クラリッサ様」


 ユリスは、訂正済みの招待状を机の中央に置いた。


「本件で、最も記録に残したいことは何ですか」


 クラリッサは、訂正済みの招待状を見た。そこには、もう自分の名前がなかった。


「私が、妹へ譲ったことにしないでください」


 調停室の空気が止まった。


 伯爵夫人の扇が、膝の上で小さく音を立てる。


「婚約は終わります。それは受け入れます。けれど、私は譲っていません。黙っていただけです。泣かなかっただけです。家のためだと言われるたびに、反論する場所を失っていただけです」


 クラリッサの白い手袋の指先が、紙の端を押さえた。


「十五歳で婚約が決まった時、私は初めて、自分の名前で出ていく場所ができたと思いました」


 伯爵が顔を上げた。


「クラリッサ」

「誰かの姉ではなく、誰かの代わりでもなく、クラリッサ・フォン・ベルフォードとして嫁ぐ場所です」


 声は震えなかった。震えないように、二十三年かけて覚えてきた声だった。


「それを、二十三歳になった今、妹の名前に書き換えられました」


 伯爵夫人が何か言いかける。クラリッサは、初めてそれを待たなかった。


「私の名前を消した婚礼に、私を使わないでください」


 その一言に、ミリアの涙が止まった。


 伯爵の表情が変わる。アルベルトの顔から、血の気が引く。伯爵夫人の扇が、完全に止まる。

 誰もが、今さら気づいた顔だった。


 招待状の訂正。

 侯爵家への説明文。

 席次表。

 贈答品の宛名。

 衣装箱の管理。

 ミリアの礼法。

 侯爵夫人への挨拶。


 それらを、誰が整えるつもりだったのか。家族全員が、心のどこかで分かっていた。

 クラリッサだ。婚約者を失った姉に、妹の婚礼の後始末をさせるつもりだった。


「私は、アルベルト様を返してほしいのではありません」


 クラリッサは言った。


「ミリアの婚礼を、私の手で整えさせないでください」

「あなたは姉でしょう」


 伯爵夫人は、反射のように言った。


「ミリアは、こういう場に耐えられる子ではありません。侯爵家への説明だって、あなたが一番よく分かっているでしょう。今さら全部投げ出すなんて」

「はい」


 クラリッサは頷いた。


「二十三年、そうでした」


 伯爵夫人が、息を止める。


「聞き分けがよいと言われるたびに、私の分だけ減りました。ミリアが泣くたびに、私は黙りました。けれど、私が黙っていた時間は、妹への贈り物ではありません」


 ミリアの目から、また涙がこぼれた。クラリッサは、その涙を見ても、ハンカチを出さなかった。


「ミリア」


 彼女は妹を見た。


「あなたが泣くたびに、私は黙りました。でも、私の沈黙は、あなたの支度金ではありません」


 ミリアは両手で口元を覆った。


 伯爵が、低い声で言った。


「クラリッサ。お前は家を壊したいのか」

「違います」


 ユリスが答えた。


 伯爵の視線が、調停官へ向く。


「本日確認しているのは、家を壊すかどうかではありません。クラリッサ様個人の名義、私物、部屋、婚礼準備金、労務を、本人の同意なく使えるかどうかです」

「労務?」

「婚礼準備に関する作業です」


 ユリスは、招待状の訂正控えを指で押さえた。


「侯爵家への説明文作成。席次表の修正。招待客への再通知。贈答品の宛名確認。ミリア様の礼法補助。いずれも、クラリッサ様に求める予定でしたか」


 伯爵は答えなかった。伯爵夫人も、ミリアも、アルベルトも。その沈黙が、答えだった。


「記録します」


 ユリスは羽根ペンを取った。


「婚礼変更に伴う実務を、クラリッサ様へ依頼する予定があった。ただし、対価、同意書、依頼書は存在しない」

「そこまで書くのか」


 伯爵の声が硬くなる。


「そこまであったからです」


 ユリスは淡々と返した。


「家族のお願いは記録します。ですが、本人の労務提供の同意書にはなりません」


 伯爵夫人が震える声で言った。


「クラリッサは、昔はそんなふうに線を引く子ではありませんでした」


 クラリッサは母を見た。


「線を引かなかったのではありません」


 彼女は、ゆっくり言った。


「引く線を、持っていませんでした」


 調停室が静まり返る。


 ユリスは、少しだけ待った。調停は、当事者の沈黙も記録する。逃げ道がなくなった時、人は初めて、自分の言葉が誰に何をしていたかを見る。


「では、被害項目と調停条項を整理します」


 ユリスは新しい用紙を出した。


「一、クラリッサ様とアルベルト様の婚約解消は成立」

「二、クラリッサ様がミリア様へ婚約者を譲渡した事実はない、と確認します。今後、伯爵家、レイン侯爵家、その他関係者は『姉の祝福による変更』『姉が譲った婚約』等の表現を使用しない」

