残滓
――数日前。深夜一時すぎ、十三の裏通り。
カラオケビルの裏手、ネオンの届かない駐車スペース。生乾きの臭い、ゴミ袋の山。街が隠している“本性”が、ここは剥き出しになっていた。
小野原千里が立っていた。フードを深く被り、無言のままスマホの画面を見下ろしている。左手のポケットには潰れた煙草の箱。吸う気はない。ただ、そこにあることで、落ち着きを保っていた。
――足音。革靴の、静かな足音。まるでこの街を踏み鳴らすのではなく、“滑るように”歩く音。
「よう来たな、小野原」
暗がりから現れた男。細身のスーツに、冷えた目。
神谷才だった。
小野原は一歩だけ前に出る。
「……よう呼びだせたな殺人犯、まだ借りは返してへん。なんやったら今ここで、やったってもええねんぞ」
才は笑った。唇だけで。目はまるで笑っていない。
何も言わずに、内ポケットから白い封筒を取り出す。表には何の文字も記されていない。ただの紙切れ。だがそれを差し出すこともなく、才は軽く掲げて言った。
「これはな、“どの位置から京志を見るか”を選ぶための、切符や」
小野原の表情は動かない。数秒だけ、風がないのにフードが揺れたように見えた。
「俺は裏切ったんちゃう。先に進んだだけや。お前も分かってるやろ。あの街にはもう“居場所”なんか、残ってへんって」
沈黙。数秒の、長い沈黙。小野原が一歩、後ろに下がる。
「……そっちの話は、もうええわ。帰るで」
その背を向けた瞬間、才が小さく口を開いた。
「だったらなんで来たんや? 素直に耳貸せや」
小野原の足が止まる。だが振り向かない。才が近づく。ゆっくりと。足音はない。呼吸だけが、
やけに耳に響く。才は、小野原の耳元で何かを囁いた。その内容は、誰にも聞こえなかった。
だが、囁き終えた直後、小野原の目がわずかに見開かれた。
一瞬の沈黙。
そして――
「……チッ」
吐き捨てるように舌打ちし、小野原は歩き出した。振り返らないまま、ネオンのほうへと消えていく。
才はその場に立ち尽くす。封筒は渡されなかった。けれど、それでもどこか“勝者の顔”をしていた。
小野原は、路地を抜けたところでようやく煙草を取り出した。
折れた一本を咥える。だが、火は――つけなかった。




