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血環 ー西成ハグレモノー  作者: 京田 学
六章 バンコク・ゼロ
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破水

タイ・バンコク郊外。

近代的な建物とは言い難いが、最低限の清潔さと秩序を保ったNGOの施設。

ここは、バラック育ちの孤児や売春婦の子を対象にした教育支援施設。非正規雇用の現地スタッフと、外国人ボランティアが日々の業務を支える。


東川愛は、その中でも特に信頼される存在だった。妊娠後期に入っても、愛は雑用を厭わず、朝から晩まで働いていた。洗濯、配膳、帳簿整理、そして一番大切にしていたのが読み聞かせだった。


「今日は“いないいないばあ”にしようか」


「しってる! どうぶつがたくさんでるやつ!」


「ふふ、そうね」


その日、午前中の活動が終わった休憩時間。

スタッフ用のラウンジに、現地新聞が無造作に置かれていた。それを見た二人のスタッフが声を潜めて話し始めた。


「これ、見て……加賀谷慎吾、って名前。日本人の選手」


「うそ、あの慎吾くん? 愛さんの……?」


「間違いないよ。写真ついてる」


「すごいわね、日本で試合してるなんて」


愛はラウンジの壁越し、複合機の前で印刷をしていた。

彼女の耳に、その声はクリアに届いていた。


「でも……覚えてる? あの日」


「うん。愛さんがいきなりいなくなって」 


「夜通し、慎吾くんも探して走りまわってた」


「私たちも“黙ってて”って現金もらったじゃない。あれ、誰が配ったか知ってる?」


「商社の男よ。たぶん日本人。警察にも話が通ってたって裏で……」


プリンターが“ガッガッ”と紙詰まりを起こしたとき、愛の手は震えていた。

心臓の音が大きくなった。耳の奥がキーンと鳴る。目の前がぼやける。

あの夜、突然の拉致。車に押し込まれ、脅され、どこかの邸宅に閉じ込められた記憶。


(私は……三崎に……)


心の底に沈めていた疑念が、暴力のように浮かび上がったその瞬間――下腹部を斬るような痛みが走った。


「……っ!」


愛の足元に、水が滴った。破水だった。


「ちょ、ちょっと! 誰か! 愛さんが……!」


「うそ……!」


誰かが走り、誰かが抱え、誰かが叫ぶ。だが、愛の意識はそれよりも深く沈んでいた。


(私は……誰を信じて生きてきたの?)


その問いに、誰も答えられないまま。新たな命が、産まれようとしていた。



雨が降っていた。

タイ特有のスコール――一気に降って、一気に去るはずの雨は、この夜ばかりはしつこく、まるで運命のように降り続いていた。照明の落ちた産婦人科の一室。点滴の管、無骨な金属ベッド、湿った床。


「もうすぐです、頑張って!」


「ヒッ、……ぁ、ッ、ああッ……!」


愛は叫んだ。

誰のために産むのか、誰に託すのか、自分でももう分からなかった。

やがて――


オギャァアアアア……オギャア……!


双子だった。二人とも男の子。それぞれ、似ているようで、少しずつ違う顔をしていた。

助産師がタオルに包み、次々と愛の腕に乗せる。


「元気な、男の子たちですよ」


だが、愛の表情は――浮かない。目は笑っていない。唇は動かず、ただ、涙が頬を伝った。


(この子たちは……本当に、“望まれて”産まれたんだろうか)

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