弁髪
国道26号線。西成の臓腑を縦に裂くそのアスファルトは、今夜、かつてないほど冷たく乾いていた。
信号が赤から青へ変わる。
数台の黒いハイエースが、無機質な機械音を立てて東から西へと境界を越えた。
「釜ヶ谷」の毒が、静かに、しかし確実に「西成」の深部へと流れ込む。
ガード下。赤提灯が夜風に揺れ、煤けた暖簾の奥からは、煮込まれた味噌の甘い香りが漂っていた。
江藤の姉は、客のいなくなった店内で、使い古された布巾を動かしていた。
鉄鍋の中で、黄金色のどて焼きが静かに爆ぜる。
この街の「平穏」を象徴する、慎ましい音だった。
ガララ、と建て付けの悪い引き戸が悲鳴を上げる。
入ってきたのは、黒いパーカーに目出し帽、労働の汗を知らぬ、清潔で空虚な男たちだった。
彼らの手には、この場所に最も似つかわしくない、真新しい金属バットが握られている。
「……何や、あんたら。もう終わりやで」
姉の声は、まだ凪いでいた。
だが、男たちは答えず、左右に割れた。
その奥から、一人の男がゆっくりと姿を現す。
細身のスーツ。揺れる弁髪。
この煤けた店にはあまりに不釣り合いな、洗練された靴音。
男は店内をぐるりと見回し、鼻をつまむ仕草をする。
「くっさいねぇ……貧乏人どもの溜まり場は」
乾いた声だった。
姉が異変を感じて身構える。
「あんた、誰や……」
返ってきたのは、言葉ではない。
先頭の男が、無造作にバットを振り下ろした。
パリン、と薄い硝子が砕け、棚に並んでいた安物のグラスが、煌めく破片となってカウンターに降り注ぐ。
「なんで……! なにすんねんあんたら!」
一人が、店の中心にある鉄鍋に歩み寄る。
西成の数多の胃袋を満たしてきた、あの熱い鍋だ。
男は、それを蹴り飛ばした。
重い金属音が響き、鍋が床を滑る。
溢れ出した煮汁。
床一面を、ドロドロとした褐色の泥が汚していく。
「やめろ! うちの店や!」
江藤の姉が、入り口で冷ややかに見下ろしている弁髪の男に飛び掛かる。
だが、男は眉一つ動かさず、まるで羽虫でも払うかのように無造作に片手で突き飛ばした。
姉の体はあまりにあっけなく宙を舞い、木製の椅子と共に乾いた音を立てて転がった。
それを見て満足したように弁髪の男は、泥のようになった床のどて焼きを、鏡面のように光る革靴が触れないように跨ぎ、店を出ていく。
立ち込める味噌の香りが、踏み躙られたプライドのように無惨に混ざり合う。
姉の目は、恐怖ではなく、ただ圧倒的な「虚無」を見つめていた。
女一人で立ち上げ、やっと染み付いてきた壁の油の匂いも、地元の人が笑い転げた椅子も、心を埋め合ったもの全てが、紙屑のように解体されていく。
その後、数分間男たちは一言も発さず、壊すという「作業」を終え、近くに停めていたハイエースに飛び込んでさっていった。
再び静寂が訪れる。
残されたのは、ひっくり返った椅子と、泥水のように広がるどて焼きの成れの果てだけだ。
姉は、震える手で、割れた皿の破片を拾い上げた。
指先に赤い血が滲む。
その熱さだけが、失われた日常の最後の名残だった。




