破水
タイ・バンコク郊外。
近代的な建物とは言い難いが、最低限の清潔さと秩序を保ったNGOの施設。
ここは、バラック育ちの孤児や売春婦の子を対象にした教育支援施設。非正規雇用の現地スタッフと、外国人ボランティアが日々の業務を支える。
東川愛は、その中でも特に信頼される存在だった。妊娠後期に入っても、愛は雑用を厭わず、朝から晩まで働いていた。洗濯、配膳、帳簿整理、そして一番大切にしていたのが読み聞かせだった。
「今日は“いないいないばあ”にしようか」
「しってる! どうぶつがたくさんでるやつ!」
「ふふ、そうね」
その日、午前中の活動が終わった休憩時間。
スタッフ用のラウンジに、現地新聞が無造作に置かれていた。それを見た二人のスタッフが声を潜めて話し始めた。
「これ、見て……加賀谷慎吾、って名前。日本人の選手」
「うそ、あの慎吾くん? 愛さんの……?」
「間違いないよ。写真ついてる」
「すごいわね、日本で試合してるなんて」
愛はラウンジの壁越し、複合機の前で印刷をしていた。
彼女の耳に、その声はクリアに届いていた。
「でも……覚えてる? あの日」
「うん。愛さんがいきなりいなくなって」
「夜通し、慎吾くんも探して走りまわってた」
「私たちも“黙ってて”って現金もらったじゃない。あれ、誰が配ったか知ってる?」
「商社の男よ。たぶん日本人。警察にも話が通ってたって裏で……」
プリンターが“ガッガッ”と紙詰まりを起こしたとき、愛の手は震えていた。
心臓の音が大きくなった。耳の奥がキーンと鳴る。目の前がぼやける。
あの夜、突然の拉致。車に押し込まれ、脅され、どこかの邸宅に閉じ込められた記憶。
(私は……三崎に……)
心の底に沈めていた疑念が、暴力のように浮かび上がったその瞬間――下腹部を斬るような痛みが走った。
「……っ!」
愛の足元に、水が滴った。破水だった。
「ちょ、ちょっと! 誰か! 愛さんが……!」
「うそ……!」
誰かが走り、誰かが抱え、誰かが叫ぶ。だが、愛の意識はそれよりも深く沈んでいた。
(私は……誰を信じて生きてきたの?)
その問いに、誰も答えられないまま。新たな命が、産まれようとしていた。
雨が降っていた。
タイ特有のスコール――一気に降って、一気に去るはずの雨は、この夜ばかりはしつこく、まるで運命のように降り続いていた。照明の落ちた産婦人科の一室。点滴の管、無骨な金属ベッド、湿った床。
「もうすぐです、頑張って!」
「ヒッ、……ぁ、ッ、ああッ……!」
愛は叫んだ。
誰のために産むのか、誰に託すのか、自分でももう分からなかった。
やがて――
オギャァアアアア……オギャア……!
双子だった。二人とも男の子。それぞれ、似ているようで、少しずつ違う顔をしていた。
助産師がタオルに包み、次々と愛の腕に乗せる。
「元気な、男の子たちですよ」
だが、愛の表情は――浮かない。目は笑っていない。唇は動かず、ただ、涙が頬を伝った。
(この子たちは……本当に、“望まれて”産まれたんだろうか)




