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血環 ー西成ハグレモノー  作者: 京田 学
最終章 西成決戦
134/149

弁髪

国道26号線。西成の臓腑を縦に裂くそのアスファルトは、今夜、かつてないほど冷たく乾いていた。

信号が赤から青へ変わる。

数台の黒いハイエースが、無機質な機械音を立てて東から西へと境界を越えた。

「釜ヶ谷」の毒が、静かに、しかし確実に「西成」の深部へと流れ込む。


ガード下。赤提灯が夜風に揺れ、煤けた暖簾の奥からは、煮込まれた味噌の甘い香りが漂っていた。

江藤の姉は、客のいなくなった店内で、使い古された布巾を動かしていた。

鉄鍋の中で、黄金色のどて焼きが静かに爆ぜる。

この街の「平穏」を象徴する、慎ましい音だった。


ガララ、と建て付けの悪い引き戸が悲鳴を上げる。

入ってきたのは、黒いパーカーに目出し帽、労働の汗を知らぬ、清潔で空虚な男たちだった。

彼らの手には、この場所に最も似つかわしくない、真新しい金属バットが握られている。


「……何や、あんたら。もう終わりやで」


姉の声は、まだ凪いでいた。


だが、男たちは答えず、左右に割れた。

その奥から、一人の男がゆっくりと姿を現す。

細身のスーツ。揺れる弁髪。

この煤けた店にはあまりに不釣り合いな、洗練された靴音。

男は店内をぐるりと見回し、鼻をつまむ仕草をする。


「くっさいねぇ……貧乏人どもの溜まり場は」


乾いた声だった。

姉が異変を感じて身構える。


「あんた、誰や……」


返ってきたのは、言葉ではない。

先頭の男が、無造作にバットを振り下ろした。

パリン、と薄い硝子が砕け、棚に並んでいた安物のグラスが、煌めく破片となってカウンターに降り注ぐ。


「なんで……! なにすんねんあんたら!」


一人が、店の中心にある鉄鍋に歩み寄る。

西成の数多の胃袋を満たしてきた、あの熱い鍋だ。

男は、それを蹴り飛ばした。

重い金属音が響き、鍋が床を滑る。

溢れ出した煮汁。

床一面を、ドロドロとした褐色の泥が汚していく。


「やめろ! うちの店や!」


江藤の姉が、入り口で冷ややかに見下ろしている弁髪の男に飛び掛かる。

だが、男は眉一つ動かさず、まるで羽虫でも払うかのように無造作に片手で突き飛ばした。

姉の体はあまりにあっけなく宙を舞い、木製の椅子と共に乾いた音を立てて転がった。

それを見て満足したように弁髪の男は、泥のようになった床のどて焼きを、鏡面のように光る革靴が触れないように跨ぎ、店を出ていく。


立ち込める味噌の香りが、踏み躙られたプライドのように無惨に混ざり合う。

姉の目は、恐怖ではなく、ただ圧倒的な「虚無」を見つめていた。

女一人で立ち上げ、やっと染み付いてきた壁の油の匂いも、地元の人が笑い転げた椅子も、心を埋め合ったもの全てが、紙屑のように解体されていく。

その後、数分間男たちは一言も発さず、壊すという「作業」を終え、近くに停めていたハイエースに飛び込んでさっていった。


再び静寂が訪れる。


残されたのは、ひっくり返った椅子と、泥水のように広がるどて焼きの成れの果てだけだ。

姉は、震える手で、割れた皿の破片を拾い上げた。


指先に赤い血が滲む。


その熱さだけが、失われた日常の最後の名残だった。

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