「三、嫁入り支度の返還。返還不能分は評価額で弁償」

「四、クラリッサ様の婚礼衣装三着は、ミリア様の寸法へ仕立て直し済みのため返還不能。仕立て直し前の評価額で弁償」

「五、婚約宝飾品はクラリッサ様へ返還。使用済み、加工済み、紛失分は評価額で弁償」


 ミリアの肩が震えた。胸元の真珠飾りに手をかける。外す指も震えている。


「お姉様」


 ミリアは、真珠飾りを両手で包んだ。


「私、知らなかったのです。本当に、全部、お姉様が許してくださっていると」


 クラリッサは妹を見た。


「ミリア」


 その声は、優しくも冷たくもなかった。


「知らなかったことと、返さなくてよいことは違います」


 ミリアの涙が、今度こそこぼれた。クラリッサはハンカチを出さなかった。

 伯爵夫人が反射的に手を伸ばしかけたが、途中で止めた。ミリアは、自分の手で涙を拭いた。


 ユリスは続ける。


「六、クラリッサ様の支度部屋の退去通知を撤回。すでに使用不能の場合は、代替住居費を伯爵家が負担」

「七、クラリッサ様の婚礼準備金、衣装、宝飾品、私物、部屋を今後移動する場合、本人の書面同意を必要とする」

「八、ベルフォード伯爵家およびレイン侯爵家は、クラリッサ様の社交上の名誉回復文書を連名で作成する」

「九、クラリッサ様は、ミリア様とアルベルト様の婚礼準備、招待状訂正、侯爵家への説明、席次表作成、贈答品調整、礼法補助その他関連業務から外れる」


 伯爵夫人が、そこで顔を上げた。


「待って」


 声が、初めて揺れた。


「それでは、誰が侯爵家へ説明するの。ミリアはまだ社交の場に慣れていないのよ。クラリッサ、せめて訂正文だけは見てちょうだい。あなたが一番よく分かっているでしょう」


 クラリッサは、訂正済みの招待状を見た。自分の名前が消えた紙。その紙を、自分の手で美しく整えろと言われている。

 胸の奥で、何かが静かに切れた。


「見ません」


 初めてだった。


 クラリッサが、家族の前で、短く断ったのは。


「私の名前を消した招待状です。私が直すものではありません」


 伯爵夫人は、言葉を失った。


 ユリスは九項目目に追記する。


「本件婚礼準備からクラリッサ様を除外する。今後、同業務を依頼する場合は、本人の自由意思による別契約とし、対価を定める」


 書記官リナの羽根ペンが、紙の上を走る。家族のお願いが、契約書の言葉に変わっていく。

 それは冷たいようで、クラリッサには初めて暖かかった。お願いという名の命令から、逃げられる形をしていたからだ。


「アルベルト様」


 ユリスは視線を向けた。


「本調停案に同意されますか」


 アルベルトは、しばらくクラリッサを見ていた。


「私は」


 彼はかすれた声で言った。


「クラリッサなら、分かってくれると思っていた」

「その認識は記録します」


 ユリスは言った。


「ですが、分かってくれることと、使ってよいことは別です」


 アルベルトは目を伏せた。


「同意します」


 署名は、順に行われた。

 アルベルト。ベルフォード伯爵。伯爵夫人。ミリア。クラリッサ。


 クラリッサの字は、まっすぐだった。乱れていない。乱れていないことが、これまでどれだけ乱れることを許されなかったかを物語っていた。


 ユリスは調停調書を確認し、押印した。


「調停成立です」


 ミリアは、真珠飾りを机に置いた。伯爵夫人は扇を拾わなかった。伯爵は、婚礼準備業務からの除外条項を見つめていた。アルベルトは、訂正済みの招待状を見ていた。


 クラリッサは書類箱を閉じる。箱の中に、婚礼衣装は入っていない。真珠飾りもない。レイン侯爵家への席次表も、招待状の訂正控えもない。

 入っているのは、調停調書の写しだけだった。代替住居費、返還不能品の評価額、名誉回復文書の作成期限、本件婚礼準備からの除外条項。そして、最後の欄に、消されなかった名前。


 クラリッサ・フォン・ベルフォード。


 調停室の扉を開けると、廊下の窓から午後の光が差していた。


 家へ戻れば、まだ荷物はある。説明しなければならないこともある。失ったものは、戻らない。

 けれど、もう妹の婚礼の招待状を直す必要はなかった。母の扇の音に振り返る必要もなかった。父の「家のためだ」に頷く必要もなかった。ミリアの涙に、自分の予定を差し出す必要もなかった。


 クラリッサは、胸元の小さな名札を握った。

 外された名札。机の上に置かれた名札。誰かが外した、自分の名前。彼女はそれを、書類箱の奥ではなく、手の中に持った。


 王国中央家庭調停所の廊下を、クラリッサは一人で歩き出した。


 嫁ぐためではない。譲るためでもない。




 自分の名前を、自分で持っていくために。

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