尊厳
廃倉庫の中は、相変わらずオイルとカビの臭いが充満していた。
手持ち無沙汰にたむろしているが、誰も口を開かない。全員、何かが起きるのを待っている。その苛立ちだけが蔓延していた。
ダンッ、と入り口の鉄扉が乱暴に開いた。
全員の目が向く。
「……ッ、はぁ、はぁ……」
江藤だった。
いつもの軽口は叩かない。パーカーは泥まみれで、顔面は鼻水と涙でぐしゃぐしゃだ。足がもつれ、そのままコンクリの床にへたり込んだ。
「おい、江藤」
春也がすぐに寄る。
「どないした」
江藤は床を叩いた。子供みたいな癇癪だった。
「……ちゃぐちゃや。全部、やられた」
「なんやと?」
「姉ちゃんの店……めちゃくちゃにされたんや……!」
倉庫内がざわつく。
「不可侵協定なんて、もうあってないようなもんやな……」
一平が呟く。
江藤が頷く代わりに、嗚咽を漏らす。
「姉ちゃん、あんなことされても『誰にも言うな』って……また直したらええ、暴力はいかんって……」
江藤は汚れた袖で顔をこすった。
「俺だって……喧嘩なんかしたくない……」
誰も口を挟めない。江藤の声だけが響く。
「でもあいつら、土足で上がり込んできて……姉ちゃんのどて焼き、笑いながら踏み潰しよったんやぞ……!」
江藤が顔を上げた。目が血走っている。
「なぁ……これでも我慢せなあかんのか? 向こうは話す気なんかハナからないのに……これでも俺は、黙ってなきゃいかんのか!?」
正論も理想も、今の江藤には残酷すぎた。
誰も何も言えない。沈黙が痛い。
その時だった。倉庫の錆びついた鉄扉が、ギイィ……と軋みながら開く。乾いた足音が、静かに床を踏む。
作業着の上にジャケットを羽織った男。
御影アキラだった。
「アキラさん……」
近藤が素っ頓狂な声を上げた。
元・闇天狗の連中が、弾かれたように立ち上がる。
「お疲れ様です……!」
条件反射のように近藤が頭を下げる。
アキラは片手を軽く挙げただけだ。かつてのギラついた威圧感はない。ただの疲れた大人の顔をしている。
「堅苦しいのはええ。俺はもう、“頭”やない」
その声は柔らかかった。けれど、どこか遠くにあった。
アキラの目が、倉庫内をゆっくりと見渡す。
若く、真っすぐな目をした少年たち。そこにはかつての暖かかった頃の闇天狗と同じものがあった。
「久しぶりやな」
普通のトーンだ。それが逆に、場違いなほどリアルだった。
だが、小野原が突っかかる。
「今さら、何しに来たんすか」
「小野原さん!」
近藤が止めるが、小野原はアキラから目を逸らさない。
「あんたがおらん間に……チームがどうなったか、猛さんがどうなったか知ってんすか」
空気が凍る。竜が拳を握る。
アキラは言い返さなかった。
「……すまん」
短く言った。
「言い訳はせん。俺のせいや」
頭を下げるかつての頭に、小野原は拳を握りしめ押し黙る。
アキラは一度大きく息を吐くと、京志の方を見た。
「ここに来たんは、詫びるためだけやない。今回の一連の無道の動き……才や。神谷才が絡んどる」
名前が出た瞬間、春也の顔色が変わった。
「才が……? あいつ、まだ……」
「それも、今回は親父もセットでや」
「親父?」
「南雲一家の三崎邦親や」
「……本職やないか」
間柴が呻くように言った。
一気に現実味がのしかかる。不良の喧嘩の範疇を超えていた。
アキラはそこで、床に座り込んでいる江藤に気づいたように歩み寄った。
江藤の目の前でしゃがみ込む。
「……姉ちゃんの言う通りや。言葉で済むならそれがええ」
江藤が鼻をすする。アキラは淡々と続けた。
「せやけどな、姉ちゃんがされたこと、それはもう人間扱いされてへんのと同じとちゃうか」
「……」
「立ち上がらなあかん時がある。これ以上大事なもん奪われんように……」
アキラは立ち上がり、遠くを見ながらポケットに手を突っ込んだ。
「偉そうなことは言えんけどな……」
アキラの拳が硬くなるのが分かった。初めて会う男なのに大きな後悔と迷いを背負っていることが伝わる。江藤はしばらく床を見ていたが、やがて乱暴に涙を拭って立ち上がった。
顔つきが変わっている。
「あの店は、俺らが『普通』でいられる場所やった。ただ笑える場所を姉ちゃんは作ろうとしてたんや……」
江藤が、拳を握りしめる。
それを見て、春也が一歩前に出た。
「もうこれ以上、この街で人が死ぬんはみたないで」
アキラは深く頷き、竜を見据えた。
「俺は、もう後悔したない」
京志が短く息を吐いた。
「……奴らを、止めよう」
奇妙な静けさだった。
高揚感はない。ただ、やるべきことが決まった男たちの、乾いた覚悟だけがそこにあった。




